国道三号線
香椎参道口の交差点で減速した彼は、目を細めて、路上を横断している猫背の男を見た。アクセルから足を離して、ゴミと雑草に覆われた路肩へ車を寄せる。
不安定にバウンドした車体は、僅かに左に傾いた姿勢で静止した。助手席に載せていたマフラーを手に取り、首に巻きながら荒れたアスファルトのうえへ降り立つ。
風は冷たく、吐く息は白かった。
「――おおぉおおい」
彼が咆哮をあげると、横断している男は足をとめて顔を向けた。ぐらり、と酩酊状態であるかのように奇妙な動きをみせて蹌踉けたが、覚束ない足取りで前進をはじめる。
彼は首を竦めて、吐きだした白い息を両手で包んだ。薄い雲の隙間から顔を覗かせた太陽の位置は高い。場所は福岡県東区千早と呼ばれていた国道三号線の路上である。視界には、酔っぱらっているような男と、揺れている市街並木の枝葉を除いて、動いているものはなにもない。
彼は後部座席の扉を開けて、シートのうえに転がしていた三脚を手に取った。三脚にはDVテープを使用する旧式のビデオカメラがセットされていた。車の前に立ち、湿り気を帯びた枯れ葉を靴で払いのけて、路上に三脚をセットする。
カメラの電源をオンにして、ファインダーを覗く。
忙しなくピントをあわせる小さな画面の右端に、ゆらゆらと身体を揺らす男の姿が映った。
「よし」
右手の指先に温かい息を吹きかけて、カメラの向きを調整し、大好きな曲のメロディーを口ずさむ。レッチリのアンダー・ザ・ブリッジ。緩やかなリズムにあわせるように、近づいてくる男の足取りは鈍い。
「まっすぐ歩いてきてくれよ」
拡散する白い息を残して後退した彼は、助手席側の扉を乱暴に開けて身を屈め、シート下部に忍ばせていた細長い物体――木製の野球バットを掴んだ。
そこへ、
「――オオオオオオオオオオオオオオオぉ」
咆哮への遅れた返答であるかのように、近づいてくる男が獣じみた奇声を発した。不快に空気を振動させた訴えに対して、彼は短い舌打ちで返す。グリップを握り直して車の前へと移動し、メロディーの続きを切れ切れに口ずさみつつ、録画ボタンを親指のはらで押し込む。
そしてカメラの前に立った。
揃っていない短い鬚髯に触れ、腕時計に目を落としながら。
「十二時十一分。前回の接触からきっちり四八時間後だ。対象は成人男性。痩せ形で短髪。黒髪。服装からして大陸からの不法上陸者だろう。馬鹿首相が、偽りの安全宣言をだしたおかげでこの始末だ」気怠そうに首を回して骨を鳴らし、バットの先端部分をアスファルトに二度打ちつける。「片足を引きずっているが、怪我の程度は不明。感染からまだ日は浅く、二、三日ってところか」
カラララと鳴ったバットを持ちあげて、ファインダーを覗いた際に思い描いた画と一致する場所まで歩を進める。〝自身〟と〝近づいてくる男〟とが同フレームに収まる理想的なポイントに立ち、下唇を噛んで目を細める。黄砂を含んだ風が上着とマフラーを揺らしたが、彼は同じ姿勢を保ったまま、微動だにせず定位置に留まった。焦れったい時間と引き替えに両者の距離は縮まっていく。鈍い歩みの男が常軌を逸しているそれとわかるまでに縮まると、レンズの向きを確認して右足を半歩引き、手に持ったバットを突きだした。
鼻先にバットを突きつけられた男は、両手を前に伸ばして歩行速度を速めた。
距離が、一気に縮まった。
「消え失せろ。害虫」バットを素早く引いて口角をつりあげると、彼は男の頭部めがけてフルスイングした。
鈍く不快な音をカメラのマイクが拾う。男の姿がファインダーの中から消えて、代わりに満面に笑みをたたえた彼の顔のアップが横切る。
彼は仰向けに倒れた男のうえに跨がって肩を小突き、口ずさんでいたメロディーの続きを囁くように歌った。
男の左頬から下の箇所は目もあてられぬほど歪なまでに変形していたが、濁っている瞳に感情らしきものは一切浮かんでいなかった。ただし、だらしなく開いた口から顔を覗かせる太く赤黒い舌は、単独の生き物であるかのように忙しなく動き回っている。
押さえつけるべく両腕を踏みつけ、微弱な抵抗を示す男の頭部へとバットを添えたとき――くぐもった個性的な音が、彼の内耳を揺らした。
「――ちくしょう」
不快に満ちた表情で振り返った彼が目にしたのは、砂埃を巻きあげながら近づいてくる、忌々しい一台の車両だった。