12話
シュートが入らない。打っても打っても決まらない。原因はわかっている。隣の家から聞こえてくる子供たちの嬌声。これが僕の集中を掻き乱し、シュートの軌道を乱調にしているのだ。
苛立ちが募る一方なので、一度深呼吸をして、呼気とともに精神を整える。
すーはーすーはー。
気を取り直して、もう一度、シュートを放った。
ガシャン
おもちゃでも床に落としたのか、穏やかじゃない音が響き渡り、シュートの瞬間にビクリと僕の肩が跳ね、手元が狂う。その衝撃がボールへ伝わり、当然のようにゴールに嫌われた。
僕はゴールから弾かれ地面へと転がるボールをそのままにして、家の中へと引きあげることにした。
凪ぃが未だ帰ってこないので、学校での休み時間もいつものようにぼんやりと、というわけにもいかないのは、次の時間に小テストが控えているから。今さら慌てて勉強しても慰め程度にしかならないけど、クラスのほとんどの生徒が勉強している以上、僕だけやらないわけにもいかない。
それはいつも喧しいバスケ部員たちも同じようで、どうでもいい歓談にうち興じてばかりいる彼らも、今日ばかりは試験対策に励んでいる。とはいえ、静かに自習しているというわけではなく、仲間内でがやがやと騒いでいるのはいつも通りだった。
「やべーよ、オレマジでやべーんだけど」
「俺の方がやべーって。何がやべーのかすらわかんねーくらいにやべーから」
「おれなんてやべーかどーかすらわかんねーくらいにやべーよ。ひょっとしたらやばくないんじゃないかって気もしてきたよ。やばいっしょ?」
自分がどれくらいやばいのかのアピール合戦に勤しむ彼らの声が、僕の集中に支障をきたす。テストを前に不安なのは皆同じなのだから、少しは周りに配慮しておとなしくするくらいはできないのだろうか。余裕がないにしても、周囲への気遣いの一切を忘れてしまえる彼らが全く理解できない。言動だけでなく挙動にも落ち着きがないせいで、何度も筆箱を床に落とすものだから、騒音が迷惑なことこの上ない。
ガチャン。
またしても筆箱を落とす音。その音が僕の記憶の深い部分にまで響き渡った。
「うるさいったらないわね。もう少し落ち着いてできないものかしら。理解できないわ」
出先でお昼時を迎えたので、僕は母と連れ立って外食することになった。母と二人での昼の外食といえば蕎麦屋とかランチメニューのある和食屋などが多いのだけど、他に適当な店が見当たらないという理由で、普段あまり入ることのないファミリーレストランでの食事に、幼心に僕は気分を弾ませていた。そんな僕とは対照的に、母は気乗りしないらしくいかにも渋々という感じで、予想外に店が混雑していることもあってか、席に着いた時からご機嫌斜めな様子だった。
「こんなに混んでるなんて信じられないわ。ファミレスのランチなんてたいして美味しいわけでもないでしょうに」
ほとんどファミレスで食事したことがない僕には、一般的なファミレスの味がどのくらいのレベルなのかはわからないが、母だってそんなにファミレス経験があるとは思えない。
「とにかくさっさと頼んじゃいましょう。わたしはこれでいいわ。あなたは?」
慌ててメニューを開き、所せましと並ぶ色とりどりの料理に、目移りしまくりながら視線を走らせる。眩暈がするくらいに魅惑的な料理の数々に圧倒されて、どれを選べばいいのか見当もつかない。そんな僕に業を煮やした母が、ついと切り出した。
「込んでるんだからさっさと頼まなきゃね。あなたはこれなんかいいんじゃない、ね?」
メニューに載っている中で、ひときわ地味な、ある意味でもっともファミレスらしくない和定食を勧められる。いや、僕は、という間もなく母がテーブルに備え付けられたボタンを押し、店員が飛んできた。
「ご注文お決まりでしょうか」
僕は何も決めてなかったけど、注文は滞りなく行われ店員は厨房へと去って行った。
