知らない場所と、知らないいちご君
まさか、こんな漫画やドラマみたいな経験を自分がするとは思っていなかった。
「え……ここ、どこ?」
知らない天井に、知らない部屋。室内の雰囲気的に一人暮らしの男の人の部屋っぽい。はっきり目が覚めると同時に、血の気が引いた。慌ててベッドから降り、己の体を確認する。昨日と変わらない服装。特に体に違和感もない。ホッと息を吐く。
「よかった~……って、いや、よくない。雄二になんて説明したら……」
と言いかけて、思い出す。そうだった。昨日、私振られたんだった……。
仕事が手につかなくなった私をいちご君が手伝ってくれて、その後お礼に二人で飲みに行って……それから……。
「あれ? ってことは、ここいちご君の家?」
きょろきょろと部屋の中を見回す。そして、首をかしげた。
――本当にいちご君の家?
イメージと違う。むしろ真逆だ。
私が知っているいちご君は元気いっぱいで、スポーツドリンクのCMが似合いそうな好青年。でも、この部屋はモノクロで統一されていて、無駄な物は一切置いていない……いちご君よりももっと年上の男性に似合いそうな部屋だ。
――え……もしかして昨日いちご君と別れた後、知らない人にお持ち帰りされた?
ない。とは言えない。
昨日の私はかなり飲んでいた。しかも、彼氏に振られたばかり。自暴自棄になってやらかした可能性はある。
「さい、あくっ」
とりあえず、今すぐここを出よう。
改めて室内を見回す。広い。うちなんかよりもよっぽど広い。
亜紀が寝ていたベッドから見てすぐ左手に扉、右奥にあるキッチンの後ろ側にも扉があった。
――玄関に通じてるのは……キッチン後ろの方かな。あ。私の鞄。
部屋の真ん中に置いてあるテーブル上。そこに亜紀の鞄はあった。
――うん。漁られた形跡もないし、スマホも財布もある。一応、お金を置いて。メモを残しておけば大丈夫よね。
手帳を破り、メモ代わりにしようとしたその時、ベッド横の扉が開いた。驚いて振り向く。扉から出てきたのはスウェットを着た長身の男性。ウェーブしている黒髪は軽く目元にかかっていて、隙間から見える目がなんだかいろっぽい。全体的にけだるげな雰囲気を身にまとった男性だ。
「亜紀さん。今起きたんですか?」
声色も見た目同様けだるげで、甘さを含んだ低音。
――い、いい声。でも、知らない声だ。
「だ…………誰?」
「「え?」」
一瞬の沈黙。
「誰って……ああ、そうか」
男性は一度俯くと、右手で下から上へと前髪をかき上げながら顔を上げた。あらわになる顔。その顔に浮かんでいるのは見覚えのある笑顔。
亜紀はパクパクと口を開閉させる。
「これならわかりますか?」
先程よりも高く、覇気のある声。
「ま、まさかいちご君?!」
「そうっすよ!」
にこにこ笑顔で頷くいちご君は、亜紀が知るいつものいちご君だ。
「い、いつもと違い過ぎてべ、別人かと思っちゃった」
「そうですよね。すみません。驚かせてしまって」
「ちょ、あ、謝らないで! 頭を上げて!」
いちご君は少しだけ顔を上げ、私の様子を窺うように上目使いで見てくる。
「……怒ってませんか?」
「怒ってない。っていうか、なんで怒るのよ。いちご君は怒られるようなことしてないでしょ」
「いや、なんていうかその……亜紀さんもさっき言ってたじゃないですか。別人かと思ったって」
「ん? ああ、まあ……」
「だからその、『騙してた』って思われちゃったかな……と」
「別にそんなこと思わなかったけど……それともいちご君は騙そうとしていたってこと?」
「まさか! ただ……会社の俺と家での俺が全くの別人っていう自覚はあるんで、そう思われても仕方ないかな……と」
「自覚はあるんだ」
「はい。素の俺のままだと社会人としてやっていくのは難しいと思ってて。だから、会社では意図的に明るく振る舞って、声も地声だと聞き取りにくいらしいのでトーンを上げてるんですけど。それで誰かを騙そうというつもりはなくて……その」
「つまり、ただの処世術ってことだよね?」
「処世術……はい! たぶんそれです」
「なら別に悪くないでしょ。ON・OFFの切り替えなんて皆少なからずしてることだし。実際、いちご君は社会人としてうまくやってると思うしね」
いちご君の顔がわかりやすくパッと明るくなる。
「あ、ありがとうございます!」
「別に事実を言っただけ。感謝されることでもないよ」
