縁の切れた天涯孤独のおばさんたち
ー 縁は切れてしまっているけど、おまえには9人のおばさんがいてくれるから、きっと助けてくれるから、だから大丈夫、だってお前はうちにとってたったひとりの男の子だもの。
いじめられて青ぶちつくった目で帰ってくると、母なる人はいつもきまって、このおまじないを唱えて呉れた。それはわたしにというより、もっと古い人たちに言い聞かせるもののように聞こえた。それでもわたしは母が信じるものを信じることで、明日はあの3人が居なくなってしまってるか虐めるのを忘れてしまっているか、どちらかやってくることを拠り所に、朝になるまでぐっすり眠った。
わたしは、ずくなしだった。
女ばかりの家で百年ぶりに生まれた男の子だと、言い聞かされ甘やかされ育った。なで肩で、すぐに腹を下し風邪をひく。白じろした顔に柔らかで渦を巻いた髪とぱっちりの瞳の男の子だった。
ー 本当に男の子かぇー、うちに男が育つわけはないだろうに。
そんな大人たちの意地悪を幼子にも聞かせるのは、たまに戻っては母とツンツンを繰り返えす、9人のおばさんたちの誰かだった。
小学中学と、運動はそこそこだが勉強はよくできた。そして何より姿かたちが美しかった。母がひとりで支える家だから貧しかったが、貧しさは、ひけめよりも周りの女の子たちの距離を縮めるのに役立った。
プレゼントという名でたくさんのものがやってくる。通りすがりにチョコレート、まちぶせされてマフラー、スウェーター、カーディガン。風邪で休んで寝込んでいたときは、アパートの外階段に数珠つなぎになって、牛肉、白滝、春菊、焼き豆腐、そして深谷ネギを分担して配達してくれる。「お母さんの分もちゃーんと持ってきてますから。栄養つけてね。それから、先生が、勉強なんか気にしないでゆっくり休んでいいって」女の子の中の一番のしっかり屋さんがそれだけを言って帰っていく。母は衒いもなく「いい子たちね」と微笑み返す。大人たちから見れば、わたしは手のかからない本当にいい子だった。
高校は県下一の進学校に入った。母は「うちの誉れ」だといった。母子二人だけの家なのに。翌日は、掛け持ちしてる勤め先みんなの分だといってお祝いのカップケーキを山ほど買ってもっていった。
出かけた時の誇らしい姿は、今でも一番の颯爽とポケットに入れている。
アパートの小さな玄関を開けると朝焼けのように眩しい夕陽がサッと入る。スポットライトを浴びたように後ろを振り返らず外階段を下りて行く母の後ろ姿。部屋に残ったわたしは階段を降りる母のサンダルの音を一音一音聞いている。わたしがあげたたった一つの親孝行だった。
大学は名の知れた東京の私学に入った。一浪しての進学だったので、それがわたしの最初の挫折になった。最初ではあったが、これから転がっていく人生の幕開けでもあったのだ。
芽吹かせるのが難しい大きなアボカドの種は、いったん芽吹きさえすれば南国を擬した白砂に立てたままでも種の中の栄養たっぷりの白身を啜り、子葉本葉を大きく付ける。けれども雨に当たるのを嫌がり、いつまでも空調の効いた屋根の下に住んでると大木の我が身を忘れた挿花に成り下がる。それにひきかえ、ゴマ粒よりも小さなコスモスの種は6月の雨にも8月の太陽にも文句を言わず、その間に根を張り巡らせる。そうして数え切れぬほどの花を咲かせる。齢を経るに従ってコスモスには敵わないと分かっているのに、わたしは食べたアボカドの種を捨てることが出来ずに繰り返し水の入った瓶に挿した。
大都会に出て、わたしは根無し草になった。なにごとかを成すためではなく成してもらいにやってきた。高校生のときから、ずくなしなのは気づいていた。そしてそれを否定しようとも改めようとも思わなかった。世間はそのためにあるのだと。そのための器はまだまだ大きな方がいいだろうと。高校と浪人の四年の間に私は母と疎遠になる土壌を育ててきた。
見栄えはいいから。愛想はいいから。「初めまして」で始まる都会の関係は快活だ。知り合い友だち恋びとの呼称のひとたちは、流れるように身体を通り過ぎていった。
田舎にいるときも都会でいるときも貧乏なのは変わらない。暗算は得意だから、所帯を分けたわたしの分を母に頼れないことは出てくる前から決めていた。苦学生だから世間は授業料を免除にして呉れる。まだ真新しい部類に入る都心の寮もあてがって呉れる。それでも、かすみで生きるわけにはいかないから働かなければならない。働くのはずっと続くのだから彩りの備わってるものを物色した。