僕は無言のままメニューを閉じ、何となく母の前から離れたい気分だったので、特に尿意を催したわけではないけど「ちょっとトイレ行ってくる」と断りその場を離れた。
せっかくのファミレスでの食事に水を差された格好ではあるけど、それでもまだ浮かれ気分が完全に沈んでしまったわけではない。普段味わうことのないファミレスでの食事が楽しみなことに変わりはなかった。
それにしても店は込んでいる。昼時のファミレスというのはこんなものなのだろうか。子供から大人まで、あらゆる客層がひしめき合い、喧噪に包まれている。この先、そうそう訪れることもないだろうからと、あらためて店内をぐるりと見廻すと、ふと眼にとまったのは、てんやわんやと忙しくしている店員さんたちの中で、足を止めて何やら会話している二人の店員さんだった。ちょうどトイレに行く通路の裏になる場所で喋っていたので、盗み聞きするつもりもないけど、会話の内容が耳に入ってきた。
「ありえないよね。バイト初日の子が二人もいる時に限って、うちのフロアマネージャーが休みなんて」
「ほんとそう。いってみればうちのエースみたいなもんじゃん、あの人。よりによってエースがいない時に、使えないルーキーが二人ってどうなの?」
「ほんと、初日とはいえ使えないにもほどがあるけどね。しかもさ、そんな日に限ってうちの店の前にあるショッピングセンターで今日限定の安売りイベントがあるってどうなってるの?」
「うち史上、最大の込み具合なんだけど」
「うち史上、一番戦力が低下してる日に、最大の混雑っぷりってどういうこと?狙い撃ちにもほどがあるでしょ」
「時給増し増しじゃないと割にあわなくない?」
「ほんと割り喰っちゃってるよね、あたしらだけ」
ファミレスの店員さんといえば、笑顔さえ振り撒いてればいいだけのもっと気楽なものなのかと思っていた僕は、楽な仕事なんかないんだと思い知ることになった。一見、手前勝手な暴言とも受け取れる二人の店員さんたちの愚痴だけど、零さずにはいられないほど大変だということなのだろうし、ましてやそんな日にバイト初日を迎えることになった新入りさん二人の気持ちは如何ばかりか、想像だにできない。とにかく大変なのだということだけは間違いない。労働経験どころかファミレス経験すら乏しい僕にわかるのはそれくらいだ。そんな僕に出来るのは、働き手それぞれが大変であろう中で作られた、この店の料理を残さず綺麗に平らげることくらいだ。そう気持ちを新たにテーブルに戻った。
「遅かったわね。トイレも込んでたの?」
女子トイレとは違って男性トイレが込み合うことはほとんどないけど、うんと答えて僕は母の正面からわずかにずれて腰かけた。
「それにしてもうるさいわね」
「子供連れた人が多いし、しょうがないんじゃない」
「それにしたって、うるさすぎるわ。しつけがなってないのよ」
忌々しそうに母が言う。話が嫌な方向に流れていきそうなので、適当に話題を変えてしばらくどうでもいい会話をした。
「ずいぶん待たせるわね」
「かなり混んでるからね」
「それにしたって遅すぎるわよ。ファミレスなんて早いのが取り柄みたいなところあるじゃない。こんなに待たせるなんてありえないわ」
トイレ前で耳にした会話がちらついた。
「もしかしたら、店には店の事情があるのかもよ。たまたま今日は、店員さんが病欠しちゃって人手が足りてないとか、いつもはこんなに混まないのに今日だけやたらとお客さんが押し寄せちゃったとか」
苛立つ母の神経を逆なでしないように、それとなく店側の肩を持つ。
「そんなことないわよ。どうせいつもこんなものよ。たぶんこの店の接客レベルとか業務の管理レベルが低いのね。それに仮に今日だけ何か特別な事情があったとしても、それは店の都合でお客には一切関係ないんだから」
