道徳的なゴロツキ
社会正義とは単に、人間幸福に関する客観的な事実だ。
現代の資本主義社会では、不合理な利己主義が蔓延している。それはなぜなら、人々を個人的で経済的な利己性に収束させることが、権力つまりは巨大資本にとって好都合だからだ。そうして民衆は砂のように分断されて、連帯して抵抗する防衛力を失い、自分自身にとって実際には不合理な価値観や尊厳の定義によって認知を支配されていく。
したがって、人々によって認知される合理的な利己性と、その客観的な不合理性との距離が、利己性の不正義として実在すると言うことができる。それは逆に言えば、利他性の正義が客観的な実在として定義されるということだ。
資本主義社会に対する批判は、資本主義に覆われ支配されている近代人類史全体に対する非難であるにほかならない。この意味で、倫理学は自動的に、体制秩序に対する反逆だ。
このことは自動的に、法律的な正当性と道徳的な正当性を分離する。資本主義的大衆思想においては法律的な正当性がそのまま道徳的な正当性だと見なされることが多い。そのことは例えば、法令等の遵守(compliance)や企業の社会的責任(corporate social responsibility)が道徳的な正当性として重視される一方で、そこにおいて合法性が前提になっている事実にも明確に表れている。
しかし、ディストピア社会を仮定的に空想すれば明らかであるように、法律的な正当性と道徳的な正当性には、基本的には何の関係もない。違法性や違法な暴力すらが時として道徳的に正当であることは、空想的には自明だ。つまり、法律的な正当性の道徳的な正当性は、当該の体制が現実に民衆幸福に適っている程度に基づいて言えるにすぎない。そして、単に民主主義体制を立法手続きとして採用していることは、当該の体制全体が民衆幸福に適っていることを何ら自動的には証明しない。例えば金権政治は、政治の民主性をゆがめるが、候補者の宣伝には莫大な費用がかかることから、金や権力は必ず選挙に影響し、純粋な民主性の実現は常に夢物語にすぎない。
一方で、隣人愛の尊厳の低下は、ある社会秩序の道徳的な不当性を自動的に意味している。
技術的な発展は平均寿命を延長するなど、幸福や物質的で個人的な幸福の増進に明らかに有用に作用してきた。その一方で、経済的な個人的合理性からは導けない隣人愛の尊厳が低下し軽視されていけば、人類は砂のように巨大資本に支配されていき、権力の意向に対して連帯して抵抗する力を失う。
トリクルダウン理論を重視するなどして、人類の道徳的な衰退を完全なナンセンスだと見なす価値観は、一部の人々には強く支持されている。昔の社会に良い部分など一つもなかったという感覚や、社会的弱者が言う不平は才能がなく努力しない者達による不道徳な愚痴にすぎないといった感覚が、そこにおいて保持されている。このような、人類史を少なくとも現代について自動的な進歩だと見なす発想は、隣人愛の尊厳への認知を失った場合には必然だ。また、弱者を搾取する有利な立場を与えられた人々が自分達を全面的に正当化するために合理的だ。
しかし、自分達による支配を正当化する論理は、自分達への支配もまた自動的に正当化する。個人的な経済的利益を利己的に追求することが道徳的な非難を受けないという信念は、そう信じる者達を実際には隷属化する。
その不合理な利己性は、既存秩序が本当に道徳的に正当なのかという論点を軽視させる。隣人愛つまり非経済的な利他性によって民衆幸福を防衛する必要性を、限りなく矮小化する。そのことは、客観的には、不合理であり不正義だ。
したがって、隣人愛の尊厳の低下は、ある社会秩序の道徳的な不当性を自動的に意味している。経済発展や民主的手続きを単に挙げることによっては、この非難を全面的には棄却できないことは明らかだ。
一言で言えば、公正世界仮説という認知バイアスが、現代社会を覆っている。
具体的に言えば、商品であれ人間であれ、優れたものほど生き残って栄えると直観され、劣ったものほど力を失い滅んでいくと見なされる。そのことは、幸福を道徳的に正当化すると同時に、不幸や苦しみを道徳的に正当化する。
そしてそのために、人々の環境の格差は個人が生まれ持った資質の格差に言い換えられてしまう。またさらに、あらゆる才能の格差は努力する才能の格差に言い換えられてしまう。そのように認知と客観的因果関係を遠ざけることによって、自己責任論や自業自得論が強調される結果となる。あるいはその状況が論理的にまで正当化されないまでも、強い者が生き残り弱い者が滅ぼされていく弱肉強食の生物学的必然として、現実的に許容される範囲だと見なされていく。
