19
朝、目覚めの時。覚醒と微睡の間をしばし往復し、霞のようにまとわりつく眠気の残滓を頭の隅に追いやる。どうにか重たい瞼をこじ開けて光を取り込み、弱り切って重ったるい身体を起こす。予想以上に重い。この重さは、仰向けの僕の腹のあたりに胡坐をかいている雲人と関係があるのだろうか。
「ねぇよ。だって俺、エアーだもん。重さゼロ。むっちゃん、自分の虚弱さを人のせいにするなよ。ま、人っていっても俺、エアー人間だけど」
内容が自虐的なわりに、口振りはカラっと明るい。卑屈だったり自嘲されるよりよっぽどいいけど、朝ということもあり僕には少し眩しい。
「けど心理的なものってあるじゃん。実際には質量ゼロかもしれないけど、そうやって圧し掛かれると、ゼロだとわかってはいても重みを感じるってこともあるんじゃないかな」
「それはそうかもな。なにせ、俺自身が完全に心理的な存在だからな。そこに存在しないし体重もゼロだけど、むっちゃんの心の眼を通してみると、そこに確かにいて、ここに確かにあるわけだから」
眼に見えてしまっていることで、脳が重みを錯覚して感じてしまっている可能性だってある。
「ほいほい。わーったよ」
渋々納得し、雲人は僕から降りた。僕は改めて、ベッドから体を引き剥がすように身体を起こす。
「うー、ダメだ、重い。無理だ。絶対無理!今日はもう、じたばたせずに、潔くこのまま寝てることにしよう」
背中がシーツに糊付けされたようにびくともしないので、僕は早々に諦めることにした。
「おいこらっ、俺の重さ関係ないじゃねえか!俺という存在の分、心理的に軽くなれよ。頑張れよ」
「無理。雲人、何の関係もなかった。無関係だった。気のせいだった。いてもいなくてもおんなじだった」
「全否定かよ。俺、むっちゃんに存在否定されたら、本気でこの世界に存在できないんだから、むっちゃんだけは俺のこと否定すんなよ。他の誰が否定してもいいけどさ」
昨日、僕は自分のような存在が生きていてもいいのだと、誰か(世界)に許してもらえるような気がした。だから僕は今、こうして生きている。そしてそんな僕の前に、雲人は現れた。彼は僕の中にしか存在しない。僕にしか見えない。だから僕が彼の存在を否定してしまえば、彼にとってこの世界で生きていいのだと許してくれる人が誰もいないということになる。それはつまり、昨日以前の僕と同じということで、さぞ居心地の悪い、生きてる心地のしない、最低最悪の精神状態にちがいない。
「ほんとだよ。朝は爽快に迎えたいのに、とんだどん底からのスタートじゃねえか」
朝の爽快さなんて、ここしばらく味わったことがない。かつてはあったのだろうかと思うほど、距離と時間を隔てた遥か遠くの出来事となってしまった。忘れたものを取り戻そうとするかのように、大きく息を吸いこんでみたけど、爽快さの「そ」の字もなかった。
「痛し型なしだな。むっちゃんがそうなんだから、俺もどん底からのスタートを受けいれるしかねえかな、チームメイトだし。まーいいさ、今までどこまで落ちても足がつかない底なしだったんだから。ようやく底までたどり着いたと思って、そこを足場にしてやってけばいい。そっからやってこう。底からね」
底抜けに明るく雲人は言った。
「そうだね、しょうがないか。じゃあ今日はそういうことで」
僕は布団を被り、更なる底に沈み込むようにベッドに潜り込んだ。
「おいこらっ。そこで寝るなよ。ここは起きるとこだろ。そこで寝たら死ぬぞ。遭難するぞ。現実から遭難しちゃうぞ」
チームメイトというよりは、雪山の登山クルーのように雲人は僕を叱咤する。
「うー、あと五分」
中学は卒業し、高校にも所属せず、かといってどこかに勤務してるわけでもない、完全なるフリーダムのくせに、まるで厳守しなければならない時間があるかのように、わずかな時間の惰眠をおねだりした。
