17話
「俺か?俺は雲人。ただし実在はしない。俺はお前にしか見えない」
ああ、そうなのか。彼の、雲人の言葉がストンと腑に落ちる。普通なら頭のおかしい奴が現れたのだと思うところだけど、僕は雲人の言葉を素直に受け入れた。音もなくいきなり目の前に現れた以上、ついに頭のおかしくなった僕が見ている幻、妄想の類であることに疑いはない。
「納得顔だな。随分とものわかりいーじゃん。話が早くて助かるな」
「ありがとう。じゃあ、さようなら。消えてくれ」
僕の妄想なのだから、気遣い無用で問答無用。確かに僕は生きたいと思ったし、その思いの暴走ぶりに困惑も混乱もしていてまともとはいえない状態だけど、ようやっと取り戻しつつある世界が妄想に汚染されてしまうのは勘弁願いたい。
「ずいぶんなご挨拶だな。まだ初対面の挨拶も半端にしか済んでないって段階なのに」
「初めまして。むくもです。宜しくお願いします。では、さようなら」
「儀礼的かつ機械的、作業的で業務的を研ぎ澄ませたような挨拶だな。温もりゼロ、さすがちょっと前まで生きてなかっただけあるわ」
感心するように雲人が言った。
「消えろ消えろ消えろ消えろ」
心で念ずるように言った。
「おいそれ、心で念ずる類の言葉だろ。口にだすなよ、本当は思ってたとしても。気遣いゼロかよ」
僕の妄想との対話なのだから、心で念じようが口に出そうがかわりはしないだろう。どっちだって同じことだ。
「同じじゃねーって。確かに俺には、お前の声も、心の声も聞こえてきちゃうけど、それは同じように聞こえるわけじゃねーんだから。あーこれは実際に発声されたものだ、こっちは心に発生した思いだ、って聞き分けてんだぞ」
随分と器用な耳だ。面倒くさくもありそうだけど。
「そう思われてるとは薄々感づいてたけどはっきりと口にされたらショック!ってなことあるだろ?それと同じで、俺にだって両方聞こえてはいても、心の声なら仕方ないかとか、口に出すのはいくらなんても酷過ぎねぇか?ってのがあるわけ。厳然と。だから気遣えそのへんを。消えろなんて口に出すなよ」
消えろ消えろ消えろ消えろ。
「いや、そうなんだけどさ、そういうことをしろって俺が言ったわけだけどさ、でも違くないか?そんな風に言われたらさ、ああそうか、妄想とはいえ傷ついたりするんだ、これからは気をつけよう、とかそんな思いを心に抱いてほしかったのに」
「ああそうなんだ。妄想の中の存在とはいえ、何も感じないわけじゃなくてこっちの反応に対して繊細に反応するんだね。結構たいへんなんだね。頑張ってね、応援してるから」
消えろ消えろ消えろ消えろ。
「言葉とは裏腹に、が過ぎるわ!こえー、俺の生みの親こえ―よ。ほんのさっきまでほとんど死んだようにかろうじて生きてたくせに、ついさっきようやく生まれかわったばかりの赤ん坊みたいなもんなのに、こわすぎだろ」
消えろ消えろ消えろ消えろ。相手の存在を壊す気で本気で念じた。ようやく生きられそうになったばかりだってのに、ようやく生まれ変われそうだってのに、僕の世界が妄想に浸食され壊されたらたまったもんじゃない。
「諦めろって。無理無理。どんなに念じても、念仏唱えるみたいに口に出しても、消えねーから。お前が生きたいって思っちまった時点で、俺を消すのは不可能」
悟ったように断言した。
「消えろ消えろ消えろ消え……何で?」
その確信ぶりに、消えろという思いと言葉が断ち切られた。
「だってお前、一人じゃ生きていけないじゃん」
あっけらかんとした、あまりにつるりとした物言い。ごくごく当たり前の、言わずもがなの口振り。
「それは……」
