ダンボールの中の勇気
俺の名は松永平、サラリーマンだ。
勤める会社は世間で言うブラック企業だろう。
休みはほぼなく、残業の毎日。
それでも気が弱い俺は「辞めます」とは言えない。
言えたとしても、上司に何か言われればすぐ取り消してしまう。
そんな自分の弱さが嫌いだった。
あれは桜の蕾が開きかける3月。
珍しい休日、懐かしい河川敷を歩いていた。
中学、高校時代、親と喧嘩するとよくここに来た。
車も人も少ない静かな場所。
久しぶりに歩くと、懐かしさが胸に広がった。
草むらから小さな声。
近づくと、ぽつんと置かれたダンボールの中に、夜空のような黒い子猫がいた。
一生懸命鳴くその声は弱々しいのに、力強く感じた。
俺は弱い。自分の意思も持てず、行動もできない。
そんな自分を変えたかったのかもしれない。
ダンボールごと猫を連れて帰った。
家で体を洗うと、痩せた体に胸が締め付けられた。
汚れを落とし、怪我がないことに安堵。
タオルで拭くと、毛はたんぽぽのようにふわふわになった。
正方形のダンボールに戻し、動物病院へ。
車中、猫は幸せそうに寝ていた。
その寝顔を見ると、仕事の疲れが吹き飛んだ。
獣医師の若いお兄さんに預けると、「怪我もなく、元気な男の子。もう乳離れもしてるよ」と笑顔で言われた。
安心してキャットフードやトイレ、ケージを買って帰った。
名前は、黒い毛から「羊羹」とつけた。
羊羹は猫じゃらしが大好きで、窓辺の日差しで寝るのが好きだった。
夜中に暴れるのは困ったが、毎日が幸せだった。
羊羹のおかげか、俺は変わった。残業を断れるようになった。
初めて上司に「今日は帰ります」と言った時、心臓が跳ねた。
羊羹の力強い鳴き声を思い出し、震える声を押し出した。
上司は「お前の価値はない」と怒鳴ったが、羊羹を思うと耐えられた。
10年が経った。羊羹との誕生日には、毎年ケーキのクリームを少し分けた。
羊羹はそれが大好物だった。でも、ある夜、残業で帰りが遅くなった。
羊羹は最近体調が優れなかったが、獣医師は「特に問題ない」と言っていた。
嫌な予感がしたが、家に着くと、羊羹は死後硬直が始まっていた。
何が起きたかわからなかった。羊羹を抱え病院に走った。
獣医師は「脳梗塞だ」と告げた。
涙が止まらず、獣医師の励ましも耳に入らなかった。
家に戻り、羊羹のケージを握りしめた。
指が痺れても離せなかった。
羊羹の火葬の日、細かった体は大きく育っていた。
涙が枯れるまで泣いた。骨は海に撒いた。
羊羹はあの世でも走り回っているだろうか。
その後、俺はまた仕事漬けに戻った。ミスが増え、上司に怒鳴られ、残業を断れず、体は痩せていった。「またあの頃に戻っちまった。羊羹に笑われるな」と呟き、会社の冷たい机で寝た。
夢に羊羹が現れた。
桜咲く河川敷を走り回り、俺を見て言った。
「拾ってくれて嬉しかった。最後は一緒にいれなかったけど、大好きだったよ。また絶対会おうね!」
目が覚めると、冷たい机が温かく感じた。
ある日、休みにあの河川敷を歩くと、羊羹そっくりの子猫がダンボールの中にいた。
放っておけず、連れ帰った。
体を洗うと涙が溢れた。
獣医師は「羊羹くんにそっくりだね!」と笑った。
ケージは羊羹のものを使い、名前は「あんこ」にした。
羊羹は唯一無二だから、同じ名前はつけられなかった。
俺は会社を辞めた。上司に「お前を雇う会社はない」と言われたが、
羊羹の応援を感じ、言葉を絞り出した。
「辞めます」。
在宅ワークに就くまで何社も落ちたが、あんこを見ると頑張れた。
あんこは羊羹と似ていたが、甘えん坊で病院が苦手だった。
獣医師は「羊羹とあんこは平さんに会いに来たんだな」と笑った。
あんこと暮らし、8年。生活が安定し、桜を見に行った。
あんこは外が好きだった。
16年経つと、あんこは動かなくなり、寝ている時間が長くなった。
それでも撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。
最後は俺の腕の中で、窓辺の日差しの中で静かに息を引き取った。
後悔はなかった。
骨は羊羹と同じ海に撒いた。獣医師に伝えると、彼は涙を浮かべ「ありがとう」と呟いた。
彼も羊羹とあんこを愛していた。
2年後、彼は東京の病院に転勤。
最後は会えなかったが、元気ならいい。
1年後、俺の体調は悪化した。持病が悪化していたようだ。
死ぬ直前、羊羹とあんこが俺の上で寝ている気がした。
「俺は二人に助けられたな」。
桜を見ながら目を閉じた。あの世で羊羹と遊び、あんこを愛でる。きっと寂しくはないだろう。