一顧だに値しない世迷言のように、僕の意見は切って捨てられた。母の意見もわからないではないけど、あんな会話を聞かされた僕としては、店員さん側にも肩入れをしたくなる。でもそれは、料金を払う当事者ではないから言えることなのかもしれない。いざ自分の身銭を切る立場になると、また見方や感じ方も変わってきたりもするのかもしれない。
「お待たせしました」
僕たちの会話の隙間に割り込むように、危なっかしくトレーを抱えた店員さんがやってきた。
「ご注文、以上でよろしかったでしょうか」
何となく声が上擦っている上に、マニュアル通りのやり取りにもどこか硬さを残している。こなれた調子が一切感じられないところを見ると、ひょっとしたら今日という日にバイト初日を迎えてしまった運勢最悪の人なのかもしれない。
「ごゆっくりどうぞ」
早口気味でとりあえず言うべきを言い、去っていく店員さん。その後ろ姿を睨むようにしながら、母が声のトーンを落として言った。
「なんなのあの店員?もうちょっと丁寧にできないのかしら?」
どうやら、食器や皿などを置く手つきに文句をつけたいらしい。確かに母の言う通り、手慣れてないぎこちなさのせいか、そのつもりもないだろうけど食器の置き方が乱暴なもものになってしまっていた。
「混んでるし、ちょっと慌てちゃったのかもよ。若そうだったから、まだ入って日が浅いのかもしれないし」
「だとしても酷いわ。やっぱりファミレスはファミレスってことね」
取り合う素振りすら見せない母。これ以上言うべき言葉を持ってない僕は、黙って自分にできる最低限の、残さず綺麗に料理を平らげるという行為に没頭することにした。
そんな僕らとは対照的に、楽し気に店内を回遊するように駆け回る子供たちがいた。
「なんなのさっきからあの子たち。五月蠅いのはともかく、席から離れて走り回ってるなんてありえないでしょ。親のしつけがなってないにもほどがあるわ」
めったにない外食にテンションが跳ね上がったのか、はたまた賑やかな店内の雰囲気に触発されたのか、居てもたってもいられずはしゃぎ回っている子供たち。親は何してるんだろうと思わないでもないけど、親は親で子供たちを席にとどめておけない理由でもあるのかもしれない。子沢山だから子供全員にまで目が届かないとか、妊娠中なので動きが制限されているとか、想像だけならしようと思えばいくらだってできないこともない。
「ほんともう、理解できないわ」
母がそう言うと、駆け回る子供の一人が、バイト初日と僕が目算した店員さんへと突っ込むように体当たりをかました。店員さんの手から、お冷を乗せたトレーが滑り落ちた。
ガチャン。
店内に響き渡った音の波が、僕をまた別の記憶へとさらっていった。
「お隣さん、どうしたんだろう?妙にうるさくない?」
凪ぃの家でいつものように本を読んでいると、ドタバタと子供が駆け回るような音がひっきりなしに耳についた。
「あー、たぶんお孫さんが遊びにきてるんじゃないかな?」
「ふーん、ちょっと迷惑じゃない?」
おかげで本にまったく集中できない。
「まーでも、しょーがないんじゃない、子供だし。たぶんまだ幼稚園くらいじゃなかったかな。遊びたい盛りだからね」
自分の幼稚園時代を振り返るが、余所の家はもちろん自分の家でもでそこまで騒いだ記憶はない。
「でも限度があるでしょ。しつけがなってないんじゃないの?」
凪ぃの家での落ち着いた時間を乱されたこともあって、僕の口調は尖ったものとなってしまう。
「いやー、でも我が家もそうだけど、お隣も一軒家でかなり広いじゃん?確かお隣の娘さん夫婦、マンション住まいって言ってたからさ、お孫さんも普段とは違うただっ広い空間を前にしてはしゃいじゃうのもわからないでもないよ」
刺のある僕の言葉から、やんわりと刺を抜くように凪ぃは言った。
「そうかもしれないけど、こっちには関係ないっちゃないよね」