図星すぎて、的を得すぎて、絶句するしかなかった。どんなに生きていきたいと思っても、これまで何もせず、ただ漫然と時を過ごし、理屈だけをこね回してわかった気になり、結局は何もしない。そんな自分が、たった一人でこれから生きていけるとはとても思えない。生きていきたいという思いだけで生きていけるほど、世の中は、人生は、甘くないし、生活は楽じゃない。
「だからさ、お前が生きていくために、お前が俺を必要としたってわけだ。まぁなんつーの?例えばだ、バスケをやろーと思ったら、ゴールもボールもそりゃ必要だろーけど、なんだかんだ言って、一緒にやる相手、パス出してくれたり受けてくれたりするチームメイトが必要だろ?」
壁相手のパス練習と、凪ぃ相手のパス練習では充実度も達成感もまるで違うのは実証ずみだった。
「それと同じだな。お前が生きてくために、人として生活してくために、必要なチームメートが俺ってわけだ。ライフメイト?命綱みたいなもんかね。しょーじきそんなのに付き合わされる身としちゃ面倒臭くてかなわねーけど、まぁ致し方なしだな。俺はお前から産まれたわけだし。実在はしないけどな。ま、痛し型なしってやつかな」
凪ぃの影がふっとよぎる。意地の悪さを含みつつも、ほだされるようなその笑い方も凪ぃをオーバーラップさせた。
「つーわけでよろしくな。えーっと、あー、なんて呼べばいい?これから長い付き合いになるだろうし、お前ってのも使い勝手がいまいちだし、なんか呼び方決めときたいんだけど」
むっちゃん。凪ぃにしか呼ばれてこなかった呼称が、胸に浮かんだ。
「……お好きにどうぞ」
雲人が、少しだけ口端を持ち上げた。
「……お好きにね。じゃあ、好きに呼ばせてもらうわ、むっちゃん」
凪ぃに呼ばれたときは恥ずかしいけどくすぐったいような、嬉し恥ずかしな響きだったけど、僕と同年齢かやや上の見た目の男子に言われると、別に何の感慨もなく、快不快の天秤に乗せるとするならやや不快側に傾いてすらいた。
「聞こえてるからな。しかもお前がこっちに筒抜けなのを知っててあえてそう思ってるのまで丸見え、ってか丸聞こえだからな。わかってるからな」
相手のことがわからないのも不安だけど、わかりすぎるのもそれはそれで考えものだ。
「だな。だからさ、お互いそれなりに気遣いあってやってこーぜ。んで、むっちゃんは俺ののことなんて呼ぶの?なんて呼んでくれるわけ?」
仇名をつけられたこともなければ、仇名で呼んだこともないので、なんて呼べばいいのか咄嗟には思いつかない。無難に雲人だろうか。
「そうだな、どうしようかな」
考えがまとまらず、次第に考えるのが面倒、っていうか手間になってきた。というかそもそも、こっちからわざわざ声をかけたりすることがあるのだろうか?しばし考える……ないな。ないから、名前もなしでいいや。
「速いよ、見切るの早すぎ。もうちょっと立ち止まって考えろよ。面倒くさがってばっかだと、また生きてくのが面倒になっちまうぞ」
痛い所を突かれ、返す言葉が出てこない。
「ったく、世話がやけるな、むっちゃんは。いちいち指摘してやらなきゃ駄目なんだからよ」
「ごめん、雲人」
考えるのが面倒だったので、名前をそのまま呼び名にすることにした。
「しおらしく謝ってはいるけど、面倒くさがりを治す気はゼロときましたか。ったく、まーいーや。俺もちゃんづけとかされたくねーしな。つーわけで」
雲人は右手をズボンでゴシゴシと拭い、僕に差し出した。
「よろしくな、むっちゃん。」
差し出された手に誘われるように、世界から延びた手に導かれるように、握手をした。
「よろしく」
この日はじめて、僕は(非実在の)チームメイトを得た。