つまりそれによって、民衆が認知する尊厳は単に金銭の多寡へと収斂していく。非経済的価値が権威を失うことによって、非経済的価値は実際に影響力を喪失する。それによってつまり、経済力の多寡がただちに社会的な地位を意味する状況に収斂していく。貧しい人々や貧しく見える人々は、尊厳を軽んじられ見下されて嘲笑を受けることになる。発言の価値もまた、発言の内容によってではなく話者の経済的な権威によって定義されるようになる。
そのように、公正世界仮説と資本主義、さらには学歴主義的階級社会は、強固な相性の良さを備えている。つまりそこには、個人的で経済的で物質的な価値への安易な信奉と、立場の弱い者達とその苦しみに対する安易な蔑視と軽視とがある。
この進歩主義的な世界観はもちろん、人類社会における隣人愛の衰退といった危惧とは果てしなく縁が遠い。
公正世界仮説そのものは、有史以前から人類とともにあった。
そこにおいて、利他性の社会的な尊厳は、宗教的な神話によって公正世界仮説と整合させられていた。
つまり、今生きる人生において正直に親切に生きるほど、次に別の命に生まれ変わるときに幸福について有利な立場に生まれることができるだとか、死後の世界や死後の将来において、人生における善行と悪行は詳細かつ完全に評定を受け、善良に生きた者は十分な幸福で報われ、邪悪に生きた者は十分な苦しみで報われるという物語が共有され信念された。
しかし、技術が発展するにしたがい、歴史的な宗教的信念が客観的な事実ではない事実が次第に明らかになった。また、社会が都市化して人間関係が流動化するほど、隣人への親切が結局は利益となって返ってくるという感覚がナンセンスになっていった。社会に対して素朴に献身する態度は、単に資本によって好都合に搾取される性質になってしまった。経済的なサイコパスから見れば庶民が善良であることは単に馬鹿だし、若者らしい従順さや女性らしい従順さは搾取して使い捨てるべきものだということになる。
しかしだからといって、現代資本主義社会に反逆したこところで何も個人的利益にはならない。むしろ既存の秩序に歯向かえばキャリアを破滅させる結果になりかねない。一方で人間は、宗教への歴史的な傾倒に見られるように、公正世界仮説を信じたい動物であり、公正世界仮説を信念すること自体に喜びを感じるシステムだ。
そこにおいて人類は、宗教的な信念よりも公正世界仮説を選びとった。隣人愛の尊厳を維持する必要性よりも公正世界仮説を選びとった、という意味においてである。
しかしここまで述べてきたように、非経済的な利他性の道徳的な必要性は、宗教的なファンタジーによる直観的な正当化を介さずとも科学的に示せる。しかしそこには、道徳的に正当な行動こそが結局は最も本人の幸福にも適っている、という説明は何もない。
歴史的人類においては、善良な行動と個人的な利益が原則として葛藤することは、共有されている事実だった。
彼ら彼女らは、その通念が社会から失われる時代がやがて到来するとは夢にも思わなかっただろう。しかしそれは来た。
歴史的な人類は、人生における個人の幸福や不幸と善行や悪行は原則的には矛盾する一方で、最終的には整合するという宗教的あるいは文化的信念を共有してきた。つまり、世俗的な段階については社会が公正ではない現実を認知できていた。
技術が発達し社会が都市化するなかで、歴史的な宗教的ないし文化的信念は説得力を失った。社会秩序を維持し民衆の幸福を保持するための有用な機能を失った。しかし、その代替は現出しなかった。人々は、世俗的な段階についてすら社会が公正だという直観的認知に埋没していった。
それは、公益と私益の矛盾が自明な事実だとする立場から見れば、確かに一種の狂気だ。人々は、大量の倫理的矛盾を幼少期から眼前で目撃しつつも、それを道徳的に正当化するファンタジーを強固に共有していった。そうして、利他性の尊厳を忘却し、技術の完全な支配下に下った。
現代社会は、宗教が科学によって否定されたようでいて、実際には、お金を神とする資本主義という名の宗教を実に敬虔に信仰しているのだと、皮肉を言ってもいいだろう。いかに敬虔かというと、完全に現実離れしているその認知を現実そのものだと完全に信じ切って決して疑わないほどに敬虔なのだ。
現代人類はそのように、ディストピアであると同時にカルト教団でもある。
したがって、体制の不正義に歯向かうことは、権力から抹殺されるのみならず、民衆から否定されることだ。例えば経済的に不合理な政治運動にのめり込むなら、恋人や家族すら離れていってしまうかもしれないが、俗に言えばそういったプロセスを通じて、反逆者達は孤独のなかに抹殺されていく。
