いちご君に振り回される
『月曜日の朝』というのはいつだって憂鬱だ。でも、今日は少しだけ違った。
――いちご君とどんな顔をして会えばいいの。いや、別に変なことはしていないんだからいつも通りでいいよね。そうよね。うん。
妙な緊張感を覚えながら、首からさけているIDカードを端末にタッチして出社する。
「おはようございます」
すれ違う人たちとあいさつを交わしているうちに、平常心を取り戻した。
――この調子でいちご君とも普通に
「あ、亜紀さんだ。おはようございます!」
「っ!」
今日に限って、マーケティング部のフロアに入って最初に目があったのがいちご君。彼の周りには私と同期の田中智子と、私より一年先輩の大石勝がいた。智子は毎月美容室に通っている美容(髪)オタク。今はアッシュブラウンのロングだ。勝先輩はマッシュルームカット(ミルクティーブラウン)と黒ぶち眼鏡が特徴。ちなみに私はずっと黒髪ショート。いちご君(ON)はダークブラウンのでこだしビジネスヘアスタイル。見てのとおり、服装や髪色がわりと自由な職場なのだ。
「おはよう。朝から元気いっぱいね」
「はい!」
「さすが教育係」
「え?」
智子の言葉に首をかしげる。
「すぐに気づいたわね」
「え? なにを?」
「あら、気づいてたんじゃないの?」
「だから、なにを?」
「今日のいちご君、いつも以上に元気がいい……ご機嫌だと思わない?」
「そう?」
いちご君を見やれば、いちご君は「?」顔で小首をかしげている。
智子はそんないちご君を見て、ニヤニヤしている。隣にいる勝先輩も。
「いちご君、彼女できたんでしょ」
「そうなのかね? いちご君」
二人とも下卑た笑みを浮かべて、いちご君に詰め寄っている。
「ちょっと、智子止めなさいよ。勝先輩も」
「え~でも、気にならない?」
「ならない」
「本当に?」
「本当に」
つまらないという顔の二人に白い目を向け、呆れていると、いちご君のクスクス笑いが聞こえてきた。
「先輩方。残念ですけど、俺彼女いないっすよ。だから、安心してくださいね。勝先輩」
「お~! それはよかった……ってどういう意味だ~!」
「ははっ!」
怒ったフリをする勝先輩を見て、大口を開けて笑ういちご君。釣られて私と智子も笑った。
――やっぱりいちご君、今彼女いないんだ。彼女いたら私を泊めたりしないだろうしね。でも、女性慣れはしてたなあ……まあ、いちご君モテるし当たり前か。
一人納得していると皆いつの間にか散らばり、仕事の準備を始めている。私も自分のデスクについた。まずは、パソコンを立ち上げ、メールの確認。金曜日残業したおかげで滞っている仕事はない。急ぎの仕事もないようだし、今日は期日に余裕がある仕事を進めていくだけでよさそうだ。
順調に仕事を進め、お昼休憩の時間。先に休憩に入っていた智子が戻ってきた。
「じゃあ、行ってくるね」
「はーい」
お昼は会社近くのカフェ……ではなく定食屋へ。やっぱり食事はきちんととらないと、午後からも頑張れない。
「亜紀さん!」
後ろから声をかけられ、驚いて振り向く。
「いちご君? どうしたの?」
「お昼、俺も一緒にいいですか?」
「え、あー……うん。いいけど、定食屋でいい?」
「はい。亜紀さんと一緒ならどこでもいいんで」
「っ」
近くのカフェにならんでいる女性たちからの視線が痛い。制服がない会社だから絶対とは言えないけど……たぶん同じ会社の人たちだ。なんとなく見覚えがある。
「いちご君、わざわざ誤解を生むような言い回しやめてちょうだい。ただ仕事で聞きたいことがあるだけでしょ。別にそんな言い方しなくても教えてあげるから」
私はただの教育係ですよ~と匂わせる。
「それよりも早く行きましょ。時間がなくなっちゃう」
「あ、そうですね」
早足で定食屋へ向かった。窓際は避けて、席につく。
ここまでくれば大丈夫だろう。はあ、と溜息を漏らした。
「いちご君勘弁してよ~」
「え?」
わかっていない様子のいちご君を見て、ムッとなる。
「もう少しで誤解されちゃうところだったでしょ。あそこには会社の人たちもいたし、下手をしたら社内で私たちのことがうわさになるところだったのよ。そんなの困るでしょ?」
