スマッシュ・キングダム
午前二時。
丑三つ時と呼ばれるこの時刻、世界は沈黙に包まれているはずだった。
だが、県立王竜高校の第二体育館だけは例外だ。
そこには、まるで巨大な杭打ち機が地面を穿つような、重く、鈍く、そして暴力的な轟音が響き渡っていた。
ズドォォォォォン!!
コンクリートの床が微振動し、埃が舞う。
音の発生源は、天井から太い鎖で吊るされた、四トンオントラック用の巨大な古タイヤだ。
そのタイヤに向かい、汗だくになりながらラケットを振り続けている少年がいた。
武田カケル。
王竜高校バドミントン部の一年生であり、部内ヒエラルキーの最底辺に位置する「万年雑用係」である。
「へへっ……! まだまだぁ! こんなもんじゃねえぞ、俺の魂は!!」
カケルが握っているのは、通常のラケットではない。
フレームに鉛のテープを何重にも巻きつけ、ガットの代わりに鉄板のような硬度の特殊ワイヤーを張った、総重量五百グラムを超える「鉄塊」だ。
普通の人間が振れば手首を粉砕しかねないその凶器を、カケルは満面の笑みで振り回していた。
バドミントンとは、繊細なスポーツだ。
手首のしなり、指先の感覚、ミリ単位のコースの打ち分け。それらが勝敗を分けると言われている。
だが、カケルにはそれがない。
入部初日の基礎打ちで、彼の放ったシャトルはコートを遥かに飛び越え、二階席のギャラリーの手すりに突き刺さった。
以来、彼は「ホームラン王」という不名誉な称号を与えられ、半年間ラケットを握ることすら許されず、ひたすらモップ掛けと球拾いに明け暮れていた。
「おい武田、また場外かよ! 野球部に行け!」
「お前のバドミントンはスポーツじゃねえ、ただの破壊活動だ!」
先輩たちの嘲笑が脳裏をよぎる。
だが、カケルはタイヤに向かってニカッと歯を見せた。その瞳に、一点の曇りもない。
「言わせておけばいいさ。ちまちましたコース狙い? 相手の裏をかくフェイント? そんなの、俺の性分じゃねえ!」
カケルは踏み込む。
シューズのソールが悲鳴を上げ、摩擦熱で焦げ臭い匂いが立ち込める。
全身の筋肉をバネのように収縮させ、足先から伝わる運動エネルギーを腰、背中、肩、肘、そして手首へと爆発的に伝達させる。
「防御なんていらねえ。回避なんて必要ねえ。相手がラケットを出した瞬間に、その腕ごと吹き飛ばせばいいんだろ!?」
ゴガァァァンッ!!
インパクトの瞬間、タイヤがひしゃげ、鎖が切れるのではないかというほどの悲鳴を上げた。
カケルは知っていた。
この競技の本質は「球の打ち合い」ではない。「魂の削り合い」だ。
誰よりも速く。
誰よりも重く。
誰よりも熱く。
相手の心が「折れる」音を聞くまで、ただひたすらに叩きつける。
それが、武田カケルの見つけた「王道」だった。
「待ってろよ、全国の強え奴ら! 俺がこの『轟音』で、お前らの常識をぶっ壊してやる!」
深夜の校舎に、根拠のない、しかし太陽のように灼熱した少年の宣言が吸い込まれていった。
時は経ち、夏のインターハイ予選、県大会準決勝。
会場となる総合体育館は、サウナのような熱気と、数百人の部員たちの掛け声で満たされていた。
名門・王竜高校のベンチ裏では、緊急事態が発生していた。
「おい、嘘だろ……?」
「マジだ。佐藤さんの足首、完全に逝ってる」
第二シングルスに出場予定だったレギュラー選手が、アップ中に着地を失敗し、靭帯を損傷したのだ。
王竜高校は少数精鋭のエリート集団。遠征メンバー以外で会場に残っている控え選手は一人もいない。