名の知れた私大の学生証は、その筋で働かせてもらうのに箔がつく。都会にはセレブと言われる人種がいて、その人たちがそれを確認するための居場所が都会にはたくさんあった。そうした店に雇われ、流れてくる人たちに「初めまして」をしていくと、白いTシャツに無造作にバッチを付けるように、様々色々を付けて呉れる。フリーペーパー雑誌の埋め合わせ記事のライター、冠に大手企業の名前の付いたイベントのフロアスタッフといった彩りのある場所で、わたしは大学生を働いて過ごしていった。
彩りはあってもピンバッチどまりの雑用は、そうした人たちからのおこぼれを預かるだけ。似たような種類と決めてかかっていた連中は、大学4年になるとピンバッチを外してコネを頼りにそれぞれの業界に深く身を置く覚悟を決めるか、そうした自分は学生までとネクタイを締めての就職活動に去っていった。どちらにしろ、違った顔をみせて汗をかく、かかないまでもそうした仕草をする。わたしは、そんな顔を見たら一気に興ざめして次の「初めまして」の相手を探す。
「いい齢してんのに、まだ、そんな学生みたいな気分ばっかり・・・・・おめでたすぎるんじゃないの」
同じようにキレイにさよならしてくれるとばかり思っていた年上の女たちから、離れ際にそう罵られることに出くわすようになった。意外だった。女というものは皆んな優しく何かを呉れるものとばかり思っていたから。
「けっきょく、あなた、どうなりたいわけ」
それからは、出会って別れるとき度にそうした小さな修羅場が増える。そんなとき、一番に多く聞かされた捨て台詞がこれだった。まるで彼女たちが順々にバトンタッチしていったよう。わたしが、バトンタッチの言葉を浮かべていると、彼女たちはあきれたような不思議そうな顔を向けてあきらめてくれる。
名残なんてない。次に向かっていこう。多分わたしは同じところを回っているだけ。でも、彼女たちはもっと別のまともな相手を見つけにいくんだろう。汗をかいてまで違った顔をみせ、かかないまでもそうした仕草を身につけていく、ちゃんとした誰かを。
わたしが悪いというけれど、離れて途を変えていったのは女たちだ。わたしは「しょせん他人だもの」とうそぶくだけ。うそぶいても、四十になっても、定職に付かない白いなで肩だった男の子をいぶかる視線は都会にはない。
ー しょせん、他人だもの
うそぶいた言葉は消えずに溜まり、わたしに刺さる。いちどでも西日で焼けて定着したカーテンの色は変わらない。色褪せたんではなく、大好きな橙色だと言い聞かせる。そこから見える景色だって変わらないじゃない、見ている窓がすぐに目に飛び込んでくるタワーマンションのカーテンウォールなのか、その下の隙間に潜り込んでいる背中合わせの木造アパートのアルミサッシなのか、その違いだけと言い聞かせる。
引っ越しには馴れている。そんなジタバタのみっともない真似はしないように貯金通帳の半年先の残高を見通す力だって備わってきた。だって、こどもの頃から暗算は得意だったから。
ー そろそろ、移りどきかな
彩のある働き口は齢を経るごとに少なくなる。自分の容色が衰えるなんて気にしてこなかった妓と一緒だ。
何かを頼むとき、何かを引き受けるとき、そのあとのバトンを繋ぐあたまを用意してこなかった。
電話で「わたしだ」と声をしらせたあとで「この前のこと」を思い出させる引っ搔き傷を相手の背中に付けてこなかった。
わたしが得意なのは、暗算だけになっていた。
ー 血の繋がっていない他人なんて、けっきょくは青ぶち呉れるだけのひと。どんなに仲いい顔みせたって、待っているのはサヨナラだけ。
幼い日々に聞いた母の声はだんだんに収れんされ、心の声に変わっている。離れるほど疎遠になるほど、むかしの自分の声が語っているよう。
そんなとき、そんなどん詰まりのとき
呼び鈴を鳴らすタイミングが分かっているんだろうか。司法書士からの簡易書留が届く。「突然のご連絡で失礼いたします」で始まる遺産相続のご連絡。
初めての「ご連絡」は二十五歳のときだ。母なる人は、わたしが大学生であった時分に亡くなった。物という物はすべてきれいに処分され、司法書士事務所から簡易書留で預金通帳と引き出すための印鑑が送られ、母がわたしの想像以上の蓄えのあったことと引き換えに、わたしは天涯孤独の身となった。
根無し草などとうそぶいていたわたしは事実そのとおりになり、こうした身の振り方の醸成が、こうも見事に自らの親子の始末の仕方を整えた母の血からやってきたことを、蓄えを取り崩す度におもい知らされた。