あくまで向こうの事情に過ぎず、こっちからすれば知ったこっちゃないとも言える。
「そーだけど、わたしも何かに刺激を受けてテンション振り切れて騒いじゃうのとか、わからないでもないし」
幼稚園の子供の気持ちに理解を示す凪ぃ。物分りがいいとみるべきか、物の分別をわきまえてないというべきか、僕には判断がつかなかった。
「おじーちゃんおばーちゃんもさ、お孫さんが遊びにくるのなんて滅多にないからさ、そんなに強くは言えないんだよ。たまに来たときくらい、好きに遊ばせてあげたいって思うのが人情ってもんでしょ」
子供のみならず、ご老人の気持ちにまで理解を示そうとする凪は、ひょっとして海よりも広い心の持ち主なのかもしいれない。知己の存在だった凪ぃが、急に得体のしれない大人物のように思えてきた。僕にはちょっと理解できないというか及びもつかない。
「けどさ、それだってこっちには関係ないっちゃないよね」
そんな風に思ってしまう、自分が狭量なのだろうか。だんだんと自分の言葉に自信がもてなくなってくる、
「関係ないっちゃないけど、それいっちゃうとさ、あらゆることがある意味関係ないよね。自分の身の回りで起こってること、自分には関係ないなで済ませちゃおうと思えばぜーんぶ関係なくなっちゃう。他人事にしようと思えばいくらだってできちゃうもん。でもさ、ちょっとでも自分以外の人に共感してみたり、他の人に対する想像力を働かせれば、ちゃんと自分にも関係ある出来事になるんだよ。百パーセントわかるわーってことはないだろうけど、あーちょっとくらいならわからないでもないな、わたしも家の中ドタバタ駆け回りはしないけど、テンション上がって布団の上でジタバタと悶絶することとかあるもんなー、とかさ」
凪ぃはともすれば説教じみて聞こえてしまうことを、説教臭さを脱臭して僕に伝えるのが上手い。他の人に言われたら脊髄反射で反論してしまいそうになるけど(実際には反論せずに心の中で毒づいて溜め込むだけだけど)、凪ぃに言われるとなんとなく腑に落ちてしまう。長い付き合いのなせる技か、なぜか凪ぃの言葉は僕にとって受け入れやすい。僕に合わせた言い方やタイミング、声の調子や雰囲気などを知り尽くしてるのかもしれない。
「そーすればさ、ちょっとムカッときたり癇に障ったりってことがあっても、あっちにはあっちなりの事情があるんだろーし仕方がないかなとか、こっちにも身に覚えが全くないわけではないしなーとか、身につまされますなーとか、大らかな気持ちで受け入れられたり許したりってことができるようになるじゃん」
「ちょっとしたことに苛立つよりも、そっちの方が自分の精神とか健康にもいいのかもしれないけど、何でもかんでも許せるかな?わからないでもないけど許せない、みたいな感情だってあるわけだし」
「それはそーだと思うよ。人間なんだからさ、全てを許せるなんてありえないもんね。でもさ、そーいうのが一切ないと、了見のせまーい、自分のこと以外なーんにも感じない、人のために怒ったりとか、人のことで喜んだりとか、他人事を我が事として受け取ることの皆無な、孤独で寂しい人になっちゃうよ」
ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ、と言いながら凪ぃは両腕で自分を抱きかかえぶるぶると震えてみせた。寂しさに震える仕草をしたつもりだろうけど、うねうねと身をよじる姿は僕にウナギを連想させた。
「だからさ、ちょっとイラッときた時とかもさ、反射的に噛みついたり陰口叩いたりとかする前に、少しだけ立ち止まって相手の気持ちとか事情を慮ってあげられるといーんじゃないかな。もちろん、むっちゃんの言う通り、いつ何時誰のことでも、ってわけにはいかないだろうけど。わたしだって偉そうなことのたまってはいるけど、光の速さでムキーッて怒髪天をつくこともしょっちゅうだし。でもできる範囲で、できる限りはした方がわたしはいいと思うよ」