「そんなことないです。今、俺バレたのが亜紀さんでよかったと思ってます」
「そっか」
嬉しそうにほほ笑むいちご君に釣られて、笑みを浮かべる。
「あ、っていうか私こそごめんね。昨日の夜からずっと迷惑かけちゃって」
「いえ。俺の方こそすいません。亜紀さんの様子がおかしいこと、気づいていたのに。俺が途中で止めていれば……」
「いやいや、完全に私の自業自得だから。それにいちご君がいてくれなかったら、今頃どうなっていたことか。いちご君がいてくれて本当によかったよ」
「そ、それならよかったです」
照れくさそうに笑ういちご君。いつもどおりだけど、格好が違うせいか違和感を覚える。
「あー、えっと、いちご君?」
「はい」
「OFFモードでいいよ?」
「え?」
「今日は休日だし、ここはいちご君の家だからね」
「でも……」
「いいからいいから。その方が私も素を出しやすいし」
「亜紀さんがそう言うなら」
いちご君の表情が一変する。にこにこ笑顔からけだるげな表情へと。その変化の違いに思わず心の中で「おー!」と感心してしまった。
――なんか。表のいちご君は皆のいちご君って感じだけど……素のいちご君は……社内の女性陣にバレたら大変なことになりそうだな。
想像して、ぶるっと震える。
「あ~……そろそろ私は帰ろうかな」
「もう帰るんですか?」
「うん。これ以上、後輩の休日を邪魔するわけにもいかないしね。お礼は改めて別日にってことで……」
「送っていきます」
「え、いい、いいよ! 外ももう明るいし、大丈夫。っていうか昨日いちご君どこで寝たの? もしかして私のせいで一睡もできなかったんじゃあ……」
「いえ。俺はこっちの部屋にある椅子で寝たんで、大丈夫です」
「え? こっちにも部屋があるんだ」
クローゼットとか物置とかかと思っていた。
ベッド横の扉に視線を向ければ、遮るようにいちご君が移動した。
――もしかして、見られたくない?
リビングを見ただけでもいちご君のセンスの良さはわかる。そんないちご君が隠したい部屋……いったいどんな部屋なのか。気になる。
でも、迷惑かけた身では深堀もできない。代わりに別の話題を口にした。
「椅子で寝たんだったらゆっくり眠れなかったでしょ?」
「いえ。結構大きくてくつろげる椅子なんで」
「でも、ベッドで寝るよりは疲れ取れないでしょ。私が帰ったらゆっくり寝てね」
「はい」
いちご君のためにもさっさと家に帰ろう。として、ふと気づく。
「と、その前にシーツと布団をコインランドリーで洗ってくるよ」
「え?」
「それか、新しいシーツを選びに行こう。どっちがいい? どっちでもいいよ? お金は私が出すから遠慮なく言って?」
「――す。――で」
「え? 今なんて?」
きちんと聞き取れなかった。よくあることなのか、いちご君は慣れた様子ですっと私の耳元に顔を寄せてくる。
「大丈夫です。このままで」
「っ」
――し、心臓が飛び出るかと思った。い、いい声過ぎるっ。
「わ、わかった。えっと……じゃあせめてこれ。昨日の分も含めて」
財布から取り出して現金をテーブルの上に置く。一万円を三枚。
「こんなにもらえませ」
「お、おじゃましました~!」
返される前に急いでその場を抜け出す。
急いで玄関へ通じるだろうキッチン後ろの扉を開いた。当たり。
いちご君も後ろからついてきた。
「じゃあ私は帰るね。また休日明けに」
「亜紀さん」
「なに?」
「帰り道気をつけて」
「大丈夫だって。さっきも言ったけど、もう朝だし。そもそも、私なんかに声をかけてくる人なんているわけが「そんなことないですよ」」
「え?」
「昨日も言いましたけど……多分亜紀さん忘れてるからもう一度言っておきます」
「う、うん?」――な、なにを?
「亜紀さんはすてきな女性です。俺が知る限り、一番。だから、気をつけてください」
息を吞んだ。いちご君の真剣な瞳から目が逸らせない。
「わ、わかった。気をつける」
「そうしてください。後、できればでいいんですけど……家に着いたら連絡ください」
「わかった。じゃ、じゃあまた会社で!」
「はい。また」
いちご君はまだなにか続けようとしていたような気がするけど、私は逃げるように家を出た。
――ああ。びっくりした。いちご君のギャップ……ヤバすぎでしょっ。
イケないモノを見た気分のような。得した気分のような。
とにかく、今日のことは全部私だけの秘密にしておこう。と心に決めた。