「さっきもそう言ってたじゃねーか。ってかこのやり取り何度目だと思ってんだよ。身体も衰弱してるし、底辺すらぶち抜いたどん底からのスタートだから俺も大目に見てたけどさ、これもう五、六回は繰り返してるからな。一回目からもうすでに、一時間くらい経ってるからな」
そうだったのか!まったく記憶にない。すでに五回目のループだったとは。五回目にしてようやく気付いた。
「いい加減、俺も付き合いきれねーよ。いくらチームメイトとはいえ、隣の家に住む幼馴染じゃねぇんだから、何で俺が何度も何度もむっちゃんのこと起こさなきゃなんねぇんだよ。もう無理、やってらんねー」
「じゃあ、僕のことはもう放っておいてくれていいから」
「俺だってそうしてぇよ。山々だよ。でもここでむっちゃんが眼を閉じちゃったら、俺の今日一日もお終いになっちゃうんだよ。繋がってるんだよ、俺とむっちゃん。幼馴染じゃないけど、腐れ縁で繋がっちゃってんだよ否応なく。俺は今日という日を、まだ終わりにしたくねーの。だってまだ始まってもないからな。なにせ俺が今日やったことって、むっちゃん起こしたことだけだからな。むっちゃんの肩揺さぶったり、根気強く声掛けしたり、ぺちぺち頬叩いたり、寝てるむっちゃん目がけてダイブしたり、ミイラ取りがミイラになっちゃった的に添い寝してみたり、ただそれだけだからな、俺が今日やったことといえば」
なんて一日だ。最悪じゃないか。
「そうだよ。なにこの今日一日の俺?これで今日の俺、お開きにしたらかわいそすぎだろ。底からのスタートにしてもあんまりだろ」
寝坊助を起こすありとあらゆるパターンのモルモットとして、今日という一日を終えてしまってはあまりに僕がかわいそうすぎる。なんて不憫な僕。底からのスタートにしても、そこで終えたくはない。そこから一歩でも脱出したい。
「よし、いい兆候が見え始めたじゃん。そのままの勢いで身体を動かせ。動け動け動け」
消えろ消えろ消えろ。
「なんでだよ。同調しろよ。むっちゃんも自分の心と身体に向かって「動け」って命じろよ。コマンドしまくれ」
消えろ消えろ消えろ消えろ。ゲームのBボタンを連射するように、コマンドしまくった。
「むっちゃん、どんだけ寝たいんだよ。俺、もうむっちゃん起こすの、なんだか疲れた」
パトラッシュに愚痴でも零すかのように、精根尽き果てた物言いだった。
「疲れたなら、眠っていいんだよ」
「うん、もう今日はほんと疲れたから、そうさせてもらおうかな」
僕はといえば、身体こそ重いけど雲人とのやり取りですっかり眼が冴えてしまったので、とても眠れそうにない。仕方ないので起きることにした。
「あっさり起きてんじゃねえよ。つーかむっちゃんが起きちゃったら俺、眠れねえじゃん。起きざるえないじゃん」
「雲人って、僕が起きてる限り眠れないの?」
「そう。だってむっちゃんが起きてるのに、むっちゃんの中にしか存在しないエアー人間が寝てたら、それ意味なくねぇ?」
「お前、何しに出てきたって話だね」
「そうだよ。エアー人間の名折れだろ?だから寝てたくても眠るわけにはいかないんだよ」
同情する。いっそ僕の手で介錯してあげるべきだろうか。消えろ消えろ消えろ。
「今日は僕一人で頑張るから、雲人は心おきなく眠ってていいよ、とかそんな殊勝なこと言えないもんかね」
それができるくらいなら。
「むっちゃんはそこにはいないよな」
もう少し、まともな場所にいるはずだ。少なくとも、こんなとこで愚図愚図していたりはしないだろう。
「まあ」
痛し型なし。
「だな。んじゃ、やっていこうぜ。随分と後方からのスタートだけどさ」
スタートラインすらまだ見えない、途方もなく後ろからのスタート。
「ケツからのスタートなんだから、抜かれる心配もないと思えば気も楽なんじゃねえの」
ビリッケツでバトンを託された時のリレーほど、安心して存分に力を発揮できる環境はない。僕にとってはうってつけのポジションだ。
「プレッシャーゼロだよ。今のむっちゃんは。でもさ、バトンを託してくれる人はいたんだから、走らなきゃな」
託されたのはいいけど、僕はこのバトンを誰に渡せばいいのだろうか。
