『嫌なこと』というものは重なるらしい
酒寄 亜紀、これが私の名前。私が所属しているマーケティング部の人たちからは亜紀、とか亜紀さんとか呼ばれている。このご時世、『苗字+さん』呼びを徹底している会社も多いらしいが、うちは違う。ほとんどの人たちが下の名前で呼び合っている。
そんな私が今の会社に入社したのは三年前。当時は右も左もわからないひよっこだったけれど、今ではひととおりの業務にも慣れ、新人教育を任されるまでになった。だからこそ、慢心してしまっていたのかもしれない。
「さ、最悪……」
目の前のパソコン画面は真っ暗。
あと少しで終わる!
と、ラストスパートをかけていたところ、パソコンがクラッシュした。
「あらら~。まあ、そんな日もあるよね」
隣の席の同僚が励ましの言葉をくれるが、胸には響かない。私の様子を見て、同僚が怪訝な表情を浮かべた。
「まさか、亜紀?」
「そのまさか、だよ」
同僚の表情が一変する。
「え? でも、復元すればいけるでしょ?」
「それが……」
「まさか……」
パソコンの画面がついた。クラッシュした後の起動はこれで二回目だ。先程使っていたソフトを立ち上げ、改めて確認する。
「……はあ」
いくら探しても目当ての復元リストはない。Excelのデータが昨日と同じ状態になっている。
「だ、大丈夫そう?」
「大丈夫……にするしかないでしょ」
ふう、と息を吐き出し気合を入れ直す。これ以上は考えても時間の無駄だ。それよりも、今すぐ取りかからないと……。
それから何時間たったのか、いつの間にか窓の外は真っ暗になっていた。周りを見れば、私以外誰もいない。
「あと少し……頑張ろう」
首を左右に曲げると、ポキポキ鳴る。目の奥が痛い。指先もじゃっかん痛みを覚えている。が、今はそんなの気にしていられない。期限は来週の月曜日。そして、今日は金曜日。土日出勤はできない。つまり、今日中に終わらせるしかないのだ。
もう一度集中し直そうと、コーヒーを口に含む。
「お疲れさまです、亜紀さん」
「っ?!」
驚いて、体が跳ねた。
「い、いちご君」
彼が、私が担当している新人社員の工藤 一護。通称、いちご君。見た目は茶髪に茶目。長身で体格も良く、見るからに運動部という外見をしている彼だが、意外にも地味な作業が得意だ。コミュニケーション能力も高いため、営業部にも目をつけられていたようだが、本人の希望もありうちへの配属へとなった。
「帰ったんじゃなかったの?」
「それが、忘れ物をしちゃって」
あはは~と笑ういちご君は、自分のデスクに近づき、椅子にかけてあったカーディガンのポケットに手を突っ込んだ。
「あったあった。やっぱコレがないと落ち着かなくて」
手に持っているのはスマホ。「なるほど」と頷く。
「明日あさって休みだしね」
「そうなんですよ~。スマホ忘れたの家に帰ってから気づいて、慌てて戻ってきました」
「よかったわね」
「はい! で、亜紀さんの方はどうなんですか?」
「私は……後ちょっと、ってとこかな?」
「お~。さすがですね!」
こうやって彼はいつも手放しで褒めてくれる。が、今だけはその言葉を素直に受け取れない。なんとか話を逸らそうと、話題を考えているとマウス横に置いていた私のスマホが震え始めた。
画面に表示されているのは彼氏の名前。慌てて手に取る。
「あ、じゃあ、いちご君。気をつけて帰ってね」
「あ、はい」
すぐにいちご君から視線を逸らし、スマホに出る。
彼氏から連絡がくるのは数カ月ぶり。私よりも三歳年上の彼は、役職持ちということもあり常に忙しそうにしている。最近は大きなプロジェクトを任されたらしく、さらに忙しそうにしていた。
――連絡が取れなくても仕方ない。そう思っていたけど……やっぱりこうして連絡がくると嬉しいもんね。
「もしもし?」
『もしもし。亜紀、今大丈夫か?』
落ち着いた声色。そうだ。彼はこんな声だった。
「うん、大丈夫」
『そうか』
しばしの無言。しまった。久しぶり過ぎてなにを話したらいいかわからない。
『亜紀』
「な、なに?」
『突然で悪いんだが……別れよう』
「……え?」
思いがけない言葉に頭が真っ白になる。電話の向こうで彼がなにか言っている。それすらも耳に入ってこない。
『亜紀、亜紀、聞いているのか?』
「あ、う、うん」
『まあ、そういうことだから。じゃあな。元気で』
「え、ちょっと待っ『ねえ、まだ?』」
「え。……今のって」
「誰の声?」そう聞く前に電話は切れた。
頭の中がぐるぐるしている。今のは間違いなく女性の声だった。
どういうこと? 浮気されてたってこと? こんな時間に女性と一緒にいるなんて。いや、でも、私みたいにまだ会社にいて、側に女性社員がいるだけの可能性はある。
ただ、彼が別れを切り出してきたのは事実。やっぱり、そういうことなのかもしれない。
さっき、彼はなんて言っていたのだろうか?
