白石 紬 01
「起きろ。起きろ、白石くん」
柏樹さんの呼びかけで、慌てて瞼をこする。
「あ、はい。えぇっと」上手く焦点があわない。声はかすれている。「すみません。起きていようと思ってはいたんですけど——」車は走行中だった。まだ目的地には到着していないらしい。
運転席へ目を向けると、柏樹さんはご機嫌な様子で頬を緩めていた。声の調子は厳しかったが、寝ていたぼくを叱ったわけではないようだ。
「見ろ。広域捜査官の専用車だ」柏樹さんが前方を指す。促されるままにフロントガラスへ向いた目は、片側三車線の道路と空の広さに奪われた。走行している車両がほかにないので気分がいい。
「おい、どこを見てる? 前だよ、前。左車線に停まっている車が見えるだろ」
「左車線?」
あぁ。あれか。五〇〇メートルほど先にハザードランプを点滅させた黄色い車が停車していた。特徴のあるデザインなので間違いない——広域捜査官の専用車両だ。
「こんなに早く再会できるとはね。まさに運命の再会ってやつだな。僕らの姿をみたら驚くぞ」柏樹さんはテレビドラマの悪党がみせるような、わかり易くていやらしい笑みをこぼした。
距離が縮まるにつれて走行速度は落ちていく。どうやら停車するつもりらしい。
オレンジ色の布を取りだして、慌てて左腕に巻いた。
「二宮さんでしょうか」
二宮さんってのは、広域捜査庁の男性捜査官だ。
広域捜査庁はアメリカのFBIのように全国的な警察的捜査が行える機関で、六年ほど前に設立された新しい組織である。
柏樹さんは九州に上陸すると〝運命的に〟二宮さんと出会し、なにかしらの事件に〝必ず〟巻き込まれるが、その都度〝天才的な推理によって〟解決へと導いてきた——という、口にするのも恥ずかしい眉唾ものの話をしばしば口にしているけれども、ぼくも一度だけその場に居合わせたことがあるので、頭ごなしに否定はできない。
「当然だよ。パンクでもしたかな?」と、柏樹さん。停車している車両の横に、コートを着た男性の姿が見てとれた。男性は背を向けて車のトランクの中を弄っていた。その様子を見てパンク修理と推測したらしい。もしも、そうなら、あの男性が二宮さんであるのなら、車をとめて手伝わなきゃ。
なにしろ二宮さんは命の恩人であるのだ。
三ヶ月ほど前、危機に陥ったぼくがここ九州で九死に一生を得たのは、二宮さんがいてくれたからにほかならない。
それにたくさんお世話になった。
九州からでる際に起こったいくつかのトラブルで手助けしてもらったことや、メッセージのやり取りを続けさせてもらっているので、日々の不安がかなり和らいでいること、などなど。ひょっとするとぼくは、柏樹さんよりも二宮さんのほうを尊敬しているというか、頼りにしているというか、敬愛しているといってもいいかもしれない。
や……こんなこと、お世話になってる柏樹さんの前では、とても口にだせないけれども。
「ひとりだけのようですね。連れの捜査員はいないんでしょうか」
「いないみたいだね。いっちゃ悪いが、不用心だな。このあたりは不法上陸者が多いから、単独行動は控えるべきなのに」
みるみるうちに距離が縮まり、男性の着ているコートの色が識別できるようになった。濃い緑色。ダウンコートっていうんだっけ。オアシスのリアム・ギャラガーがMVで着ていたコートに似ているな——なんて考えていると、
「あれ?」
「違うな。二宮さんじゃない」
顔が判断できる距離まで近づいて、路上に立っている男性が二宮さんでないことに気がついた。いや、それより、
「ち、ちょっと柏樹さん。あの人、銃をもってません? ほら、あれショットガンですよ、ショットガンですって! 布を、布を見せなきゃ。なにやってんですか、布を確認してもらわなきゃ撃たれちゃいますよッ」
助手席のウインドウを下ろし、腕に巻いていた布を外して上下に振った。布切れ一枚ではあるが、この布一枚が不法上陸者でないことを示す証なのだ。
「小銃だよ。ショットガンじゃなくてアサルトライフルだ」嘲笑を含み持った声でいい、柏樹さんは緩やかに車を停止させた。「白石くん、落ち着け。警告なしに撃つはずないだろ。それに僕だよ、この僕。二宮捜査官とともに数々の難事件を解決へと導いてきた僕の顔を知らない捜査官がいるわけないじゃないか」
「柏樹さんッ」
「だから。落ち着けって、白石くん」
エンジンを切り、顔に貼りつけた笑顔そのまま、柏樹さんは車外へでていく。男性は銃口を下ろしてはいたが、呆れるほど危機感ゼロの柏樹さんへ鋭い視線を向けていた。やぁ、どうもご苦労様です——芝居じみた口調でいって手を振る柏樹さん。ぼくはシートに背中をくっつけて息をとめた。
「なにかトラブルですか? お力になれることがあれば手を貸しますよ」
「市民団体の者か」
「いえ。まさか。あれ? ご存知ないですか? 僕のことを」
「とまれ」柏樹さんへ向けられる銃口。あぁあ。駄目じゃないか。柏樹さんの顔も名前も全然浸透してないじゃないか。
「身分証を提示しろ」
おそらく顔面蒼白になっているであろう柏樹さんのフォローをすべく、ぼくは窓から顔をだして、手に持ったオレンジ色の布を激しく振った。
九州は七年前から封鎖状態にあって、基本的には自衛軍と警察関係者と復興活動を行っている市民団体にしか上陸が許されていない。正規上陸者は、不法に上陸したものと区別するために、指定された色の布を身体に括りつけておく決まりになっている。布の色は一週間毎に変更される。今週の指定色はオレンジだ。
「上陸許可証は持っていますッ。確認して下さい」大声で主張し、グローブボックスに入れていた許可証をかかげた。かかげるなり、銃口がぼくのほうを向く。
うわあ。
勘弁して欲しい。
顔を下げて近づいてくる足音に怯えながら「すみません」と小声で謝ると、素早く許可証を取りあげられた。
「彼のいうとおりですよ、捜査官。僕たちは正規の手続きを踏んだ上陸者です。ところで、僕のこと知りません? 柏樹といいます。柏樹雅治です」
恐る恐る顔をあげて、誇らしげな顔で喋り続けている柏樹さんと、男性の背中をとらえた。
緊迫した空気は霧散した様子だが——まったく。探偵役を担って幾つかの事件を解決へと導いたことがあるらしいけど、男性の耳に入っていないことをまだ認めることができない柏樹さんには、呆れをとおり越して感心してしまう。