「それを見つけていこうぜ。だいじょうぶだって。心強い伴走者もいることだし」
自分の胸を拳でどんと叩き、雲人はその流れで拳を僕の方へとそっと突き出す。拳のハイタッチを求めてくるように。
「こういうのって何て言うの?」
「んー……なんだろ?ナックルタッチかな?」
「ふーん」
芝居がかった仕草が恥ずかしいので、喋りに紛れ込ませるように拳を合わせにいった。が、拳がかち合う寸前に雲人は拳をいなし、僕の腕の外側から拳を廻り込ませてそのまま僕の頬へとめり込ませた。
「ちなみにこれは」
知ってる。カウンターパンチだ。
「さすがにこれで、目も覚めただろ?」
ぱちくりと、眼をしばたたかせる。きつい一発に、頭も心も覚醒した。
「うん。じゃあ、始めよう」
これが合図となり、一日を、生活を始めることにする。こういう風に、始めようと思って始まる一日はどれくらいぶりだろう。何となく始まり、ぼんやりと過ごし、何となく終わっていく。そんな日常が当たり前だった。一日の始まりを意識して始める一日は、いつ以来か。
「考えてもしょうがねえよ。今日から始めると思えばいいんだよ。いつぶりとか、いつ以来とか、気にすんな。かつてを取り戻すんじゃなくて、ゼロから育てていくんだからさ」
振り返っても詮無いだけ。そんな暇があるなら今を大事に、今を育てていこう。ゼロの何もないところに、一から種を撒き、芽吹かせ、茎を伸ばし、葉をつけ、やがて結実し、開花する。そんな風に育っていきたい。そのためには、土壌から養分を摂取し、太陽を浴び、水を吸収する必要がある。
「腹ごしらえしなきゃ始まらないわな。人間なんだから」
階段を降り、リビングに向かうと、母が台所に立っていた。僕の足音をキャッチし、耳と神経は僕の方へと向けられているけど、こちらを振り向くことはない。あえて何事もなく振る舞っている、そんな気遣いが察せられた。
「おはよう」
自分から挨拶した。そんなのいつぶりだろうとか、考えるのはやめにした。ゼロから育ててゆく。朝起きたら、まず自分から朝の挨拶をする、そんな自分を育てていく。
「あら、おはよう」
声をかけられて初めて気づいたというように、母は僕の方を振り向いた。自然な微笑みを浮かべ、再びキッチンへと向き直る。あくまで自然に。
母にはこれまで、頭ごなしとか、抑えつけるようにとか、押しつけるようにとか、そんなイメージしか持っていなかったけど、僕が底なし沼からどうにか生還して以来、そんな母のイメージが変わりつつある。母の対応が変わったのか。僕の母を見る目が変わったのか。あるいはその両方だろうか。
「そこも気にしてもしょうがないんじゃねぇの?結局さ」
背後で雲人が言ってるように、ゼロから育てていくしかないのかもしれない。母との関係も。
「何事もそうしてくしかないよな」
雲人も後押しするように同意してくれる。
「とりあえず、基本的な挨拶とか、そういうことからやってくしかないんじゃないか?まま事めいてて馬鹿らしく感じるかもしんないけどさ、段取りこなすみたいにとりあえずはやってみようぜ。最初は空っぽの形だけのもんにしか感じられないかもしんないけど、いつか中になにかが宿ることもあるかもしんないしな。形だけでもさ、いつかなにかを込められるかもしんないし、知らぬ間になにか込もってるかもしんない。ダメならダメで、駄目になったとき考えて、違うやり方やりゃーいいだけだ。こんだけ遅れてスタート切ってるんだから、今さらリスタートしたところで誰も気にしないだろうしな」
励ましてくれてるんだろうけど、励まされれば励まされるほど、自分の空虚さとか滑稽さとか、何もなさを改めて実感する。
当たり前のことを当たり前にはできず、当たり前のことを、これは当たり前のことだから当たり前にやっていこう、と意識して当たり前なようにやっていかなくてはいけない。そうしなくてはならないほど、当たり前に、普通にできない。全てが嫌だったり、全てが面倒だったり、全てがどうでもよかったり、それくらい今の自分には何もなかった。