「困るんですか?」
「……え?」
まるで別人のような低い声色に驚いて顔を上げれば、思ったよりもすぐそばにいちご君の顔があった。しかも、ONじゃなくてOFFの方。雰囲気がさっきとは全く違う。なぜか胸がざわついて、慌てて視線を逸らす。
「こ、困るよ」
「すみません」
すぐに謝られてたじろぐ。
「い、いや、私は別にだけど……ほら、いちご君が困ると思って」
「俺は困りません」
「え」
思わずもう一度いちご君を見た。
「困りませんよ。俺は」
一瞬息の仕方を忘れた。
「……そ、そう。それで、どうして今日は一緒にご飯を? なにか用事?」
「はい。お金を、返そうと思って」
「お金……」
「この前亜紀さんが俺んちに泊まっもがっ」
慌てていちご君の口をふさぐ。次いで、周りを素早く見回した。
――よし。見覚えのある人はいないな。
確認してから手を放す。
「亜紀さん苦しかったです」
「あ、ごめん。えっと……そのお金だけど返さないでいいよ」
「いえ、あんなにもらえません」
「妥当な金額よ。迷惑料込なんだから」
「迷惑なんてかけられてません」
「かけたの。いいからもらっておきなさい」
「嫌です」
いちご君もなかなか頑固のようだ。
「わかった。じゃあ、今度はいちご君がなにか奢ってよ」
今日の分はもう買ってしまっているから、次の機会にでも……と言うつもりだった。
「じゃあ……今日の夜。行きませんか?」
「え?」
「ダメ、ですか?」
じっと見つめられる。ダメとは言いにくい雰囲気に口を閉ざす。
――ど、どうしよう。
いちご君はそっと目線を下へと下げた。
「一人のご飯って味気ないんですよね……」
憂いを帯びた表情。
「亜紀さんがいてくれたら、寂しくないのに……」
その一言が亜紀の中のナニカをくすぐった。
「わ、わかった。い、いいわよ」
「よかった。じゃあ、そういうことで。お先です」
いつの間に食べ終わったのか。自分が食べた分はきっちり片付け、店を出て行くいちご君。
一人残された私は敗北感を味わっていた。
「く、くそぅ。や、やられた」
どうもOFFのいちご君に弱い。ONのいちご君にはビシバシいえるのに……。
「よくないな~これ……気を引き締めないと」
おそらくまだあのギャップに慣れていないだけ。OFFのいちご君にいちいちドキドキするのもそのせい。そのうち慣れるだろう。
恋愛感情では、ない。というか、しばらくは無理だろう。主に元彼のせいで。
――いずれ結婚するもんだと思っていたんだけどな……。
学生の時のような激しい恋愛ではなかった。互いに仕事が中心で、恋愛は二の次。会える時に会う。大人の恋愛。それでも、私は彼を尊敬していたし、大切に思っていた。振られて頭が真っ白になる程度には。
――でも、彼は違ったらしい。ちょっと前から音信不通気味だったのも、今思えばそういうこと……だったんだろうな。なら、もっと早く言ってくれればよかったのに。
「いや……自然消滅よりはマシか」
最後の電話がアレだったっていうのは最悪だけど。電話越しに聞こえた、聞き覚えのない女性の声。あのせいでモヤモヤが残ってしまった。だからといって、いまさら元彼に聞くつもりはない。聞いたところで、振られた事実はなくならない。復縁したいとも思わない。あの瞬間、彼への気持ちは消えた。
――あんな電話で済ませていい相手だと思われているってことだもんね。……ふざけんな。
元カレに『嫉妬深い女』だとか、『未練がましい女』だと思われるのは絶対に嫌だ。
できればもう二度と会いたくない。
という私の願いは残念ながら神様に届かなかったらしい。
「亜紀……」
「雄二さん」
「え、もしかしてこの人が例の?」
「……」
約束通りいちご君と仕事終わりに食事に行こうとして、今度はあまり酔わないように居酒屋じゃない店に入ろうとしたのが悪かったのか……。鉢合わせてしまった。
私を見て目を泳がせる元彼と、元彼の腕に抱き着いて優越感を滲ませた目で私を見てくる女性。
そして、なにを考えているかわからない表情のいちご君と、ただただ己の不運さを恨むことしかできない私。