聞きたい。聞きたいけれど、いまさら電話したところでどうにもならないと理解している私もいる。
「亜紀さん、大丈夫ですか?」
上からいちご君の声が降ってきた。よろよろと顔を上げる。
「いちご君。まだ帰ってなかったの?」
八つ当たりのように冷たい口調で言ってしまった。けれど、いちご君はなぜか「すみません」と謝ってきた。罪悪感を覚えて、顔ごと視線を逸らす。
「別にいちご君が謝ることないでしょ。それより、もう帰りなよ。せっかくの金曜日なんだから……」
「俺、手伝いますよ」
「え?」
顔を戻す。
「残りの仕事。手伝います。外、もう暗いし、はやく終わらせて帰りましょ。ね?」
驚いた。いつも明るくて、元気いっぱいのいちご君からこんな優しい声が出るなんて。無意識のうちに、私は頷き返していた。
「じゃあ、共有してもらってもいいですか?」
「う、うん」
「俺はどこからすれば?」
「あ、それはこの資料を参考に」
「りょーかいです!」
そこからは気持ちを切り替えて仕事に集中した。
二人がかりだと終わるのも早い。予定よりも一時間も早く終わった。
「これでよし、と。ありがとうねいちご君」
「いえいえ!」
「いちご君、なにが食べたい?」
「え……もしかして奢ってくれるんですか?!」
期待に目を輝かせるいちご君。わかりやすい表情の変化だ。思わず笑ってしまった。
「もちろん。いちご君のおかげで無事終わったからね」
「俺が手伝ったのなんてちょろっとだけですけどね……でも、せっかくなら前に亜紀さんがオススメしてくれた居酒屋行ってみたいです! まだ行けてなくって」
「ああ、あそこか。うん、いいよ」
「わあ、楽しみっす!」
「ふふ。じゃあ、いこっか」
会社を出て、向かうは『居酒屋ぽてと』。
ポテトとお酒が大好きな店主が切り盛りしている店で、ポテトだけでメニューが八種類以上はある。お酒はメジャーなものからマイナーなものまで店主の好みで取りそろえられている。どちらも最高だけど、私のイチオシは山賊焼き。常連客になると教えてくれる裏メニューだ。これがタレが滲みていて美味しい。結構な大きさがあるけど一人でぺろりと食べきってしまう。
入店して、通されたのは奥の席。店主が意味深な視線を向けてきた気がするがスルーする。
――そういえば、ここに男性ときたのって初めてかも。
そんなことを考えながら、私が奥、いちご君が向かいの席に座った。居酒屋特有の薄暗い店内。いちご君は心なしかわくわくした表情を浮かべている。
「いい匂いしますね~」
「でしょ? で、なに食べる?」
いちご君はしばらくの間メニュー表と睨めっこした後、諦めたように顔を上げた。
「俺、決められません。亜紀さんが頼んでくれませんか? 俺、亜紀さんのオススメが食べてみたいっす!」
究極の選択を迫られたような顔をするから、また笑ってしまった。
「わかったわかった。私に任せておきなさい」
「任せました!」
にこにこ笑顔のいちご君につられて私の口角も上がり続けている。
――よし! 今だけでも余計なことは考えず、かわいい後輩との食事を楽しもう。
オススメのメニューを片っ端から頼んでいく。
いちご君とのサシの飲みは思いのほか楽しい。さすがコミュニケーション能力MAXと言われているだけある。
「亜紀さん、亜紀さん。大丈夫ですか?」
「ん~大丈夫大丈夫~。あ、食べきれなくても大丈夫だからね~。ここ、お持ち帰りもできるから~」
「いや、そうじゃなくて」
「お金のことなら気にしないで~。コレは今日のお礼なんだから。それより、ほらいちご君も飲も飲も~」
タイミングよくスタッフが持ってきてくれたおかわりのカクテルを受け取る。
「かんぱ~い」
「か、かんぱい」
強引に乾杯して、お酒に口をつける。
――あ~。美味しい。
明日は休日。セーブしなくてもいい。最高の食事に。最高のお酒に。最高の後輩。ああ、なんていい日だ。このまま幸せな気分のまま寝てしまいたい。嫌なことなんて考えず。このまま……
この日、私は生まれて初めてお酒にのまれた。