いや、一人だけいた。
荷物持ちとして帯同していた、サイズの合わないブカブカのユニフォームを着た一年生が。
「監督! 俺に行かせてくれ!」
武田カケルが、身を乗り出して叫んだ。
監督の眉間に深い皺が刻まれる。
「武田……。お前、公式戦のルールは把握しているのか?」
「細かいことはやりながら思い出す! 要は、このネットの向こう側にシャトルを叩き込めば勝ちだろ!?」
「……お前なぁ」
「頼む監督! 俺の体、今すげえ熱いんだ! ベンチで見てるだけで沸騰しそうなんだよ!」
カケルの目は、獲物を見つけた肉食獣のように輝いていた。
監督は深いため息をついた後、覚悟を決めたように頷いた。
「……棄権して不戦敗になるよりはマシか。いいか武田、暴れてこい。ただし、ラケットを破壊したら即退部だ」
「おう! 任せとけ!」
カケルがコートに入る。
対戦相手は、県内でも指折りの守備力を誇る西条高校の主将、金子。通称「鉄壁の金子」。
彼はカケルの姿を見て、鼻で笑った。
「王竜も落ちたもんだな。あんな素人を出すとは。『ホームラン王』の噂は聞いているぞ」
金子はチームメイトに目配せをした。
(あいつはバドミントンを知らない。レシーブは素人以下だ。徹底的にボディ周りと足元を狙え。自滅させてやる)
「ラブ・オール・プレー!」
審判のコールと共に、試合が始まった。
金子のサーブ。ショートサーブがきっちりとネットギリギリに入ってくる。
カケルがドタバタと突っ込み、高く打ち上げる。
「うおりゃあ!」
ただのロブだ。しかもコート奥のアウトラインギリギリ。
(やっぱりな。力加減ができていない)
金子は冷静にシャトルの落下点に入り、鋭いカットスマッシュを放った。
狙いはカケルの右足つま先。
バドミントンのセオリーにおいて、最もレシーブが難しいとされる「足元への攻撃」。
誰もが思った。これで決まりだ、と。
カケルが体勢を崩す。膝が地面につくほど深く沈み込む。
普通の選手なら、ラケット面を作って、ネット前に小さく落とすのが精一杯の場面だ。
だが、カケルは笑った。
「へへっ……いい球だなぁ! ゾクゾクするぜ!」
カケルは、床スレスレにあるシャトルに対し、ラケットを下から出すのではなく、大きく振りかぶった。
会場の時が止まる。
その体勢からスマッシュ? 物理的に不可能だ。床を叩くだけだ。
「うおおおおおっ!! どっせい!!」
ドゴォォォォォン!!
爆発音。
耳をつんざくような破裂音と共に、金子の視界からシャトルが消滅した。
いや、消えたのではない。速すぎたのだ。
カケルのラケットから放たれた一撃は、ネットの白帯を掠め、金子の顔の横を通り過ぎ、コートの最奥に突き刺さっていた。
「な……ッ!?」
金子は一歩も動けなかった。
「し、下からの球を……スマッシュで打ち返しただと!?」
会場が騒然とする。「なんだ今の!」「ありえない、重力が仕事してねえぞ!」
カケルはラケットを担ぎ、鼻の下を親指で擦った。
「驚いたか? これが俺の『挨拶』だ! 防御? 関係ねえよ。打たれたら、倍の威力で叩き返す! それが俺のバドミントンだ!」
そこからは、スポーツの常識を超えた「処刑」の時間だった。
金子は必死に戦術を組み立てた。カケルのバックハンドを狙う。ネット前に落とす。左右に振る。
だが、その全てがカケルの「暴力」の前に無力化した。
ネット前のヘアピン?
カケルは飛び込みながら、床ごと叩くようなプッシュでねじ伏せる。
バックハンド?
