9月
「ふぇっくしゅ」
目覚ましがなる前に、自分のくしゃみが飛んだ。しかも、鼻水が出る。起き上がることなく、自分の周りを手でまさぐる。しかし、探し物は見つからなかった。
垂れる鼻水をすすりたくないため、急いで起き上がると、ベッドの階段を下りた。昨日の服や、お菓子の空袋などを踏まないように気をつけながら、潰れたティッシュ箱に手を伸ばす。
鼻に溜まっていたものがなくなると、とてもすっきりした。
「…寒いな」
「愛梨~?おきてる?」
階段を上ってきた親に、盛大なくしゃみで返事を返す愛梨であった。
「愛梨、また窓あけっぱで寝てたんやろ」
朝のできごとを、親友に話すとゲラゲラと笑われた。うるさい学食にさらに巴の声が響く。
佐藤愛梨、大学2年生。夢も希望も持ち合わせていない、引きこもり一歩手前の学生だ。そして親友こと、中村巴は同じく大学2年生。旅行なんちゃらという国家資格を取ろうと勉強を頑張っている。
「それよか、巴は試験大丈夫なん?」
「あ~ぼちぼち??今から先生の研究室言って色々聞いてくるわ」
腕時計を一瞬見た巴は、がっくりと肩を落とす。試験まで後1週間を切ったと聞いていた。巴の肩を叩いて愛梨は巴を励ました。
「ありがと!愛梨も色々ガンバ!!」
親友の置き台詞に少し心が暖かくなる。そして、姿が見えなくなると、笑顔が消える。愛梨も、巴の後を追うように、学食を後にした。
「ココ最近、涼しいですが、体調は大丈夫ですか?」
今朝のこと知らない先生が、パソコン越しに聞いてくる。盛大なくしゃみをかましたことは伏せておき、特に不調はないと言っておく。
「そうですか」と優しく返事が返ってきて、研究室には先生がパソコンを叩く音だけが響く。大好きな空間だった。
「先生にとって、9月はどんな季節ですか?」
特に意味もない、口からこぼれた質問。先生は一瞬手を止め、左手で顎を押さえるしぐさをした。その時私は、質問したことに後悔する。
「別れの季節、なんても言いますが、私にとっては出会いの季節でしたかねぇ」
少し照れた、先生の言葉。左手の薬指に輝くシルバーリング。
「えぇ!先生が!?」
自分の感情にフタをして、すぐにちゃかして見せた。笑ってみせた。笑顔になっているか不安だったが、先生が何も言わないということは、上手くいっている。愛梨は、今すぐ研究室から出たくなった。上手い口実を探していると、扉が三度、ノックされた。
「あぁ、相原君ですか」
失礼します、と入ってきたのは、マジメそうな男子だった。先生と次の講義について話している様子をボーっと眺めていたら、バッチリ目が合ってしまった。気まずくなって逸らそうとしたら、相原は愛梨に呼びかけた。
「佐藤先輩。会計研究会のサークル、見学したいです」
「はぁ…どうぞ?」
突然何かと思えば、そんなことかと肩の力を抜いたとき、近寄ってきた相原に腕をつかまれ無理やり立たされてしまった。混乱しているうちに、先生の研究室から一緒に出てしまった。
「あ、相原…君?」
「祐介です」
本名が分かった。相原祐介。しかし、彼は愛梨の腕を引き歩き続ける。
「そ、そろそろ手を、離しません!?」
「離しません」
なんなんだ、こいつは。初対面の人間にここまでできるものなのか?即答されてしまったので、仕方なく手を引かれて歩く。向かうのは一体どこか、まったく分からない。なんせ彼は、見学したいと言ったサークルの部室とは間逆に歩いているのだった。
「…何故屋上?」
「雰囲気あるじゃないですか」
そういって祐介はようやく愛梨の手を離した。状況についていけない愛梨は扉の前でぽかんとしている。何の雰囲気があるというのだ。
「先輩は、前田先生が好きでしたね」
「は!?」
「わかります!その気持ち!」
「・・・は??」
目の前の男は、一体何を言っている?この気持ちが、分かる?一瞬そっちの趣味があるのかと思ったが、人を無視して熱く先生について語っているあたりをみると、憧れの好きということが分かった。
こいつは、居ずらくなったのを分かって連れてきたのではなく、先生を尊敬する同志だと勘違いして、ここまでつれてきたというのか。
「…っ。あっはっは」
突然笑った愛梨に、祐介はぎょっとした。愛の告白でもされるのかと身構えた自分が可笑しくてたまらない。怒るわけでもなく、おろおろする祐介に愛梨はこらえられずにまた笑い出す。
「人の顔見て笑わないでくださいよ!!」
「ご、ごめんっ」
謝りながらも笑う愛梨に祐介は今度は怒り始めた。
先生に言う前から振られたことが、辛かったはずなのに、今の自分は心から笑えている。こんなことがあるものなのかと思いながらも、ぷりぷりと怒る祐介にとても興味がわいた。
「ほら!会計のサークル、見学するんでしょ」
「あぁ!僕はまだ先生について語り終わってないんですよ!」
そっちに怒っていたのかと、愛梨はまた笑い出す。そして今度は愛梨が祐介の腕を引きながら、サークル室へと向かうのだった。