「何かある?」
キッチンへと向き直った母の背に尋ねる。
「えっ」
期待してなかったであろう僕からのアクションに、母は弾かれたようなリアクションで振り返った。
「いや、何か口に入れようかなと思って。あんまり重たいのは無理だけど」
自分の胃腸を労わるように、撫でさすりながら言った。
「そ、そうね。いきなり重たいのは無理よね。何かあったかしら?本当ならお粥とか柔らかく煮たうどんとか、そういうのがいいんだろうけど、あなたそういうの嫌いだったわよね」
僕はそういうのを嫌いだと口にしたことはないけど、確かに嫌いだ。嫌いだけど、病気の時にそういうのを出されて、箸の進みは遅いながらもとりあえずは完食した記憶はある。けれどもそれ以来、僕が病に伏せてもその手の療養食が振る舞われたことはない。いまさら気づいたけど、僕の箸の進み具合から僕の好みを母が察してくれたということになる。 これは、一歩間違えれば相手の好みを勝手に決めつけることにもなってしまう、危うい行為だ。でも、相手の気持ちを慮ってしてくれた好意でもある。押しつけや決めつけが、好意や善意へと反転していくように、母のこれまでの行為が好意へと塗り替えられていく。単に見方を変えただけの話だけど、僕には目から鱗の気分だった。
「あっ、ゼリーがあったわね確か。ゼリーなら喉も通りやすいんじゃない?栄養的にはちょっとあれだけど……あっ、運動しながらでも食べれるエネルギーチャージ用のがあったんじゃないかしら?あれなら同じゼリーでもエネルギー的には少しはいいと思うけど、どうする?」
父が会社からもらってきたやつだろう。
「何味があるの?」
「普通のはピーチだったかしら。エネルギーチャージ用のは……えーっと、チョコレートにハチミツってなってるわね」
「ピーチで」
「そう。そうね、美味しいと感じられる方がいいわ、きっと」
本音では栄養面を重視してチョコかハチミツを勧めたいけど、僕が甘ったるいのを苦手なのを知っているのでそれを胸奥にしまいこみ、今の僕にとって何が一番大事かを見極め納得したように、母は冷蔵庫からピーチ味のゼリーを僕に差し出した。木製の匙を添えて。
僕はスプーンやフォークなど、鉄製でできたものの口当たりが苦手で、口に運ぶのに使う食用道具は、家ではすべて木製のものを使う。子供の頃、フォークやナイフを使いたがるものの、いざ食べる段になると口当たりの悪さから出された食事を残してしまうこともしばしばだった。もしかしたらそれが原因で、我が家があまり外食をしなかったり、するにしてもスプーンやフォークを使わずに箸で食べられるメニューのある店にしかいかなかったのかもと、急に思い当たった。
僕は木製の匙で薄桃色のゼリーを掬い取り、舐めるように少しずつ啜った。
「血を啜る吸血鬼みたいだな。もっとがばっといこうぜ、ガブっとさ」
肉にかぶりつく獣のように僕の首筋に齧りつく仕草を見せる雲人。
「いきなり流し込むと胃がびっくりしちゃうんだよ」
ここのところ、まともな食事を拒否し、摂取したものといえばスポーツドリンクくらいだったことを顧慮すれば詮無いことだろう。
「そんなんじゃ力でないだろ?」
「力が出ないから、食べられないんだよ」
「じゃあ食べなきゃな。そうしなきゃ力が出ない」
「でも力がないから食べられない」
「堂々巡りか」
「うん。地獄巡りかもしれない」
この果てのない延々と続く堂々ループを、少しずつ前に進めていく。少しずつじっくりゆっくり。そのあまりの遅さに眩暈がしてくる。心が折れそうだ。倒れるかもしれない。寝転がりたい。
「起きたばっかだろ。寝太郎かよ」
その仇名を賜わるのもはばからないくらいに、寝転がりたい。
「寝太郎でも構わないって、相当だな。断固拒否しろよ。仇名もらった経験ないからって妥協すんな」
「人って、食べると眠くなるんだよ」
眼をこする。そういえば、雲人は食べなくてもいいんだろうか?