凪ぃの言うことは同意できるけど、それを自分が実践する自信はなかった。きっと他人への理解とか共感とか、いろんな人生経験を積むことで養われるものなのだろう。僕にはそれが欠けている。
「僕にはできそうもないけど」
普段、それなりにお付き合いのあるお隣さんに対してすら、わずかほどの理解を示してあげられない僕が、自分とは縁もゆかりもない人に、共感や想像を巡らせたりできるとはとても思えなかった。
「だいじょーぶ、むっちゃんならできるよ。絶対できる。わたしが保証する」
太鼓判を押すように、凪ぃは力強く自分の胸をドンと叩いた。
「仮に今は無理だったとしても、徐々にできるようになるから心配無用。わたしだって小学校時代の仇名は瞬間湯沸かし器だったんだから」
若気のいたりを懐かしむような顔の凪ぃ。
「高校時代の仇名は魔法瓶とか言ってなかった?」
言われて始めて思い出したかのように凪ぃは顔をほころばせた。
「そーそー、とにかく熱い青春時代だったからね。湯冷めすることなんてなかったほどに」
「ちなみに中学の時は」
「えーっと、陰で言われてたのは沸点二度、だったかな」
あまり嬉しくない仇名遍歴だ。とはいえ、生まれてこのかた仇名をつけられたことのない僕に比べれば幾分かマシな気もする。
「大学時代も聞いていい?」
「凪っぺ」
そこは普通なんだ。
「ちょっとだけ熱系列を期待してたのに」
「期待に沿えなくて申し訳ない」
別に凪ぃが悪いわけでもないのに、サービス精神旺盛な凪ぃはぺこりと頭を下げた。
「あー、でも大学時代は別のもあったな。女子からは凪っぺだったけど、男子からは」
同時期に二つの仇名を持っていたなんて、ちょっと理解できない。二つ名とか通り名とかに妙な憧れを持っている僕としては、複雑な想いが胸中に渦巻いた。
「う凪って呼ばれてたな。いくらなんでも女の子にウナギは失礼でしょって抗議したら、掴みどころがないからってことだったから、それならまぁ、呼び名はともかく理由としては悪くない気分だからよしとしたんだけど」
抗議された男子は咄嗟の思いつきで言い訳したに過ぎず、真の理由はうねうねする様がウナギに激似だからなのではないかと邪推してしまう。
「そーいえば、今も仇名ってあるの?」
凪ぃの友達は多岐にわたっているので、二つどころか学生時代よりも更にたくさんの仇名をもってるかもしれない。
「凪ぃ」
高らかに、宣言するような口調だった。
「今はみんな、凪ぃって呼ぶね」
なぜだが誇らし気な凪ぃ。
「そうなんだ。意外だね。普通だし、もっとたくさんあったりするのかもって思ってたけど」
「わたしが皆に言ったの。今日からわたしのことは凪ぃって呼んでねって。それ以外の名前で呼ばれても無視を決め込むからヨロシクってね。凪じゃなくて凪ぃだからねって」
本名の凪ではなく凪ぃと呼ばれることに強いこだわりをみせる凪ぃ。どっちもさして変わらないように思えるし、そもそも自分の呼び名を自分で決めてそれを他人にも強要するって、いったいどんな気持ちや事情があるのやら、その強引さや行動力は何に端を発しているのか、僕の想像の埒外としかいいようがない。
「なんでそんなこと言ったの?」
「だってもう、忘れもしないあの日あの時!……えーっと、いつだったっけかな……」
考え込みしばらく黙り込む忘れっぽい凪ぃ。
「そうだ!むっちゃんが三歳の時だよ。三歳のむっちゃんに、舌っ足らずな口調で「凪ぃ」って呼ばれて以来、わたしは凪ぃだ!凪ぃだったんだ!ってテンション一色になっちゃったんだもん。もうその時から、わたしは凪ぃであって、凪ぃ以外の何者でもない。少なくとも、う凪では絶対ないって思えたんだよ」