映画や小説の美談とは異なり、レジスタンスは現実には、最底辺の弱者からすら支持されない。それはなぜなら、権力を攻撃して利益を取り戻すことは支持されうる一方で、個人としての利己性に対する徹底的な批判は極めて支持されにくいからである。一言で言えば、個人主義は人間脳にとってあまりにも甘美であり、言い換えれば、弱者にとってすべての不道徳を自分達ならぬ権力の属性に帰する幻想があまりにも甘美だからだ。
これは言い換えれば、資本主義を信奉していないカルト信者であれ、共産主義を信奉しているカルト信者だということだ。さらに言えば、彼ら彼女らは共通して近代的な市民革命の進歩と正当性を信仰していて、そこには、非個人主義的な利他性の尊厳を復興する希望はないということである。
これらが、現代人類社会についての客観的な事実だが、この事実は、現代人類の誰にも認知されない事実でもある。
この事実への認知があまりにも稀である現実は、この事実認識が、個人の単なる賢さの資質からは必ずしも現象しないことを意味している。
例えば、学歴が良い人々は知能が高いという信念が現代社会では強固に共有されているが、学歴の良い人々は実際には学歴を権威として受け入れがちだし、賢い強者とされる大企業の経営者や資本家達は、資本主義的な競争と進歩を肯定しがちだ。大雑把に見れば、学歴と人間社会への洞察については、何ら有益な相関が見られないと言わざるをえない。つまり、恵まれた立場を自己正当化する認識の脳への甘美さは、理性的な論理的思考への欲求を容易かつ完全に上回る傾向が顕著だと断定される。
一方で、このような社会的事実への洞察は、私にとっては、若い頃から直観的にほとんど自明だ。したがってその洞察は、私の社会的な立場の不遇や、人生において体験してきた苦しみを必要条件として要求していると考えざるをえない。
私は私が、かなりのところ賢く善良な資質を先天的に持った個体だったと思っている。実際、愚かで邪悪な資質の個体が単に苦痛によって真実に到達する例は観察されない。ある種の賢さやある種の善良さやある種の不遇が、すべて必要条件なのだろう。
私は、幼少期には自覚的でなかったが、実際にはヤングケアラーであったし虐待育ちであった。多くの人達には与えられている人生の幸福は、私の人生からは生まれ落ちた環境条件によって奪われていた。
私は、安心できる居場所のない状況で価値観を強いられ、自分自身の感情を徹底的に抑圧された。自分がすべて我慢すればいいのだというゆがんだ適応パターンが形成された。献身することに価値があるという思想に傾倒したが、実際には親が重い発達障害者であったために感謝という感情はなく、愛情で報われることは起こらなかった。しかし、願望する愛情がそこにおいて得られないからこそ、私は思想的な内面世界を爆発的に拡張していったのだろう。
自分の尊厳を完全否定される空間において、私は私の精神を生き延びさせようとした。親の価値観を絶対として顔色をうかがわなければ生き残れないが、親の言う価値観はしばしば気分によって変化してしまう。おそらく、なるべく普遍的で安定的な価値の尺度を求めたことが、私において、公的な自我に基づく倫理的な価値空間への到達を引き起こした。
人生を楽しむという基本的な機能が、感情抑圧を通じて、私においては壊れていた。そのことが逆説的に、倫理主義への到達を容易にしたし、さらに、人類史における市民革命のいかがわしさに関する事実認識を容易にした。自己正当化の甘美によって理性的思惟が上書きされる現象が、私の脳でだけは起こらなかったからである。
幼少期の不遇は、複雑性PTSDを形成するのみならず、それ以前に愛着障害を形成し、極めて複雑な心理的課題を生じる。
そのような場合、一般論で言わばいわゆる幸福であるような様々な条件、例えば生存の絶対的な安全や、周囲からの徹底的な名声や愛情、富裕や財産、エンターテイメントとされる文化への暴露を通じても、幸福に満たされた感情にならない場合がある。一見恵まれた状況に置かれていても、幼少期に負ってしまった心の傷から、結局は自ら命を絶つような成功者は稀だがしばしばいる。
乳児期の正確な記憶や情報など普通はまったくないから、人間は自分というものに関する因果を客観的に理解しうる立場にない。因果関係に関する事実は、言ってみれば神しか知らない。個人の人生というものは、与えられた立場において、幸福追求のためにもがきつづけ、やがて終わる。
PTSDは素朴には戦場で形成されるものが代表的だが、不遇な児童の精神はしばしば兵士に似ている。その心は、戦場で命を落とした戦友にとらわれている場合があるし、破滅の危機が日常であるような極限状態をかえって故郷のように懐かしく心地よく感じる場合もある。そういった人々においては、高価な食事の味すら何ら味気ないことがあるし、常識的に言えば楽しいだろう体験が虚しい居場所になることがある。