「エアーだしな」
「なるほど。あのさ、僕が言うのも何だけど、楽しみとかあるの?」
人間の三大欲求。食べることはできなくて、睡眠も僕という存在に依存する形。もう一つはちょっと脇に置くとして、少なくとも三大欲求の二つを奪われてしまっている。ろくに経験もしないまま楽しいことなんて何ひとつないと分かった気になり人生を楽しもうとすらしなかった僕が言うのもなんだけど、存在してて楽しいことなんてあるのだろうかと心配になる。
「ひどい言い草だな。本当にむっちゃんにだけは言われたくないよな。でも心配ご無用。俺にはこれがあるからな」
額の前で右手首をクイッと返しながらシュパッ、と口ずさむ。たぶんバスケのシュートリリースのフォームをジェスチャーしてみせたのだろう。
「招き猫?」
「そうそうお金こないかなニャー、ちげーよ!……的なノリツッコミをご所望だったりする?」
ノリツッコミみたいなテンションの上がり下がりはなく、平坦な抑揚のまま雲人は言った。
「いや、そこまでしてもらうほど、僕の答えも冴えたものじゃなかったから、そんな感じでいなしてもらえると助かる」
「なるほど。こんな感じな。おーけー、なんとなくわかってきた」
これから長いことチームとしてやってくんだろうから、どんな対応や反応がしっくりきてやりやすいのか、把握していくことはお互い必要だろう。相手がどんな奴なのかを知っていく。これも関係性をゼロから育てていくってことになるのだろうか。
「つまり雲人は、バスケさえしてれば楽しいってこと?」
「そ。俺はバスケさえできりゃ、それでご機嫌なのさ」
得意げに雲人は頷いた。
「バスケ馬鹿ってやつか。漫画のキャラクターみたいだね」
「あれじゃねえの?むっちゃんが頭の中で俺を創りあげた時に、バスケ漫画かなんかの設定を知らずに持ち込んだんじゃねえの?」
「設定の使いまわしか」
人生経験の乏しい僕の中に、人間の性格類型のストックがそうそうあるとも思えないし、バスケ漫画のキャラクターなどを参考に、あるいはオマージュ、もしくは引用、決してパクリとか盗用とかでは断じてなく、雲人というエアーな存在を創りあげた可能性は十分にありえそうだ。
「普段の私服がいかにもなバスケファッションでその上バスケ馬鹿って、ありがちすぎて逆に最近じゃ目にしない設定だね」
「それ採用したのむっちゃんだろ。俺としては楽だからいいけどね。普段はかっちりしたスーツで身を固め、いざバスケとなるとストリートファッションに変貌して、みたいなの面倒じゃん。堅苦しいし」
僕としても、バスケやる度にいちいちヒーローの変身バンクみたいに着替えのシーンを挟まれてもうっとうしい。単純が一番だし、バスケ野郎でバスケ馬鹿みたいな王道は何だかんだいって安心感がある。
「とはいっても、そんな王道キャラだと思われるのも癪だけどな」
こういう憎まれ口を挟まずにいられない一癖あるところが、僕なりに一味アレンジしてみたところなのかもしれない。
「創作物を分析するように人のことを見るなよ。実在しないエアーな存在だからって、傷つかないわけじゃないんだぞ。心が空虚になったりするんだぞ!」
空気人間の心が空虚に満たされる。傷ついたというよりパワーアップしたようにも聞こえかねない表現だ。エアーな存在の心理表現は難しい。
「だからそういう分析いらねえから。普通に会話しようぜ」
普通の会話ってどういうのだろう?そもそもこれ、傍からみたら一人喋り、一人遊びしてるようなもんだろうから、普通とはかけ離れてる。
「いちいち考えんなって。俺を会話相手として、普通に喋ればいいんだって」
普通に喋る。僕にとって、実はそれが一番難しかったりする。子供の頃から、周りの人が、休み時間とか登下校の時とか教室間の移動の際などに、何気なく会話してるのを不思議に思うことが多々あった。皆どんな会話してるんだろう?僕の中には喋ることなんて何もなかったから、他の人が何を喋ってるのかわからなかった。耳をそばだてて聞いてみれば、他愛もないどうってことのないとしかいいようのない、取り留めのない会話なのだが、ならばなぜわざわざそのどうでもいい会話をするのだろうとか、本当にどうでもいいことを考えたりして、一人でいた。
