18話
凪ぃの家から自宅へと戻ると、玄関先で母がおろおろと取り乱した様子で佇んでいた。やにわにいなくなった息子に気づき慌てて飛び出したはいいけど、行くあてもないだろうからすぐに家に戻ってくる可能性も十分あるだけに、探しにいくにも行きあぐねている、そんな忸怩が窺えた。とぼとぼと歩いてくる僕の姿を目にすると、母は心底からほっとしたような安堵の顔つきになり「よかった」とだけ言って僕に寄りそうようにして家へと入った。
てっきり何か詮索めいたこととか言われるかと思ったけど、その手合いは何も聞かず、母はただただ僕の弱った体を労わる言葉だけを口にした。僕はそれら全てに対しひたすら「大丈夫」とだけ答え、そのまま部屋に戻ろうかと思ったが、戻りしなにひと言だけ「外に出るの久しぶりだから、さすがに疲れたよ」とだけ言うと、
「それはそうでしょ。あなた、ずいぶんと外を歩いてなかったんだから」
母はふわっと緩んだような力の抜けた笑みを浮かべた。
その微笑みが僕の何かを溶かしたのか、喉のつかえが取れたように言葉がせりあがった。
「体のこととか、精神的なこととか、心配してただろうし、心配してるだろうと思うけど、とりあえず、色々あって、大丈夫だから。大丈夫っていうのは、これからどうなるかは僕にもわからないけど、最悪なことには……ならないと思う」
最悪なことに、という濁した表現のところで、母の眦が戦慄き、顔に陰りが射す。僕がどういう状態で、何を望み、どうなりたいのかを、母がはっきりと理解していたことがその反応で浮彫りになる。理解していたからこそ、母は僕を強制入院させようとしたのだろう。
「……だから、できれば、強制入院みたいなことはしないでほしいんだけど」
不意打ちのように、予想外のところから被弾されたように母が目を見開いた。自分が裏で画策していたことが筒抜けだったことに、驚きとバツの悪さが混在しているようだった。
「ごめんなさい。別にお母さん、あなたを強制的にどこかに押し込めようとか思ったわけじゃなくて、ただただ心配で。あなたが今日にも、自分からどうこうっていうんじゃなくて、ほら食事もろくに取ってなかったでしょ?だから体力的に倒れちゃうんじゃないかって。でも普通の病院じゃ入院もさせてもらえないし、あなたは自分から病院に行ったりもしないだろうから。お母さん、とにかく心配で」
言葉に偽りの毛色や意念は読み取れなかった。もしご近所への体裁なんかに気を払っていれば、強制入院なんて措置は、僕が抵抗し暴れる可能性もある以上、絶対に取らないだろう。母がその策に頼ったということは、よっぽど切羽詰まっていた状態で、他に道が残されていなかったのだと思う。崖っぷちに手をひっかけ、ぶらぶらと命の際にぶら下がってどうにか命を保っている息子、を見るような思いだったのかもしれない。ある意味で、見ている方がよっぽど怖いかもしれない。
「でも、大丈夫。お母さん、そうするつもりはなかったから」
まとわりつく迷いを振り払うような口ぶりだった。
「えっ?」
「信じてもらえないかもしれないけど、万が一の可能性も考えて、強制入院のこと調べてはみたけど、やっぱりこれに頼ったらあなた一生だめになるって思ったから」
母は眼を瞑り、一拍置いて言葉を接いだ。
「正直、最初は無理やりでもなんでも、とにかく体を回復させなきゃって思ってたから強制的に病院に入れちゃえばって安易に考えてたけど、それをやったら、たぶんただでさえぼろぼろのあなたの心が本当に壊れちゃうなって思ったの。そうなったら仮に一時的に体が良くなったとしても、また同じことになるだけだって。体だけ治っても何の意味もない。心も治らなきゃ何にもならない。あなたはあなたを失ったままだなって思ったから。それに強制入院を一度させてしまえば、こんな酷い状態なのにあなたに頼られもしない私は、あなたからの信用を決定的に失っちゃうんだろうなって思ったから。そうなったら、もう何を言っても何をしてもあなたには届かないだろうから……今でさえろくに届いてないのに、これ以上となったら、どうなっちゃうんだろうって。