社会には様々な不正義があるし、世界を見れば紛争地域も少なくない。無限大の苦しみや無限大の理不尽は、いつもどこかには必ずある。
そして、そんなものを探して注目して共感すれば、無限大の苦しみと理不尽に共感することはいつだって可能だ。
しかし、そのような道徳的な問題意識は、不幸な人生を自ら探し求めてかき集めているようなものだ。
その意味で、正義感は病気だ。正義感というものはすべて、ある種の病理としての側面がある。
しかし、生い立ちの境遇によってそれを埋め込まれた者の人生は、それから逃れ出ることはできない。
誰もが幸福を求めている。しかし、誰もがいわゆる幸福を求めているかどうかというと疑わしい。
政治運動に傾倒している人達やテロリストの人達のなかには、権力によって叩き潰されやすいそういった危うい生き方について、実は深い喜びや興奮を体験している人達もいるのだろう。
私は否定され自尊心の危機のなかで育ったが、だからこそ、常に最も優秀な人物としてキャリアを歩みつづけたいという願望があった。しかし、そこにおける尊厳や地位の定義は、世俗を著しく乖離した、独自で内面的なものだった。
私は、高学歴や資産家を賢く有能だとは思わず、かえって最も愚かで弱い存在だと思えてならなかった。人類社会は倫理的に危機的な状況に見舞われていて、私利私欲を優先せずその危機に挑戦する英雄的な人物像こそが尊敬に値する知性であり実力だと感じられてならなかった。
例えるなら、技術に隷属する者達は、地球外生命体に命じられて人身売買を行う奴隷商人達だと言える。それが資産家の実像であり、彼ら彼女らは人類のなかの劣等種であるからこそその役割に任じられ、人類という種の幸福を裏切っているのだ。共感性や正義感という人類の英雄の属性に疎いからこそ、資産家や高学歴といった偽りの尊厳を与えられ、かつそのことに満足しているのだ。そのような状況下にあって、真に価値ある人間や生き方とは何だろうか? それは、世俗的で個人的な幸福を追求することではありえない。
あるいは言ってみれば、知性というのは最大の暴力だ。
いかに莫大な資産も権威ある学歴や経歴も、真実に到達できる知性の前ではこのように容易かつ完全に否定されてしまう。弱者が偽りの権威で人生を最大限に飾り立てても、真理の光によってはそれらは瞬時に無効化されてしまう。
そういった視点で見れば、道徳的に善良な行動というものは、最も本質的なマウンティングだ。
社会的に地位の低い人々が、本当に弱い立場にいるとは言い切れない。むしろ最も有利な立場を与えられていると見ることもできる。
したがって、現代社会における道徳的な課題への洞察や非経済的な倫理主義は、一種のマウンティングとして解釈できるし、優越した権威を利己的に追求しつづけているものとしても解釈できる。
したがって、一見明らかに、虐げられている弱者から社会秩序を批判する思想だったとしても、主観的な自意識が実際にみじめだとは限らない。むしろ最大限に尊大かもしれない。
それは究極的に、他者からどう見られるかという論点を隔絶している。
世間から肯定されることを放棄している者は、「ゴロツキ」ではないだろうか。
人類全体の実質的な幸福を追求しているとか、その手段として普遍的な道徳的価値を私利私欲より重視しているといったことは、事実だろうし、言えば言える。
しかし、人間というものは、理性的な存在である前に、感情的な存在である。
もしも現代がすでにディストピアなら、それに挑戦する人物は、理性のみならず感情について説明されなければならないだろう。
するとそこにあるのは、ゴロツキではないか。不服従な暴力性、逆説的に最大の個人主義がそこにあるのではないか。
例えば、世間の全員が資本主義や共産主義が正しいと言うなかでそれらを完全な無価値とまで唾棄するなら、協調性が欠落していると言うことはできるだろう。
善良に生きることが隣人達からすら何ら報われずむしろ否定だけされる状況に置かれて、人がなお善良な道徳的地位を追求しようとするなら、その人はゴロツキにならねばならない。
個人として完結しなければならない。
それは、愛情に報われる結末を望む旅では、もはやない。
誰か一人でも心から真剣に愛する人がいるならきっと、その人は現代において反逆者になるしかないだろう。
子供が大人へと成長していくように、正義を追求する人の思いは変化しつづける。
世界を変えることにやがて失望し、むしろ不正義を色濃くする世界を眺めて絶望を深くする。
そして意識は、追求する結末よりもプロセスに傾いていく。反逆者であることはその人格のベースにまでなる。
そこにおいて個人は確立していて、言ってみればゴロツキっぽい。