「ずーっと一人だったわけじゃないだろ?」
別にクラスの中でいじめられてたわけじゃないし、特別に孤立していたわけではないと思う。年をおうごとに弧絶の度合いが高くなっていって今に到るわけだけど、小学生の頃なんかは比較的普通にクラスの人たちと接していたような気がしないでもない。
「けど、なんとなく違和感みたいなものはあったってことか。なじめない感じが」
「うん。まあわざわざ口にしないだけで、誰しも感じてたりすることなのかもしれないけど」
「でもむっちゃんは、今わざわざそれを口にせざるをえないほどに感じてたわけだから、やっぱり誰にでもあることではないんじゃないか?わざわざ口にしないでいられる人と、わざわざ口に出さなきゃいけない人との違いは、やっぱ確実にあるんじゃねえの?」
そうなのかな?よくわからない。
「案外、そこは大事にしてかなきゃいけないとこかもな。普通の人が普通にできてる会話を、むっちゃんは上手くできない。他の人もそういうことを感じたりするのかもしれないけど、わざわざ口に出すほどのことじゃない。でもむっちゃんは今、それを口に出さなきゃいけないほどに、感じていたし、今も感じている」
僕は普通の会話ができない。普通って何?とか言い出すとキリがないから無視するとして、とにかくできない。できないという自己認識がある。昔からずっとあり、年月の経過とともにその思いは高まっていった。そうしてたぶん、僕と僕の外の世界との間には、隔たりとかぽっかり開いた空間とかが差し挟まれていったのだと思う。そしてその隙間を埋めてくれてたのが……。
そういえば、こういう感じの何について喋ってるのかよくわからなくて目的地も着地点も判然としない会話を昔はよくしていた気がする。
「悪いけど俺はさ、むっちゃんの会話相手じゃないんだよなぁ」
遠慮がちに、申し訳なさそうに雲人は言った。
「少しくらいは会話につきあってやれるけど、ガッツリトークってわけにはいかないんだよ。なにせ俺は、むっちゃんの相棒でもなければ相方ってわけでもない。あくまで俺はチームメイト。そんな俺とむっちゃんが一緒にできることっていいえばさ」
「……わかったよ。それじゃ、『ご馳走様』 」
僕は台所にいる母に聞こえるように言った。雲人との会話は頭の……心の中で行っていたので聞こえてはいないはずだ。不審に思われるので口に出したりしないよう心掛けていたけど、何かの拍子に声に出してしまったりすることもあるかもしれない。そうならないよう今後も気をつけなくては。今日はまだ、雲人との会話は当たり前の行為ではないからそういう意識も働いているけど、もしこれが当たり前の行為になれば、油断してうっかり発声したりしてしまうかもしれない。そうなったら、幻覚症状患者として強制入院ともなりかねない。油断大敵、僕は心の手綱を締めた。
「よかった。全部食べれたのね」
母は僕の完食以上に、ご馳走様という言葉に喜んでいるように見えた。
「うん。美味しかった」
心配をかけまいと繕った言葉ではなく、本当に美味しく感じられたので、それをそのまま伝えた。美味しいと感じられたのはいつ振りだろ……いや、取り戻したように、いつ以来と考えるのはやめにしよう。美味しいと感じる力がゼロだった自分が、ほんの少しだけ美味しいと感じられる自分へと育った。そう考えていくことにしよう。それが、今の僕にできそうな、今の僕によさそうなやり方だ。雲人が言うには。
「そう、それなら食べれそう?もしあれだったら、いくつか買っておきましょうか」
「うん。そうしてもらえると助かる」
「ピーチ味だけでいいの?他の味もあったはずだけど」
「とりあえずはピーチだけでいいや」
「わかった」
