タイトル未定2026/10/24 07:13
ぼくのお母さんは、べんごしです。
「おかんのバカ」
宿題の作文「ぼくの(わたしの)お父さん(お母さん)」を書いていたぼくがつぶやくと、ダイニングテーブルでマニキュアを塗っていた母が、手を止めて振り返った。
4LDKのマンションのリビングダイニングには、コーヒーの良い香りが充満している。
家事をすることを完全に放棄した真っ赤な爪が入れるのは、いつも個別包装のドリップ式だ。
「小沢んちの母ちゃんが、胸のでかい弁護士なんて、おかしいって」
補足説明をしてやると、振り返った姿勢のままで、母は大きく肩をすくめる。
「ははん。胸のでかい女は男のことばっかり考えている、イコール勉強をしない、イコール弁護士にはなれない、イコールあの美しいバストは偽物じゃないかっていう理屈ね。短絡的。そんなIQもEQも低い親を持つ子供なんて、友達やめちゃいなさい」
母はそう言うと、ぼくの夜食にバナナを差し出した。息子の好物がバナナだと知っての所業だが、ただ単に料理をするのが面倒くさいだけというのが真実だ。
小沢の母が、果たしてそんな理由で件のセリフを発したのかは不明だが、母は手にしたバナナをぶらぶらと揺らしながら、よくわからない推理をなおも続ける。
「だいたい、海外ドラマを見てごらんなさいよ。アリー・マクビールなんて弁護士だけど、男のことしか考えてないじゃない。エロスと頭脳は反比例しないものよ」
ちなみに「アリー・マクビール」は、母のお気に入りの古い海外ドラマの主人公だ。主人公は弁護士だが、法曹関係のインテリジェンスな話ではなく、破天荒なラブコメディーが繰り広げられるといった内容だった、と思う。たしか。
すなわち、ある意味ファンタジーなのだが。
いっこうにバナナを受け取らないぼくにしびれを切らした母は、シュガースポットの浮いたそれを、ぼくの寄りかかっているソファーのひじ掛けに置きつつ、ついでに「中途半端な関西弁を使うと、ネイティブな関西人に嫌われるわよ」と付け足した。
わかりきったことを指摘されると、無意味に腹が立つ。ぼくは不機嫌になった。そしてそんなぼくの不機嫌の本当の理由を、EQはともかくIQは高いのだろう母は、正確に指摘した。
「で、誰とケンカしたの?」
それはすなわち、図星なのだ。
「ケント」
「小柳健人君ね。たしかお父さまが白金大学の脳科学の教授だったかしら? ちょっと変わり者の。ケンカの理由は何?」
親の職業は関係ないと思うが。ぼくは、ここぞとばかりに愚痴った。
「ぼくがあいつのニンテンドースウィッチを壊しちゃったんだ。わざとじゃないし、すぐに謝ったよ、当然。それなのにあいつ、腹いせにぼくがリオちゃんを好きなことをばらしちゃったんだ。みんなの前でだよ?リオちゃん、口をきいてくれなくなった。ぼくの顔見ると、すぐ逃げちゃうんだ」
「柚木里桜ちゃん。確かお母さまが、美容系インフルエンサーだったわね」
息子の初恋の女の子に、世間一般の母親が持つような興味は一切示さず、母はなぜか隣の書斎に消えた。すぐに戻ってきた母は、電卓を手にしている。
「それで、仲直りしたいの? リベンジしたいの?」
わが母親ながら、行動が読めない。ぼくは少し考えてから、正直な気持ちを答えた。
「どっちも」
「だったら簡単よ」
母は電卓をたたいた。
「ニンテンドースウィッチとやらが、いったい幾らするか知らないけれど、三年落ちとして時価一万円相当としましょうか。愛用のゲーム機を壊された精神的苦痛に対する慰藉料を金銭換算しても、せいぜい二十万円ってところね。それに引き替えあんたの損害をごらんなさいよ? みんなの前で分不相応な恋心を暴露されて名誉を棄損され、好意を寄せる相手からは敬遠され、恋愛関係が破綻したとでも大風呂敷広げてもいいわ。少なく見積もっても、損害賠償額として百万円は下らないわね」
母はいわゆるひとつの「ドヤ顔」をして、電卓を突き出した。
母のアドバイスは、いつもよく理解できない。難しい言葉や数字がたくさん出てきて、ぼくはじれったくなった。
「だから?」
「つまりこう言えばいいのよ。ぼくの請求分の七九万円は、まけてやるってね」
結論に飛びつくぼくに、そう言って母は花のように笑った。
ぼくは今の母の論理を頭の中のメモ帳に記し、宿題を放り出したまま、夜食のバナナを手にとって自室に戻った。
ぼくのお母さんは、べんごしです。
料理も、そうじもしません。
べんごしの仕事はいそがしくて、帰ってくるのはいつも八時すぎです。
そして、おはだのために、十時にはねなければいけないから、時間がないのです。
でもいつも、ぼくのそうだんにのってくれます。
「ごめん」
二限目おわりの二〇分休みにぼくがケントに声をかけると、ケントは机の下から取り出したサッカーボールを仲間に投げてから、ぼくに向きなおってくれた。
ケンカ中なので無表情。
ケンカ中の無表情は、ぼくの差し出した映画のチケットで、欠けた歯のおちゃめな笑顔に変わる。
ぼくはケントの笑顔が好きだ。目じりの下がった、スマイルマークのような目が特に好きだ。
結局ぼくは、母の七九万円理論を採用しなかった。
ぼくはケントの見たがっていたアニメ映画のチケットを買い、それを添えて素直に謝ることにした。
物で解決するのもどうかと思うし、ぶっちゃけていえば新品のニンテンドースウィッチを買って返すだけの金銭的余裕もあったのだが、小学生料金一枚千円の映画のチケット二枚分が、ぼくの誠意の答えだった。
それが、ぼくの理論。
「おれ、今日塾なんだけど、いつ行く?」
そしてケンカ相手を、何の躊躇もなくペアチケットの相方に選ぶところが、ケントの良いところなのだ。
「ぼくは、明日スイミング。土曜にしようよ、映画終わったら、フードコートで、ぼくたこやき食いたい」
「オッケー」
予鈴が鳴った。ケントはサッカーをしそこなったが、お気に入りのアニメの映画チケットを手にしてご機嫌だ。もうすでに、ケンカのことなど頭にない。案ずるより産むがやすし。仲直りなんて、こんなものかもしれない。
母の助言は全く役に立たなかったけど、母にもらったばかばかしい弁護士の理論は、ちゃんとぼくの仲直りの役に立った。無茶苦茶だろうと、お色気過多だろうと、誰に何と言われようとも、ぼくにとって母はスペシャルな存在なのだ。そんな母を、ぼくはいつも尊敬している。
了