あなたの体がどうにかなっちゃうって怖さと、あなたの心が治しようもないくらいに壊れてわたしへの信用が完全に失われちゃうことの恐怖と、一日中ずーっと、朝起きてからずーっと心の中で天秤にかけて、その度ごとにどちらに振れるかわからなくて……どうしたらいいのかはわからないんだけど、でもぎりぎりまで、本当の本当のぎりぎりまで強制入院だけはやめようって思ってたの。外に頼るんじゃなくて、でも私がなにか具体的にできることはないからただただ耐え忍ぶっていうだけで、自分が息子に対してできることはこんなにもないんだって痛感して自分が自分で嫌になるほど情けなかった。でも、それでも強制的に病院に入れても何にもならないんだ、ぎりぎりまで待てるだけ待って、とにかくあなたに万が一のことだけはないようにって言い聞かせて。それでも日に日に、その万が一がひたひたと忍び寄ってくるみたいで……お母さんやっぱり弱いのね、もしもの時に備えて下調べだけはと思って電話をかけちゃったの。もちろん、呼ぶつもりなんてなかったのよ、信じてもらえないかもしれないけど」
言い訳や弁明とは違う、心の底に溜まった思いを吐き出すように母は語った。自分の言葉がちゃんと僕に届いているか、全てではなくてもその切れ端だけでも聞きとどめてもらえないか、そんな懇々とした思いが僕の胸にじんわりと沁み渡った。母の言葉から思いだけを抽出して、僕の内部に伝播していくようだった。
「うん、わかった。 お母さんの気持ちは、どれくらい心配してくれてたのか察しようもないけど、わかったから……信じるから。それと、ありがとう。お母さんの言う通り、強制入院させられても結局は同じことの繰り返しだっただろうし、お母さんのこと本当に信頼できなくなってたと思う。たぶん、完全に心を閉ざしちゃってた。だから、そうしないでくれて、僕にそうさせないでくれて、ありがとう。助かった」
わだかまりとか、苦い記憶とか、不信感とか、甘ったれた八つ当たりのような感情とか、全てが解消されたわけではまったくないし、僕は僕で我が身の至らなさとか懺悔すべきことも山ほどあったけど、とにかく今は、今いえるのは、その言葉だけだった。
「とにかくありがとう。たぶん、わからないけど、いちおう、もう大丈夫だから。心配かけまいとしてとか、あれこれ言われるのがうっとうしいから取り繕ってとかじゃなくて、もう大丈夫だと思う。これからのことなんて何もわからないし、今さら自分がどうこうできるとか思えもしないんだけど、でも、大丈夫だと思う。とりあえず、生きていく……ことにしたから」
生きたいと思ってしまったから。避けようもなく生きたいと願ってしまったから、逸らしようもなく生きたいと祈ってしまったから。
「……そう。わかったわ。何があったのかはわからないけど、わかった。あなたの言葉を信じるわ。自分の言葉を信じてほしかったら、まずはあなたの言葉も信じないとね。うん、それに何だか、体はこんなにやせ細ってるのに、目の力と声の張りが、気のせい程度には感じられるし」
自分ではチーズケーキを口にする前とその後では、生気という意味では雲泥の差があると思っていたけれど、周りからは気のせい程度にしか見えないのかと苦笑した。どうも自分はちょっとしたことで調子に乗るというか、驕り高ぶる癖があるようだ。何もできないくせに少しできると夜郎自大のように過信する。だから身の丈通りの現実を突き付けられると必要以上にショックに打ちひしがれる。で、やる気をなくし、無気力ループの円環に呑みこまれる。結果……この体たらく。なにせ今でさえ、この思考がもたらす自虐ループに人生へのやる気を失いつつあるのだから。さっき生きたいと乞い願い、今さっき大丈夫だからと母に公言したにもかかわらず。先が思いやられるけれど、今は先のことを考える余裕もない。とりあえず今を生きるので精一杯だ。
「今日は疲れたから休むよ。食事は、明日から少しずつだけどちゃんと取るようにするから」