それと引き換えのように母の呪文が蘇る。
ー おまえには9人のおばさんがついているから大丈夫。だって、お前はたったひとりの男の子だもの。
縁を切っているくせに、行ったり来たりもなくなったくせに。
それでも血の繋がりを口にする矛盾を、わたしは素直に受け入れることが出来る。
わたしにも、その矛盾した血が繋がっているのだから。
とびっきりにお金持ちってわけじゃない。
基礎控除の受けられる三千万円に、末っ子の母が欠け長女だったそのおばさんが欠けて、残った8人にわたしを入れた相続人9人を加算した金額の範疇で収まっているから。母が繰り返してた9人のおばさんの呪文は、司法書士事務所の作成した事務的な樹形図ではじめて確かにものになった。長女で始まり10女で終わる細長い縦線の一番下の「死亡」と括弧書きされた母の横線から小さな横線が一本とび出て私の名前が付記されていた。
わたしを含めて分与される人数9人で公平に分配され、金額は一人当たり八百万円を少し下回る。わたしは暗算が得意だ。すぐに相続の名のもとに手元にくる金額をキャッチする。
割り切っている自分と思っているが、そうでばかりでない自分もいる。
しばらくはその人の名前をじっと見る。
写真でも残っていれば横に添えればいいのだろうが、あいにく母は写真が嫌いな人だった。わたしはそんな風に感じたことはなかったが、10人姉妹の中で「一番器量よしでない」と蔑まされ続けたのだと言っていた。まだ、生のその声が残っている。そして、いつも決まって、「それに引き換えお前はお父さんに似ていて本当に良かった、助かったよ」が続く。お父さんの呼称はそのときだけ。それ以外に母がその呼称を私の前に出すことはなかった。だから、わたしは、父なる人を伏せる習慣が身についている。
或いは、叔母たちに似ていたのだろうか。そのことを疎む母があえてそのときだけ父なる人の呼称を使ったのだろうか。確かなのは、それらのことが母と彼女たちが互いに縁を切り離れていった大きな原因であること。皆んな女だから。3人目のおばさんからわたしはそれを強く意識した。
亡くなったおばさんたちは、何をしてお金が残ったのだろう、どうしてお金を残したのだろう。子どもは産まず連れ合いは持たず、天涯孤独で死ぬ前に、お互いに面影などない私の元に残ったお金が運ばれてくるのを白いベッドの上で天井板の穴の数を数えながら考えたりしたのだろうか。
ー うちに男の子なんか育つわけないさ、と嘯いたのは、どのおばさんだったろだろう。或いは皆んな、母を入れた10人全員が信じていたのだろうか。
わたしも入って天涯孤独の身ばかり。
身内ばかりの天涯孤独
今度はほんとうに切羽詰まっていた矢先だった。
今度こそは窓からカーテンウォールの夜景の望めるマンションの10階を引き払い、午の高い日でないとその在りかさえくすぶっているアパートの住人になると覚悟を決めていた。
その矢先、「突然のご連絡で失礼いたします」から始まる遺産相続を封書にしたためた司法書士からの簡易書留がやってくる。
樹形図はわたしを入れて5人。
順番からすると真ん中の5番目のおばが亡くなったのだ。この人は残り5人に100万円づつ残してくれた。きっと、自らの蓄えはなく、貰った分はキレイに使い切る算段だったはず。見込みは外れ、少し早めに死んでしまったらしい。わたしと同様、与えるのでなく与えてもらうための世間様はあると信じた人生を送ったひと。
このひとは沖縄。きっと雪ばかりの景色やその中の人たちが嫌になあって出ていったのだろう。
横浜、仙台、金沢、名古屋のあと、沖縄のおばが亡くなった。横浜のおばからは800万円、仙台のおばからは900万円、金沢のおばからは1,000万円、名古屋のおばからは1,100万円。そして沖縄のおばからは100万円。みんなお上が上前をはねない丁度を残して死んでいった。縁は切れても、天涯孤独で残った身内に平等に分配することで繋がっている。
生き残っているのは、大阪、北海道、福岡、松山のおばたち。
日本国中ばらばらと、花火みたいにキレイに散って、消えて、足跡を繋げる。
そのときは不思議に感じてすぐに忘れてしまうことなのだけど、送ってくる住所はそれぞれに亡くなったおばさんの所在地なのに、送り主は決まって「高林司法書士事務所」と書かれている。
亡くなってからもらうばかりのおばさんたち同様、この司法書士の一人ともけっして会うことはないだろう。