聞きたいこととか言いたいこととか色々あるだろうに、それでも僕の状態を気遣い、あえて何も口に出さず、今はとりあえず見守ってくれている。そんな印象だ。そんな深慮もあってどこか硬さを残している気もするけど、どうにかまともな親子の会話をできたのではないか。そんな気がしないでもない。それなりに普通の会話を終えられて、なんとなくほっとして部屋へと戻ることにした。普通っていうのも、案外悪くない。
「そういえば、招き猫ってなにかしら?」
溜まりかねたように母が口を開いた。山ほどある言いたいこと聞きたいことのなかから、これだけは聞かずにいられないのでこれだけは言わせて、とでもいうように。
「急に一言だけ、いきなりあなたが声を出したから気になっちゃって」
「え、いや、あの」
よりにもよってそのひと言だけ漏れ出ちゃっていたとはついてない。漏れるにしても、もう少し言い訳しやすい言葉を漏らしたかった。
「やっちゃえよ。そうそうお金こないかにゃー、違うよ!的なノリ突っ込みでこの場を煙に巻いちゃえよ」
雲人による悪魔の囁き。
それ煙に巻くどころか疑惑が深まるから。この子、おかしいんじゃないかしらって。そもそもこの場合、招き猫ってボケをかまされたわけでもないんだから、ノリツッコミで返したらいよいよもう訳わかんなくなっちゃうし。普通の会話からは程遠いやり取りだ。
てなことを頭と心をフル活用して、無言で雲人と会話する。その一方で、母を前に招き猫と口にしてしまったことの言い訳に頭を振り絞る。正直もう、何がなんだかわからない。今まで無感覚だった神経に、一気に処理できない刺激が送り込まれてきたようなてんやわんやな状態。
「いや、昨日、凪ぃの家で招き猫を見たからさ、あれ改めてみると案外かわいいんだなって思って」
切り抜ける言い訳としては悪手の部類に入るけど、今の僕に打てる最善手。これが精一杯なので仕方ない。
「そう、なの?招き猫?あの家にあったかしら?招き猫ってかわいいかしら?」
疑問が渦まいているのが手に取るようにわかった。でもその裏で、昨日僕が家を飛び出し向かった先が凪ぃの家だとわかり、とりあえず母はほっとしているようでもあった。
「あなたが招き猫好きなんて、なんだか意外。結局、わたしは何もあなたのことわかってなかったってことなのかもね」
わずかにまつ毛を伏せ、母の瞳に陰りが射す。心のなかで思い悩んでいたことが意図せず滲み出てくるようだった。
「いや、僕も自分が招き猫をかわいいと思うなんてびっくりしてるくらいだし。自分でも意外」
わずかに沈み込んだ母を引っ張り上げるように、ことさらに明るい調子で言った。
「そうなの?あ、そんなに好きなら、あの家からもってきましょうか?」
母の提案に僕は動揺する。
「いや、いいよそんなわざわざ……あっ、でも丁度散歩でもしようと思ってたから、歩きがてら僕が行って取ってこようかな」
凪ぃの家には今日も行こうと思ってたので、この言葉に嘘偽りはない。問題なのは凪ぃの家には招き猫などないので、どこかで買わなきゃならないことだ。欲しくもない招き猫で散財するのってなんだか納得いかない。
「そう……一人で大丈夫?」
招き猫関連への疑いではなく、僕の体を心配しての母の言葉。
「うん。近いし、昨日もいったから」
「そう、ね。少しくらい外の空気吸ったほうが、体にもいいわねきっと」
母は自分を納得させるように言った。
「うん、それじゃ行ってくるね」
僕は心配いらぬというようにできるだけ元気と生気をこめて母に言い残し、リビングを後にした。
「行くのか?本当に」
玄関のところで、雲人が話しかけてきた。
「行くよ。だって雲人が言ったんだろ。僕と雲人が一緒にできるのは、って。だとしたら、行くところはあそこしかないし」
さほど乗り気ではないけど、存在してて禄に楽しみもないであろうチームメイトが唯一楽しめるのがそれしかない、と言うのであればつき合わないわけにはいかない。
「そうこなくっちゃな」
得たり、とばかりに雲人が笑顔を弾けさせる。
とりあえず、僕らのバスケライフを始めることにした。