母はまだ何か言いたそうにしていたが、僕が食事について言及したことに今までにない光明を感じたようで、これ以上の言葉はかえって逆効果になりかねないと察して、慎むように会話を切り上げた。
「わかったわ。もし何かあったら呼んでね」
そう言い残し、母は名残惜しさを残しながらリビングへと戻っていった。僕は部屋のドアを開け、後ろ手でドアを閉めようかと思ったけど、部屋の空気の淀み具合濁り度合いが危険領域にまで達してるので、そのままドアを開けたままにすることにした。除染のため空気清浄器をかけたいくらいだけど、それは叶わないので窓を開けた。思えば窓を開けるのも随分と久しぶりだ。心の窓もこれくらい簡単に開けられればいいのになと柄にもないことを思ったりしていると、体が悲鳴を上げた。わずかな歩行とこの程度の日常動作で限界を迎えてしまうほど、僕の体は弱ってるようだ。弱音は吐きたくないけど、情けなかった。あまりの情けなさに、何年かぶりにバスケ部に復帰したはいいけど離脱時に不健康で不健全な生活を送っていたが故に体力的な衰えを大事な試合で痛感させられ無為な時間を送ったことに後悔と悔恨の涙を流す、そんな漫画のキャラクターのような思いに浸った。きっと今の僕では、スポーツドリンク缶のプルトップすら開けられないに違いない。
「あー疲れた」
しばらく使っていなかった体と心と頭がくたくたにくたびれ、倒れ込むようにここ最近僕の陣地と化していたベッドになだれこんだ。ここを飛び出した時にはもう戻ってくることはない、片道の燃料だけを積んで離陸した特攻隊のような気持ちだったけど、幸いにも、あるいは運悪く、はからずも生き延びてしまったみたいだ。この先、生きていけるのか、生きてていいことなんてあるのかないのか、生きていてもいいのか悪いのか。生きるということに関する疑問や不安が渦を巻いてこんがらかってるけど、良くも悪くも、生き延び、生きている。というよりは、生かされた。僕が生きたいとか生きたくないとか思う以前に、生かされてしまった。だからもう、生きたい生きたくない、生きられる生きられない、生きてていいのか悪いのか、そんなものは放り投げて、生きるしかない。そんな状態だった。
「しちめんどくせーな。時間が経つとあれこれ考えちゃうのな、むっちゃんて。あの瞬間、とりあえず生きたいって思ったわけだろ?じゃ、それでいーじゃん。そん時の気持ちを大事にして、信じて、その思いを頼りに突き進めばいーだけだろ?」
チームメイトになってまだ日が浅い、というか初日なのに、ベッドにどかっと腰かけ、僕の部屋にすっかりくつろいだ様子でなじんでいる。
「雲人って僕の中にしか存在しないんだよね?」
「うん。人前で俺に話しかけたら気味悪がられるからやめたほうがいい。不思議ちゃんキャラになりたきゃ別だけど。あるいは不思議ちゃんだと思われたいキャラになりたいんならいいけど」
「なのにさ、いつどのタイミングで、どういう内容のことを喋るのか、とかは僕が決めることはできないの?」
雲人は僕の意志とは関係なく、独立した考えのもと僕に話しかけている……ように僕には思える。
「そりゃそうだよ。だってむっちゃん、自分のこと自分で完全にコントロールできるか?あれをやっちゃ駄目なのにやっちゃったり、本当はやりたいのにやらなかったりやれなかったり、こんなこと思いたくないのに思っちゃったり、そんなの山ほどあるだろ?」
ある。疑いようもなくある。その積み重ねが人生なんだとわかりきった顔で達観したいほどに、ある。
「俺もその一環ってわけ。だから俺を制御下に置くなんて無理。自分のリモコンを自分で操作できるってんなら話は別だけど、んなことできるわけないだろ?」
「なら雲人から耐えがたい言葉を言われたりしたらどうしたらいいの?消えろって念じても消えないし、耳を塞いだって聞こえてくるんでしょ?」
厳しい言葉だって時には必要だけど、僕の弱弱しい心と体が、身もふたもない遠慮知らずの雲人の物言いに、どこまで耐えうるか気がかりだった。
「俺の声ってのは、言ってみればむっちゃんの内なる声だから、いくら耳を塞いでも意味ないだろうな。むしろ外部の音から隔離されて音量アップで聞こえるかもな」