カケルは驚異的な背筋力で強引に回り込み、フォアハンドのスマッシュに変えてしまう。
ロブ、ドライブ、ヘアピン。全ての球種に対し、カケルが出す答えは一つ。
**「フルスイング」**のみ。
「ひっ……!」
金子の顔が引きつる。
ラケットを出すのが怖い。触れば腕ごと持っていかれそうな重い球威。
シャトルが飛んでくるたびに、金子の脳裏に「敗北」の文字がよぎる。
精密機械のようだった金子のレシーブは乱れ、最後はコートの真ん中で立ち尽くした。
「ゲームセット! ウォン・バイ・武田!」
圧倒的な勝利。
カケルは汗だくの顔で、金子に手を差し出した。
「へへっ、楽しかったぜ! またやろうな!」
金子は震える手でその手を握り返すことしかできなかった。
この日、会場中の人間が知ることになった。王竜高校には、戦術も定石も通用しない「破壊の化身」がいることを。
決勝戦。
対戦相手は、全国大会三連覇中の絶対王者・帝王大付属高校。
その強さは、個々の能力もさることながら、冷徹なまでの「データバドミントン」にあった。
王竜高校の控室は、葬式のような空気に包まれていた。
第1シングルスに出場した主将・堂島が、試合後に救急搬送されたからだ。
堂島は膝の半月板を損傷した状態で強行出場し、帝王のエースを相手に奇跡的な勝利をもぎ取った。
だが、その代償として、彼のアキレス腱は断裂し、選手生命は絶たれた。
「キャプテン……」
部員たちが涙を流す中、カケルだけがじっと床を見つめていた。
その肩が震えている。恐怖ではない。悔しさでもない。
行き場のない激情が、マグマのように体内で渦巻いていた。
ガラリ、と扉が開く。
松葉杖をついた堂島が、病院に行くのを拒否して戻ってきたのだ。
「泣くな、お前ら。まだ試合は終わってねえぞ」
「キャプテン! でも、足が……!」
「俺の足なんてどうでもいい。それより武田」
堂島がカケルを呼ぶ。
カケルが顔を上げる。その瞳は、怒りに燃えていた。
「武田。お前、これから戦う相手を知ってるか?」
「……帝王の主将、神宮寺。『絶対防御』の男だろ」
「そうだ。あいつは全ての攻撃を無効化する。お前のスマッシュも、普通に打てば確実に拾われる」
堂島は、自身のラケットバッグから一本のラケットを取り出した。
グリップテープがボロボロになるまで使い込まれた、堂島の魂そのものと言えるラケット。
ガットのテンションは極限まで高く張られ、芯を外せば手首を痛める「諸刃の剣」だ。
「これを使え」
「え……?」
「俺の代わりに、こいつで神宮寺の『壁』をぶち破ってこい」
カケルがおずおずとラケットを受け取る。ずしりと重い。
それは単なるカーボンの質量ではない。堂島が三年間の全てを懸けて積み上げてきた想いの重さだ。
「いいか武田。スマッシュってのはな、ただ速ければいいってもんじゃねえ」
堂島の手が、カケルの肩を強く掴む。
「相手の心を砕くために打つんだ。」
「心を……?」
「そうだ。『防御したら腕が折れる』、『触れたら死ぬ』。そう思わせるほどの殺気を込めろ。理屈じゃない、相手の本能に恐怖を刻み込むんだ。そうすれば、相手は必ずミスをする」
カケルはラケットを握りしめた。
柄を通じて、堂島の熱が流れ込んでくるのがわかった。
「……わかったぜ、キャプテン。あんたの想い、全部俺が背負ってやる」
カケルはニカッと笑った。いつもの馬鹿で、最高に熱い笑顔で。
「俺たちのバドミントンが最強だってこと、あの『王様』に教えてやるよ!」
決勝戦、最終第3シングルス。
勝った方が全国大会行きを決める大一番。
コートに立つのは、帝王の主将・神宮寺と、王竜の「補欠」・武田カケル。
「君のデータは全て頭に入っている」
神宮寺は冷ややかな目でカケルを見下ろした。
「力任せのスマッシュしか能がない単細胞。対策など容易い」
試合開始直後から、神宮寺の戦術は徹底していた。
「ノーロブ戦法」。
シャトルを一切高く上げない。ネットの白帯よりも低い位置で、高速のドライブとヘアピンのみでラリーを展開する。
カケルの武器である「上からのスマッシュ」を物理的に封じる作戦だ。
「くそっ、打つ球がねえ!」
カケルが焦る。
低い球を無理やり打とうとしてネットにかける。我慢できずに上げれば、神宮寺のカウンターが待っている。
第1ゲームは、カケルの惨敗だった。スコアは21-5。手も足も出ない完封劇。
「終わりだな。野獣は檻の中で大人しくしていることだ」
コートチェンジの際、神宮寺が囁く。
だが、カケルは下を向いていなかった。
堂島から託されたラケットを、愛おしそうに撫でている。
(キャプテン。このラケット、すげえよ。あんたの声が聞こえてくるみたいだ。『まだだ、もっと熱くなれ』ってな)
第2ゲーム。
神宮寺は変わらず低空戦を仕掛けてくる。
ネット前、神宮寺が完璧なスピンヘアピンを落とした。シャトルが不規則に回転しながら、ネットを越えてすぐ真下に落ちる。
触ることすら困難な魔球。
普通の選手なら、一か八かヘアピンで返すしかない。
だが、カケルは踏み込んだ。
床板が割れるほどの踏み込み。そして、ネットまで数センチの至近距離で、ラケットを大きく振りかぶった。
「馬鹿な! その距離で振ればアウトだ! それにネットに当たる!」
神宮寺が嘲笑う。
しかし、カケルの目はシャトルを見ていなかった。
見ているのは、神宮寺の顔面。そして、その目前に構えられたラケット。
(心を砕くんだろ? だったら……!)
