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「えっ……というか、君はどうして真帆さんの言ったことがわかるの?」
「前にも同じようなことがあったんです。そいつは財産が思ったほどもないとわかったら、とっとと去ってしまいましたけどね」
「そうだったのか……」
巻田は複雑な気持ちになりながらも、あの女ならそんな過去もありそうじゃないか、むしろ向こうに引け目が多いほうが都合がいいと自分に言い聞かせた。
「……でもね、それじゃあなぜ、こんな、二人では広すぎる家に住み続けているんだい。税金や維持費だけでも大変だろう」
「たしかに、ぼくらは家族の思い出にしがみついているのかもなんですが、それ以外の理由もなくはないというか……。それに……この家を維持しながら二人で細々と暮らしていけるほどの、年金のように使ってるお金は、まあ、あるにはあるんです。虚言だって言ったのは言いすぎでしたね。あなたにも姉にも悪いことをしました。ただ姉は、好きな人に対して、少し大げさにふるまってしまう人なんです」
巻田は、信治という男が意外に素直だと認めると同時に、自身を取り巻く状況を再検討しはじめた。自分が充当を迫られる金額なんて、たかが数百万円だ。財産横領を目論むなど大それた気はないが、なんとか二人を丸め込んでこの危機さえ乗り越えれば、あとは何とでも……心機一転して出直してみせれば、この信治という男も許してくれるのではないか。そもそも真帆のような美しい女と家付きで結ばれること自体が幸運なのだから、金銭的なことは余録だと考えてもいい。このチャンスを逃す手はない。今まで自分がありふれた女に入れこまなかったからこそ、巡ってきた幸運なのだ。
「君は、僕がお金だけを狙ってるように言いはじめたけど、ちょっと誤解してるよ。たしかに今は失業中で困ってる。でも、生計を立てるスキルがあるし、それさえ乗り切れば、それ以上、君たちの財産を減らすようなことはしないよ。誓ってもいい。
そもそも僕は、真帆さんのことを……愛してるんだから」
「すみません。前回のことがあるから、つい用心深くなってしまいました。ぼくだって巻田さんのような普通の……なんて言ったら失礼ですが、一般的な社会生活を経験してきた人と暮らせれば、いい刺激になるかもしれません。今は、ずっと部屋に閉じこもってばかりですから……」
背中を丸め込んだ信治の姿を見て、巻田はなんとなく、幸福とはいえなさそうなこの男を真帆とともに励ましながら暮らしていけるような、これまで送ってきたつまらない生活よりも少しはましな未来が見えた気がした。
「もう一つ……」
と、信治がゆっくりと顔を上げた。その皺くちゃな顔を見るたびにゾッとさせられる感覚に、自分は慣れていけるのだろうか。ふと、真帆の身体の傷痕が心をよぎった。
「……二階に行きましょう。これからいっしょに暮らすとなると、知っておいたほうがいいですから。どうぞ」
促されるままに巻田が後をついて玄関まで戻ると、階段の上り口にっ立った信治は、お先にどうぞと片手を差し出した。
薄暗い足もとを確かめながらゆっくりと階段を上る彼の後ろから、信治がささやくように言う。
「ねえ、巻田さん。シャム双生児って知ってます?」
「ん? なんとなくは知ってはいるけど、それが何か?」
「姉の身体の手術跡を見たでしょ」
立ち止まった巻田の腰に、信治の顔が当たった。
「姉はそうやって生まれて、少女時代に分離手術を受けたんです」
巻田の脇の下に、冷たい汗が流れる。
「じゃあ、そのもう一人のお姉さんは……」
「ええ、生きています。でも、ひどい障害が残ってしまって」
「二階に……」
「ほんとうに可哀相なんですよ。でも仕方がないんです。檻に入ってもらわないと、暴れて何をするかわからないから」
ちょうどその、檻の扉を押しつけたような、鉄パイプの打ち合わさる大きな音が一つ、二階の廊下から階段にかけてガンと響いた。
「でも巻田さんには知ってもらわないと。さあ」
二階にある二部屋のうちの手前のドアの前で、そこです、と声をかけた信治は、
「ちょっとここで待ってくださいね」
と、先に部屋に入った。狭く開いた扉から斜めの光が漏れる。それと同時に、今度ははっきりと、獣のもののような糞便の臭いが巻田の鼻先を打った。
「ああ、灯りは消してほしいの。わかった。だからおとなしくしてね、姉さん」
そんな信治のことばが聞こえてきた。
室内の灯りが消される。
「どうぞ……」
窓の外から届いた街灯のわずかな光が、部屋の片側を占領した大きな檻の鉄柵を白く輝かせている。奥の暗闇に、痩せ細った身体のシルエットが立っていた。その頭がやや前に突き出されると、ぼうぼうに伸びた髪の下に灰色をした奇怪な顔がぼんやりと浮かびあがる。顔面の奥まった場所で光っていた両眼が巻田の顔をとらえたとたん、恐怖の色を浮かべて大きく見開かれた。
ギャーと、人とは思えない鋭い叫び声があがる。
部屋を飛び出した巻田は、ふらふらと廊下にへたり込んだが、慌ただしく手を空振りさせながらようやく手摺にすがりついて身を起こすと、一気に階段を駆け下りた。
檻の扉がガンガンと激しく揺さぶられ続ける。
やがて玄関のドアが閉じる音がすると、闇夜のなかを駆け足の靴音が遠ざかっていった……。
「どうしたの!」
と真帆が応接間に駆けこんできたとき、信治はちょうど応接間に戻ってきたばかりだった。
「うん、巻田さんにサラちゃんを見せて……」
と、両親が苦労してアマゾンから連れ帰った、老いた人間のような顔をした、ペットのフサオマキザルがいる二階のほうに目を遣って、
「それから……申し訳ないけど正直にお金の話をしたんだ。前のことがあったから……」
「ええっ」
「そしたらあの男、それっぽっちの金で、こんな汚い家に用があるかって暴言吐いて、出て行ってしまった。ひどいやつだよ」
カーペットの上に膝から崩れ落ちると、真帆は声を上げて泣きはじめた。
「ね、姉さん、男なんてみんなそんなのばっかりだよ。もうあいつとは連絡を取らないほうがいい。つけこまれると何をされるかわからないから。ね、このあいだと同じに、スマホの連絡先も消して、着信拒否もしなきゃ危険だよ。つきまとうようだったら、警察を呼んででも……」
掌で顔を覆って泣き続ける姉の髪を優しく撫でながら、あの男が瞞されやすい臆病者でよかったと、信治はほくそえんだ。
姉と二人きりの静かな生活を愛してやまなかったし、もちろんその姉のことも、彼は限りなく愛していた。
(了)