耳障りな声や言葉ほど耳がキャッチしやすかったりするけど、それに近いことが起きたりするかと思うと、ぞっとしない。
「でもま、大丈夫だろ。俺は基本的にむっちゃんの味方……つーかチームメイトだから、厳しいことも言うけど、むっちゃんが壊れちゃうほどきついことは言わないし、受容できそうもないことは言わないから。結局さ、人って自分に甘いんだよ。特にむっちゃんは弱いから大丈夫。自分がぶっ壊れちゃうくらいまで自分を追い込んだりしないだろ、たぶん。なにせ弱いから。雑魚キャラだから。弱くてラッキー」
弱いから同じ弱い人の気持ちをくみ取ってあげられるとか、弱さを否定しないで弱き存在として丸ごと認めてあげられるとか、どうせ弱いのが利点になるならそういう風になりたかった。
「弱くてよかったな、むっちゃん。それにさ、むっちゃんが自滅しちゃったら、むっちゃんあり気の存在の俺も消えてなくなっちゃうんだから、そこまで追い詰めるようなこと言ったりしないよ。消えたくないし俺」
「ああ、なるほど」
その理由は利害性が明確なのでわかりやすい。僕の胸にストンと落ちてくる。
「雲人ってさ、基本的に僕のいるところにずーっと着いてまわるの?」
部屋の前で母と会話してた時も、僕の後ろに背後霊のようにつっ立っていた。どんな顔をして聞いてるのか想像するだにこっ恥ずかしいので、あえて確認はしなかったけど。
「そうな。守護霊みたいなイメージかな」
「そのうち成仏するの?」
「消したがるね、やたらと。どーかな、むっちゃんが一人で生きていけるようになったら、昇天するみたいに消えちまうのかもな。わかんねぇけど、少なくともむっちゃん、今んとこ一人で生きてけるイメージある?」
「……」
「無言ってのは雄弁だな。だからまぁ、しばらくは二人三脚、二人羽織みたいにやってくしかないわな。動きにくかったりしっくりこなかったりはしょうがない。痛し型なしだな」
諦めを促すように雲人は言った。痛し型なしは凪ぃの口癖だけど、僕の脳に記憶されたその口癖を、僕が作り出した雲人が受け継いでるってことなのだろうか。
「そういう細かいのはわからん。けど、自然と口に出ちゃうから、そういうことなのかな。あれじゃないか?むっちゃんは本当は痛し型なしって言葉を気に入ってて自分でも使いたいんだけど、実際に口にすると人の真似っこってことになるからそれが恰好悪くて口に出来ない。だから代わりに俺に言わせてる。みたいな」
そんなに気に入ってた自覚はないけど、無意識の領域は奥が深いのでわからない。けどもしこのことが凪ぃに知られたら調子に乗るだろうから、それだけは避けたいところだ。
「むっちゃんさ、疑問とか聞きたいことは山ほどあるだろうけど、ある意味で無駄っちゃ無駄だよ。少なくとも今んとこは受け入れるしかない。生きてくんなら受け入れざるえないよ、俺のこと」
最後通牒のように雲人は突き付けてくる。
「そうなんだろうね」
不承不承、頷いた。頷かざるえなかった。
「だからさ、今日のところはもう休もうぜ。疲れただろ」
「疲れた。生きてくのが嫌になるくらい」
弱音と本音を零すどころかぶちまける。雲人には隠したってしょうがないのだから、隠しようもない。
「それが生きてるってことだな。疲れない人生なんてないし、嫌にならない人生なんてないからな」
噛みしめるように、架空の存在の雲人は言った。
「これが生きるってことなの?」
「そ。嫌だろうけど、辛いだろうけど」
「痛し型なし?」
「そ。んで、その痛し型なしの状態から、痛みを通して自分なりの型を築きあげてゆくってわけ。俺はそれのお手伝いさんみたいなもんだ」
えっへんとばかりに胸を張る雲人。
「具体的に何を手伝ってくれるの?」
「生きることだろ、そりゃ」
「だから具体的には」
ベッドから身を起こし、わずかながら前のめりになって雲人に問い詰める。
「焦るなよ、むっちゃん。疲れてるだろうから、詳しい説明は後にしようかと思ってたけど……でもむっちゃんが俺に聞いてくるってことは、むっちゃんの心が求めてるってことなのかもな。んじゃ、さわりだけでも説明するとすっか」
