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「ぼく以外の誰がノックするんですか、姉さん」

「あの、弟の信治です」

 真帆が巻田のほうを振り返って言う。

「巻田さん、ですよね。お話は伺ってます。よろしく」

 ややしゃがれた、ちょっと鼻をつまんだような声でそう言われた巻田は、

「ああ、初めまして」

 と、こくりと首を垂れた。

「なんだかお邪魔しちゃいましたか。ははは。ぼくは引っ込んでてもよかったんですが、姉さんが挨拶くらいはしろと言ったんで。こんな年齢不詳っぽいですけど、たぶんあなたと同い年なんですよ」

 テーブルを挟んだ対面の椅子に飛び乗った信治の脚は、床に着かないほどに短かった。けれども奇異な外見にもかかわらず、話してみると、大人と子供が混ざり合ったようなその顔でギロリと(にら)まれたと思った最初の印象が嘘のように、身ぶり手ぶりが陽気で饒舌な男だった。

 ひとしきり巻田の印象を褒めると、今度はおっとりした姉をからかって、

「ね、姉さんってそんなところがあるでしょ」

 と、真帆がクリーニングのタグをつけたままのコートを着て外出したり、出先で道に迷って何もせずに戻ってきたりした逸話を次々に並べ立てた。実際、そのうちの二つ、三つは、巻田にも覚えがあるものだった。

「もう、やめてよ」

 と眉尻を下げて顔を赤くした真帆がその話を、その場から立ち上がるきっかけのようにして、

「じゃあ、わたし、すっかり遅くなったけど、夕食の支度をしてくるから。巻田さん、信治といっしょに待ってて」

 と、そのとき……。

 重い鎖をガタガタと揺さぶるような音が、遠くもなく、近くもないところから響いてきた。

 姉弟が、同時に天井を見上げる。

「何?」

 つられて見上げた巻田に、

「家族よ」

 と言うと、真帆はふふふと悪戯っぽい笑い声をあげた。一方の信治は眉間に皺を寄せて、苦々しい笑みを浮かべている。

「じゃあね、そんなにかからないから。二人も食堂に来る? それともその間に信治、二階を案内してあげたらどう?」

 真帆が姿を消すと、巻田は化かされたような顔を信治に向けた。

「えっ? 君と真帆さんが二人で暮らしてるって聞いたけど、他にも家族がいるの?」

「いいですよ。二階に案内してさしあげます。巻田さんがこの家で暮らすことになれば、いずれは知ることになるんですから」

 そういう信治の表情は、先刻とは打って変わって沈んでいた。額や口もとの皺が、醜く思えるほどの濃い影を刻んでいる。

 真帆がいなくなってみると、急に部屋の空気が冷やりとして感じられた。

 それとともに、なんとなく、この家に入ったときから感じていた違和感の正体が判ったように巻田は思った。玄関口にもこの部屋にも、芳香剤だか消臭剤だかが置かれていて、ありがちな香りを放っているのだが、そこにかすかな異臭が混じっていた。

 巻田は子どもの頃、痴呆の症状がひどくなった祖父が入寮していた介護施設を訪ねたことがあった。そこで吸った空気の、消毒液や薬品の臭いのなかにかすかに嗅ぎ分けられた、(やまい)()んだ体臭や糞便の臭いがしばらく忘れられなかったことを、たったいま思いだした。あれと同じ臭いだと、彼は思った。

「ところで巻田さん、姉はちょっと変わってるでしょ」

「ああ、まあ、そう言われると、そうでないとも言いにくいような……」

 と不意に問いかけられて、苦笑いをするしかなく答える。

「ねえ巻田さん、姉はこう言ったんでしょ。結婚を前提におつきあいするなら、自分の家に住んでほしい、この家から離れるのは絶対に嫌だからって」

「ああ、そんなところかな」

「それで、父や祖父の遺産だとか、使い切れないくらいの財産があるから、お金をくれるとか」

「いや……それはまあ、僕が今、求職中だから、再起を助けてくれるとは言ってくれたけど……」

 実際のところ巻田は、初めて手を出したオンラインカジノに思いがけずのめり込んでしまったタイミングで、それまで勤めていたプログラミングの会社から、一方的な人員削減の憂き目に遭って途方に暮れていた。さらに、なけなしの退職金も借金の返済で目減りしてしまったからといって、なまじ知識のあった株取引に手を出したのが間違いだった。将来有望なのは間違いなしと見定めたバイオ・ベンチャー株に、残りの金や車を売った金をかき集めた資金を注ぎこんで一発逆転を狙ったのだが、治験に失敗した投資先の株価は低迷を続けて、持ち株に信用買いを上乗せしていた彼は(おい)(しょう)(はっ)(せい)近くまで追いこまれたまま、ただ信用期限切れを待つだけだった。

 救いの女神と結ばれることで、現在の窮状も、将来の不安も、消えてしまうと思えたのだが……。

「……それって姉の虚言なんです。うちにはそんなに余るほどのお金があるわけじゃありません」


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