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 話を簡単にするなら、彼には悪役に徹してもらったほうがよかったのかもしれない。だが実際のところ彼は、(なる)()()()にはほどほどに惚れていたのだし、本当に結婚をすることになっても、それなりに体裁を保った家庭生活を送れるのではないかと、ぼんやりとした明るい未来を想い描いていた。

「君は女神だから……」

 初めて招かれた家の応接間で、真帆の頬を指先で撫でながらそう言ったのも、あながち嘘とはいえない。

 うっかりこしらえてしまった――正確には、これからこしらえることになる――借金のせいで、当面は徒刑囚のように暮らさなければならないのかとため息をついていたところを、労せずしてそれなりの生活を送れそうなところまで一気に引き上げてくれそうな相手とめぐり逢ったせいで、自分には運の女神が味方しているのだと舞い上がっていたのだから。

「古い家でしょう」

 と、猫足の曲線に支えられて、大きく波打った背もたれのラインを持つ籠のなかに、茶褐色に枯れた花を敷きつめたようなゴブラン織が張られた、ロココ調の絵画にでも描かれていそうなソファに座った真帆が、隣に座った(まき)()のそわそわした様子を見ながら、不安げに言った。

「いや、想像していたよりずっと立派なお宅だね。奥にもたくさん部屋があるの?」

「ううん、すぐ庭なのよ。一階が六部屋で二階が二部屋……と、庭に物置がわりの小さな離れがあるだけ」

「充分すぎる広さだよ。このソファも、テーブルも、どれもアンティークだし、暖炉まであって……」

 と言いながら、燭台のような形状の照明器具を、褒めるにしてもシャンデリアと言っていいものか迷いながら見上げている。

「亡くなった両親の趣味なの」

「ああ、あの写真が」

 暖炉の上には、熱帯の密林らしき風景を背にした、壮年の夫婦がにこやかな笑みを浮かべた写真が飾られている。

「ええ。二人して、世界中の珍しい場所に旅行するのが好きで。父は祖父の会社の役員になって、若いころみたいに多忙じゃなくなってたから、よく長い休暇を取って夫婦で旅に出てたの」

「真帆さん、いや、君たちも連れて?」

「ううん。いっしょに行ったのは二度だけ。フランスとスイス、安全な国に行ったとき。後はヘルパーさんに任せっきりで私たちは留守番だった。二人とも、あまり日本人が行かないような僻地を冒険するのが好きだった」

「冒険家だったの?」

「ガイドを雇ってだから、そこまでじゃない。でも、ガイドブックで調べてもよくわからないようなところに行きたがって……。潜水艇で深海に潜ったこともあったし、いつか宇宙に行きたい、なんて言ってた」

 金持ちの新奇探索癖とでもいうのかな、と思いながら巻田は立ち上がって暖炉に近づくと、写真をのぞき込んだ。知らない二人の人間が、知らない幸福に満ちた表情を浮かべて、知らない場所に立ってこちらを見ている。

「それはアマゾンの奥地に行ったときの写真。その次の年にパタゴニアに行って、そのまま行方不明……」

「ふうん、大変だったんだね」

 と言いながら、そのまま彼は暖炉に首を突っこんで、煙突の空洞を見上げるようにしている。

「その暖炉も今ではただの飾りものよ。手入れが面倒で、ずっと使ってないの」

「じゃあ、使おうと思えば使えるんだ。僕が掃除をするから、寒くなったらそこで(まき)を燃やしてみたいな」

 ソファに戻ってきた巻田を、真帆は嬉しそうな微笑みで迎えて、身体を傾けると、男の肩に頭を預けた。髪の先が手の甲にちらちらと触れて、巻田がくすぐったがった。

「あなたの部屋も掃除したのよ。ベッドも新しいのを入れたから……」

 と言いながら、宙に泳がせた右手で彼の左手を捉えて、しっかりと組みあわせると、唇を寄せてきた。瞼を閉じた女の美しさにあてられた彼の背筋にはビリッとしたものが走り、肉体から発せられた身をとろけさせそうな熱に、今にも包みこまれそうになる。

 思わず巻田が、いつの間にか女の肩に回していた右腕をほどいて、のしかかる重みを(さえぎ)るように相手の肩先に手を当てたのは、つい一昨日(おととい)の夜に知ったばかりの、女の秘密を思い出したからだった。

「わたし、綺麗な身体じゃないの」

 そうつぶやいた真帆のことばに、

「そんなこと……」

 と彼は笑いながら答えた。お互いにいい年齢(とし)なのだから。

「ううん」

 静かに首を横に振った彼女の、肩甲骨から腰にかけて大きな茶褐色の傷痕が走っているのを見たとき、巻田は思わず身震いをした。絹のようにきめ細かな女の膚に対して、まるで麻袋の破れを荒縄で(つくろ)ったかのような、不釣り合いな傷痕だったから。

「子どもの頃に大きな手術をしたの。恐いでしょう」

 彼は何も言わずに、うつむいた女のその傷痕に、軽く唇を触れて答えた。相手に悟られることがないように、きわめて自然にふるまいながらも、実は目を閉じていた。そのとき押し殺したためらいが、今になって、ふと、無意識の(しゅん)(じゅん)となったのだった。

「どうしたの」

「いや……」

 ちょうどそのとき、ドアを軽くノックする音がしたおかげで、彼は言い訳の労を免れた。真帆が居住まいを正しながら、

「信治?」

 と言い終わらないうちに姿を現した少年を見て、巻田は身を固くした。いや、少年といっていいのだろうか。巻田の胸のあたりまでだろうほどの背丈にもかかわらず、妙に年老いた印象の(しわ)を刻んだ男だった。


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