ふぃーっと一呼吸し、やれやれというように雲人は後頭部をかいた。
「なんだけど、ちょっと場所移動しないか?」
河岸を変えよう、とでも提案するような口調だった。
「何で?」
疲れてるので一歩も動きたくない。
「だってむっちゃん、俺と喋るのに慣れてないだろ?そりゃそうだよな。逢ったばっかなんだから。本来、俺と喋る場合はむっちゃん、別に口に出さなくても思っただけで俺には伝わるんだけど、いま普通に口に出して喋っちゃってるだろ?」
「うん」
口に出して言った。
「そりゃ仕方ないよな。むっちゃんにしてみれば普通に人と喋ってるにすぎないわけだから。でも周りから見たらさ、誰もいないのに一人で見えない相手に向かって喋ってる人、に見えちゃうわけ。で、階下にいるむっちゃんの母親がさ、なにやら自分の部屋でぶつぶつ喋ってる、ついさっきまで死にそうだった息子の声を聞いちゃったらさ」
なるほど。結論は火を見るより明らかだ。安心して会話をするためには、場所を移した方がよさそうだ。
「わかったよ」
ため息を吐くように言って、僕は凪ぃの家に再び戻ることにした。さっき戻ってきて再び出かけるとは言い出しにくく、とはいえ黙って抜け出すのも心配かけるだけだろうから、「凪ぃの家に行ってきます」とだけ書き置きを残し、気づかれぬようそっと家を出た。
重い身体を引きずって、ようよう凪ぃの家へと辿り着いた。その間、雲人は「むっちゃんふぁいとー痛し型なし痛し型なし!」とマラソン選手を沿道から励ますように掛け声をしてくれていたけど、正直うっとうしかった。どんなに心の中でうっとうしいなと思っても、決してやめてくれなかった。応援という名の嫌がらせ。
「ようやくついたな。俺の励ましの甲斐あって」
どす黒い感情による負のエネルギーってやつも馬鹿にはできない。そのおかげでここまで歩くことができたのだから。
「そいじゃ、続きをやるとすっか」
雲人が茶の間に腰を下ろし、僕も続く。
「むっちゃんはさ、そもそも何で生きたくないって思っちゃったのか、わかるか?」
まっすぐに僕を見つめて、雲人がずばり切り込んできた。
「……これっていう決定的な何かがあったわけじゃなくて、いつの間にかだんだん、嫌なこととか面倒くさいこととか辛いこととかイライラすることとか、そういうのがちょっとずつちょっとずつ埃とか汚れが溜まっていくみたいに積み重なったりこびりついちゃったりして、気が付いたらその積み重なってこびりついたものに塗り固められて、雁字搦めにされたみたいになっちゃってて、いつのまにかどうにもこうにも身動きとれなくて狭ぁい所に閉じ込められて息もできない感じになっちゃてた、みたいな感じなのかな」
上手く説明するのは難しい。難しいし、突き詰めて考えると、自分の弱さとか愚かしさと正面から向き合う羽目になるので、好んでやりたい作業じゃない。前に進むためには、やっていかざるえない作業なのかもしれないけど。
「うん、わかってんじゃん。まーそういう作業はおいおいやっていくとしようぜ。一気にやるとぶっ潰れちゃうし。だからその前に、今はその重みに耐えきれなくなってぶっ壊れちゃった心と身体、こいつをどうにかしなきゃな」
雲人が僕の胸のあたりに拳をあてがう。
「心と身体。この二つのどちらかでも失ったら人ってのは生きていけない。身体は元気だけど心が死んでちゃどうにもならないし、心は生気にあふれてるけど身体が動かないんじゃどうにもならない。もちろん植物状態とか寝たきりとか、仕方ないケースはあるからそれは例外として。だからもし仮にむっちゃんが強制入院させられてたら、身体はなんとかまともに回復したかもしんないけど、心の方は死んだまんまだったろうから、しなかったのは英断ってわけだな」
改めて、母に感謝した。
「だな。んで、むっちゃんが生きていくには、心と体を、俺と一緒に育てていく必要があるわけだ」
「育ててゆく?」
雲人の言葉にひっかかりを覚えた。回復、じゃないのだろうか?