想像だにしなかった凪ぃの答えに、僕は目玉をまん丸にして言葉を失う
「あり?もしかして覚えてない?凪ぃって仇名つけたのがむっちゃんだって」
「……もちろん覚えてるよ」
「……へーそーなんだ」
抑揚を欠いた棒読み口調の凪ぃ。嘘は言った端からバレていた。
「ちなみに、その次の瞬間に、わたしはむっちゃんのことむっちゃんって呼ぶようになったんだよ。考えなくても口をついて出てきたからね、むっちゃんって」
「とんでもないのが口から出てこなくよかったよ」
「でもさ、むっちゃんって平仮名だからいいけど、無っちゃんっていう当て字をすると悲惨だよね」
微妙に洒落になってないのでやめてください。
「でも、凪ぃって呼ばれた瞬間にああこれだ!って思えて、転瞬してむっちゃんって呼び名が出てきたのは、共感は共感でも共感覚の方だね。たぶん」
「そんなのもあるの?」
「あるんだよ。理解とか想像とか、そういうのを超えたところで相手を感じ取っちゃうなにか、みたいのがきっとあるんじゃないかな」
僕の理解や想像を完全に超えている。僕の生きてる世界とは完全に切り離された出来事のように思えるけど、どうやらそれは過去の僕の身の周りで起こったということなのだから、不思議としかいいようがなかった。
「んで、なんの話だったっけ?無っちゃんが学校で仇名で呼ばれるにはどうしたらいいんだろうね?って話だったかな」
「違うよ。お隣さんがうるさいのも理解してあげられるといいねって話でしょ」
「おおっ、さすが無っちゃん。記憶力抜群だね」
というか僕が仇名無しなのをなぜ凪ぃは知っているのだろうか。聞きたいけど怖くて聞けない。というか気のせいかもしれないけど、凪ぃ、僕のこと「むっちゃん」て呼ぶ時、ひそかに心の中で「無っちゃん」っていう当て字をあててやしないだろうか。何となくそんな伝わりづらい嫌がらせを受けているような気がしないでもない。
「あーそうだったそうだった」
自分達の存在を思い出させるかのように、再びお隣からドタバタと足音が響いた。
「ははっ、元気いーな。おじーちゃんたち、明日はどっと疲れちゃうんじゃないかな。たまにする子供の相手って意外と疲れるからな」
しみじみと昔を懐かしむような凪ぃの口調。
「子供が帰った途端に気が抜けて、きっとなーんもやる気がしなくて夕飯の準備とかも億劫になっちゃうだろうから、差し入れでも持って行ってあげよーかな」
自分にも覚えがあることのように、凪ぃはお隣さんに想像を巡らせる。
「優しいじゃん」
茶化すように僕は言った。
「こーゆうとこで恩を売っておくと、こっちが騒がしくしちゃった時とか大目に見てもらえるんだよ」
前言を台無しにする一言だ。
「したたかだね」
「優したたかな女なのさ、わたしは」
ガシャン。
ドタバタを超える、何かが落下したような激しい物音。
「おーおー、もっと騒げもっと騒げ子供たちよ。騒げば騒ぐほど、隣に売れる恩の値段が吊りあがるのだから」
もはや、優しさは消え失せ、単なるしたたか女に成り下がった凪ぃは、テンションがあがったせいかちょっとばかし喧しかった。ひょっとしたら隣に声が漏れてたりもしてないかと僕は冷や冷やした。
騒げ騒げーと身振りを交えて煽り立てる凪ぃの手が、凪ぃの大事にしている陶器にぶつかり、床に落ちた。
ガシャン。
音が時間を超えて、僕を記憶から呼び覚ました。
凪いがいないこの家の静けさも相まって、隣から聞こえてくる騒音が喧くて仕方がない。この苛立ちは、単に騒音が理由であって、今日のテストの出来が最悪だったこととは一切関係ない。とにかくなぜこんなに五月蠅くできるのか、理解できないし理解しようとすら思わなかった。
「うっせーな!」
僕は手元にあった凪ぃの蔵書を壁に投げつけた。本は壁にワンバウンドし、床に落ちた。いつしか騒音は消え、シーンという静寂だけが部屋と僕の心にわだかまっていた。