「どけぇぇぇぇっ!!」
ガギィンッ!!
技術無視の至近距離プッシュ。
カケルはシャトルを打つと同時に、フォロースルーの勢いで「殺気」を飛ばした。
神宮寺は反射的にラケットを出して防御したが、シャトルは彼のラケットのフレームを弾き飛ばし、遥か彼方の観客席まで飛んでいった。
アウトだ。失点はカケル。
だが、神宮寺の表情が凍りついていた。手が痺れて感覚がない。
(なんだ今の重さは……!? 鉄球でも打ってきたのか!?)
カケルはニッと笑い、ラケットを神宮寺に向けた。
「へへっ、いい音したな! 次はラケットごと貫くぜ?」
そこから、試合の空気が変わった。
カケルは、どんな低い球でもフルスイングの構えを見せる。
神宮寺の脳裏に、先ほどの衝撃が蘇る。
(打たれたくない……あの構えを見たくない!)
本能的な恐怖。生物としての防衛本能。
それが、神宮寺の精密機械のようなコントロールを狂わせた。
――ほんの数センチ。恐怖に押された神宮寺の手元が浮き、シャトルが高く上がった。
「待ってたぜ、その球をぉぉぉっ!!」
カケルが吠えた。
それは、ただのミスショットではない。堂島の想い、チームの願い、そしてカケル自身の魂が呼び寄せた、勝利への架け橋だ。
逃げのロブ。神宮寺が恐怖に負けて上げてしまった、絶好のチャンスボール。
カケルが宙を舞う。
誰よりも高く。照明の光を背負い、その影がコート全体を覆い尽くす。
背中の筋肉が悲鳴を上げるほど弓なりにしなり、全身全霊の力が右腕の一点に集中する。
その背後には、まるで巨大な鬼神が金棒を振り上げているような幻影が見えた。
(キャプテン、見ててくれ! これが俺たちの……!)
「防御? 関係ねえ!!」
神宮寺は必死にラケットを構える。「絶対防御」のプライドをかけて。両手でグリップを握りしめ、全身で壁を作る。
だが、今のカケルにとって、壁など薄紙に等しい。
「そんなもん、ぶち壊してやるぅぅぅぅっ!!」
ズ・ドォォォォォン!!!!
インパクトの瞬間、空気が破裂した。
放たれた一撃は、もはやシャトルではない。黄金の光を纏った雷となって神宮寺に襲いかかる。
神宮寺のラケットが、シャトルを捉えた。しかし――
バキィッ!!
乾いた音が響き、神宮寺のラケットのフレームがへし折れた。
威力は止まらない。折れたラケットを弾き飛ばし、シャトルはそのまま神宮寺の後方の床に突き刺さった。
シーン……。
静寂。
数百人の観客、審判、両チームの選手たち。誰もが言葉を失い、ただ一点を見つめていた。
床に突き刺さったシャトル。そのコルクは粉々に砕け散り、羽根は無残に散らばっていた。
絶対王者の「盾」が、たった一撃の「矛」によって粉砕された瞬間だった。
「……ゲームセット! ウォン・バイ・王竜高校!」
審判の声が裏返り、会場に響く。
その瞬間、地鳴りのような大歓声が爆発した。
「うおおおおおっ! やったあああ!!」
「武田ァァァ!! お前最高だァァ!!」
王竜高校の部員たちがコートになだれ込んでくる。
神宮寺は腰を抜かしたまま、呆然とカケルを見上げていた。「……化け物だ」と呟いて。
もみくちゃにされる中心で、カケルはボロボロになった堂島のラケットを、天高く突き上げていた。
汗と涙でぐしゃぐしゃの笑顔。
太陽のようなその男は、ありったけの声で叫んだ。
「見たかぁぁぁ! これが、俺たちのバドミントンだぁぁぁーーっ!!」
戦術も、技術も、定石も、全てをねじ伏せる圧倒的な「個」。
その日、コートには新たな伝説が刻まれた。
すべてをスマッシュのみで切り開く、最強の破壊者。
武田カケルと王竜高校の「天下統一」への旅は、まだ始まったばかりである。
(完)