「じゃない」
雲人が頭を振る。
「回復ってのは元に戻るってことだろ?以前の状態に。でもさ、もともと以前の状態で普段の生活を送っていたら、外部からのあれやこれやに耐えきれなくなって、遂には生きていきたくないって思っちゃったんだろ?ようするに、以前の状態じゃ生きていくのに力足らずだったってことだよな」
以前の状態、の僕。その僕では、一人で生きていくことはできない。
「無理だろうな。無理だからこそ、今この状態ってわけだから。だからこそ、今の状態、心も身体も経験もゼロの状態から、回復して以前の状態を取り戻すんじゃなくて、ゼロから育んでいこうぜ。以前とは違う、以前よりも生きてく力のある、にゅーむっちゃんをさ。ねおむっちゃんを」
その仇名は断固拒否。
「簡単なことじゃないけど、ゆっくりじっくり、ゼロから薄紙を一枚いちまい積み重ねてねゆくみたいにちょっとずつちょっとずつ、むっちゃんを育てていこう。だいじょーぶ、始める場所はゼロからだし、一見するとひとりぼっちでのスタートにみえるけど、むっちゃんは一人じゃない。むっちゃんには俺がいる。俺っていうチームメイトが」
自分の胸を、拳でどんと叩く雲人。その震動が空気を通して伝わり、僕の肺腑にまで響き渡ってくるようだった。
「あいにく俺は現実には存在しない人間だから一人とはカウントされないかもしれないけど、半人分くらいにはなるだろ。二人でやってこうぜ、とはならないけど、1.5人でやってこうぜ。一人なら無理でも、ひとり+0.5ならなんとかなるだろ」
なんとかなるとも思えないけど、一人よりはマシな気がする。僕一人じゃどうにもならないこと確定だけど、0.5人分の希望は上乗せできるわけだし。
「だろ?それでいいと思うよ。いきなり絶対にやっていけるとか、生きてくことに超前向き、みたいのはかえって嘘くさいよ。あん時に比べればちょっとはマシ、だから何とかなるかもしれない。駄目かもしんないけど何とかなる可能性があん時よりはほんのちょびっとだけあるかもしれない、あったらいいな、きっとあるよ、あるってことにしておこう……くらいの方が頼りないけど本気っぽいよな。一人だった時よりもマシ、そのマシに賭けてみるのも悪くない。それでいいんじゃない」
いいっていうか、それくらいしかできそうにない……から、やる。生きていきたいと思った以上は、そうするしかなさそうだから。
「男らしくもないし、うじうじもしてるし、潔くもないけど、それがむっちゃんなんだろうな」
ゼロから育んでいけば、こういう情けないところも少しは変わるのだろうか。
「どうだろうな。以前のむっちゃんを取り戻すわけじゃないとはいっても、人間変わらないところは変われないし、にゅーむっちゃんとは言っても、結局むっちゃんはむっちゃんでむっちゃん以外にはありえないし、なりえないからな」
自分の代わりなんていくらでもいるのかもしれないけど、自分は自分でしかなく、他の誰かみたいにはなれない。
「だから眼をそらさずに自分と正面から向き合って、自分でしかありえない自分を受けいれながら、少しずつ少しずつ新しいむっちゃんを築き上げてくしかないな。どんなむっちゃんになるのか、どんなむっちゃんになれるのかはわかんねぇけど、たぶん変わらなかったり変われなかったりする部分もたくさんあるけど、以前のむっちゃんとほとんど一緒なんだけど、それでも決定的に何かが違う。これって名指しできるようなはっきりしたものがあるわけじゃないけど、でもやっぱり違う。何かが決定的に。そんな風になってけるといいよな」
どんな風に違うのか、違っていけるのか想像もつかないけど、もしも凪ぃっぽく言うとすれば、フィクションのタイムループ物における二週目、みたいな感じなのだろうか。一見同じことの繰り返しにみえるけど、自覚的な分だけ何かが決定的に違っている。違うかな?
「それにさ、いきなりむっちゃんが陽気でポジティブなハートウォーミングキャラになったら戸惑うっていうか、ある意味それ、むっちゃんて存在は既に死んでるようなもんだからな」
そんな自分を想像すると、恥ずかしすぎて死にたくなる。そんな奴の中に僕はいない。そんな僕は僕として既に死んでいる。中の人が違っている。誰かとの入れ替わりを疑うべき事態だ。
「だからこそ、ゆっくりじっくり、自分を見失わいようにしながら、かつての自分にはなかったものを育てていかなきゃな」
雲人の言ってることに異論はないけど、具体的にどうするのかに話が進展しないので、もどかしさにじりじりする。
「こんなんにもどかしさを感じてたら、この先やってけねぇって。こんなもんじゃないから。むっちゃんのこれからの歩みは、もっともっとゆっくりで、じっくりで、カタツムリにも追い抜かれそうになるくらいのろまだろうから」
抗弁したくてたまらないけど、この弱弱しい心と重ったるい身体を思えば、仕方のないことかもしれない。
「痛し型なしだな。まああんまり焦らすのもなんだから進めるとしよう。まず身体な。これはしっかり食事をとって、少しずつ体を動かして生活に必要な機能と筋肉を育てていくこと」
普通だ。
「普通だよ。なんか裏技とかあると思った?」
「いや、そんな都合のいいことは思ってないけど」
思ってないけど、そんな答えなら一人でもじゅうぶん辿りつけそうだから、雲人って役立たずだなってなんか思ってないけど。
「そう思った時点で思ってるってことになるってことを、むっちゃん知ってて思ってるからタチわりぃよな」
苦笑する雲人。
「ほんとむっちゃんって、むっちゃんだよな」
このどうしようもなく、自分でしかいられないどうにもならない自分が、本当にかつての自分とは違う何かを育てていくことができるだろうか?
「そのためには心を育ててかなきゃな」
どうやって?身体を育てていくのに裏技なんてないだろうから普通にならざるえないだろうけど、心を育てていくための普通のやり方って何だろう。
「そうだな。普通はまあ、喋ったりとか触れ合ったりとか外部とのコミュニケーションを通して、色々な感情に刺激を与えて、それを自分の中で育てていくんじゃねぇの?」
なるほど。僕にはそれが足りなかったということか。心当たりはありまくる。
「自覚してるくらいだから、そうなんだろうな。経験やら外部からの刺激自体が足りてないのか、それを受け止めて受け入れる感知能力とか感受性とか共感能力がそもそも低いのか、そういうのはわかんないけど、どっちにしたって、足りてなかったことには違いない。なーんも感じなくなって、生きていきたくないって思っちゃったくらいなんだから」
何が足りなかったのか、何がいけなかったのか、その細かな一つ一つを探してみても始まらない。足りてなかったことは変えようもない。だから足りてなかったっていう事実だけをひとまず受けいれて、そこから、ゼロからからはじめていくしかないのだろう。面倒だけど。
「そいでさ、なにから始めようかっていうか、なになら始められるのかってことなんだけど、まあぱっと思いついて簡単にできそうなコミュニケーションといえば、お喋りだよな。いきなり濃密な外部との触れ合いなんてのはできないだろうし、お金も時間も手間もかかったりするのは現実的じゃないし継続性も難しいだろうから」
心を病んだ人が身近な人だったり心療内科で話を聞いてもらうところから始めるのと同じ要領だ。
「なんだけど、あいにく俺は、カウンセラーでもセラピストでもないし、むっちゃんと気の合う親友でもないし血の繋がった親類ってわけでもない。あくまでチームメイト。それ以上でも以下でもない」
それ以上でも以下でもないと、虚勢と謙遜を否定しておきながら、堂々と武張るような口ぶりだった。
「じゃあ、雲人は何のためにいるの?何ができるの?」
口に出さなくても雲人との会話は可能だけど、押し出されるように言葉が口を衝いた。
「ふっふっふっ、よくぞ聞いてくれました。つーか、そんなもん言わずもがな。この格好みりゃわかんだろ?」
お気に入りの一張羅を見せびらかすように、襟なしの丸首なのに襟を立てるような仕草で着ている服をじゃーんと披露してみせる。
「どーよ?」
実は最初から気になってはいたけど、他に聞くべきことが数限りなくあったので後回しにならざるえなかった。雲人の着ている服、そのファッションは、
「バスケだよ。この格好でバスケしねーなんてありえないだろ。そんなの翼があるのに空を飛ばないようなもんだよ。鰭があるのに泳がないなんてありえないだろ?この格好でバスケしない?ノンノン、ないよ、ありえない。こんだけ全身をバスケで固めてバスケ一色に染めちゃってんだから、俺にできるのはバスケだけ。なにせ俺は、むっちゃんのチームメイトだからな」
自分の担いだ神輿に自分で乗っかるように、雲人の口調は勢いを増していく。
「チームメイトと何するかっていえば、そりゃなによりまずはバスケでしょ。愚痴零したり慰めあったり傷なめ合ったりどーでもいいこと駄弁ったりもいいけどさ、まずはなにより一緒にプレイ。レッツプレイバスケボー。そっからだろ?」
チームメイトとであることに一応は同意したけど、それがバスケのチームメイトであることは何の説明も受けていない。でも雲人にしてみれば、この格好してる時点でそんなの了承済みでしょ、ということらしい。独りよがりの暴論だけど、僕も雲人の格好でチームメイトと言われた時点で、どこかでそれを予感していたのかもしれない。あるいは期待を。
「ノーライフ、ノーバスケ。そうじゃない人もいるだろうけど、俺はそう。何故だかしんないけど、そういう風になってて、今ここにいる。今ここにある。だから俺が今できるのはバスケだけで、んでもって俺はむっちゃんのチームメイトで、チームメイトのむっちゃんは生きていきたいと思ってて、でも一人じゃ生きていけなくて、だからこそ俺というチームメイトがいて、そのチームメイトの俺にできるのはバスケだけだから、となると俺とむっちゃんがすることといえば」
できることといえば。
「バスケしかないでしょ。バスケ一択のバスケオンリー」
ノーライフ、ノーバスケ。僕の生活からバスケがなくなってから随分と経つけど、その間の生活はどんなものだったか。ついさっきまでのことなのに、遠い彼方を見はるかすかのようにその日々に思いを馳せた。その時間を思った。
「どーかなむっちゃん?俺がむっちゃんにできるコミュニケーションはバスケ、それのみなんだけど、むっちゃんはそれに対してどう応える?俺からのパスをどうする?」
ひたと雲人の視線が僕に据えられる。小揺るぎもしない、射貫くようなまなざし。僕の背後にある、庭に鎮座するゴールをすぱっと射抜いてしまいそうなほどの力強い視線。
雲人と、僕と、バスケのゴールが、一直線上に並んでいる。雲人とゴールの間に、僕がいる。
「……」
僕は無言のまま庭へと降り、捨てられたように転がっていた、空気が抜けかけて張りのないボールを手に取り、やぶれかぶれに、そうするしかなさそうなのでそうするみたいに、不格好で投げやりにすら見えるかもしれないけど、でもちゃんとゴールから視線を逸らさずに、ボールをゴールへと放り投げた。
ボールは力なく頼りない軌道を描いて、ゴールにかすりもせずに地面に落ちた。ぺしゃんこ寸前のボールはバウンドすらせずに、地面にへたりこむように沈みこむ。
「エアボールか。エアチームメイトの出したパスに、エアボールで応える。でも、エアーな俺からのパスをスルーはしなかったってことでいいんだよな?」
質問にはスルーする。口にするまでもないし、心で思うまでもない。
とにもかくにも、僕の、僕と雲人のバスケライフが始まった。