11話
一人でする練習のバリエーションが広がらず、ここしばらくは停滞感に覆われていた
。気晴らしに本屋をぶらつき、バスケ本コーナーで何か役立つ練習法はないかと立ち読みをしてみる。パラパラと手当り次第に捲ってみるが、目に飛び込んでくるのはほとんど知っているものばかりで、これといったものがない。目新しさを求めて、これまでは縁遠かった、ストリートバスケットの世界で活躍する人の華麗なプレーに焦点を当てた本を手に取ってみた。ページを捲ると、一ページ目から細かで精緻なテクニックを必要とする、見た目は確かに派手なのだけど実際の効果や実践性には疑問の浮かんでしまうプレイが載っていた。その後も似たような、とにかくテクニックの誇示や見栄えの良さを優先したかのようなプレイが並べたてられていた。僕はそのプレイの、実現性の難しさと、実践性の観点から、これはやっても無駄だと即断し、この本を手に取ることは二度とないだろうと思いながら、本棚にそっと戻した。
もういい加減、休み時間に彼らの大声に耳と意識が煩わされるのも、ある意味で日常化してきて、慣れてすらきた今日この頃。凪ぃが帰ってこない間はずっとこれが続くのかもしれないと、諦めの気持ちが僕の胸を支配しつつある。
「これやばいっしょ?ふつーにレイアップするフリしといて、ボードの裏っつーの?そこをジャンプしながら通り抜けて、逆っ側まで出ちゃうわけ。んで、そっから後ろ向きでシュート。どーよこれ」
「あー、なんかNBAのハイライトみたいので見たことあるわ。あれだろ?ボールに逆回転かけてボードにぶつけんだよな。そーすっと、うまいことゴールに入るようになってんだよ確か」
バスケの個人技スーパープレイ集、みたいなチャラめの教則本を見ながらバスケ部員たちは盛り上がっている。彼らが語っているプレイは、確かにNBAなんかでは比較的よく眼にするプレイではあるけど、実際にやろうとすると相当難しい。バスケ歴何年にも満たないバスケ部員が、おいそれと手を出していいプレイではないはずだ。まずはしっかりと基礎の基礎であるオーソドックスなレイアップをマスターした上で、更に何段階かのステップを昇り、はじめてチャレンジすべきプレイだ。それくらい難しい。だから僕はまだ、そのプレイをやったことはない。やったことはないけど難しいと知っている。やらなくてもわかる。
「これ今日の部活でやっちゃいますか」
「やっちゃいましょーよ。いー加減、ふつーのレイアップ、もーいーっしょって感じだし、俺ら完璧でしょ。ふつーのは」
「ふつーによゆー。目を瞑ってでもできちゃうよ。体が覚えちゃってるから」
目を瞑ってもシュートが問題なく打てるほどになるには、それこそ何百万本ものシュート練習を経てようやく、体がそのフォームや距離感というものを覚えその身に刻みこまれるはずだ。漫画によって得た知識で、実際に僕が何百万本ものシュート練習の果てに見出したものではないけれど、そんなのやらなくてもわかる。
「んじゃ、今日の練習のメインはこれに決定。モチベーションあがるわー」
「わかるわ、俺いま練習したくてたまんないもん。もうシュパシュパそのシュート決めるイメージが浮かびまくってやばいんだけど」
ゲートが開くのを待ちきれなくて、嘶きいきり立つ競走馬さながらのバスケ部員を、僕は醒めきった目で見つめざるえなかった。もちろん下手に因縁つけられることのないよう、こっそりと気づかれないように。
まずは基礎をじっくり固めるべきなのに、見た目の格好よさや派手さを優先し、基本を疎かにして踏むべきステップを三段飛ばしくらいして自分のやりたいプレイを優先する。いくらモチベーションが高くても、彼らの今日の練習は有意義なものにはならないだろう。入れこみ滾る彼らを、冷静に律し、時には叱咤するように尻に鞭を入れてくれる調教師でもいてくれればいいのだろうけど、学校側から押し付けられてしょうがなく腰掛け気分でやっている顧問がろくに顔を出すこともないバスケ部で、そんなものは望みようもない。だからこそ彼らは自由気ままに振る舞えるバスケ部を選び、だからこそ僕はバスケ部を選ばなかった。僕らが一年生当時も、先輩部員たちはほとんど幽霊と化していて、実質的に彼らは一年時からバスケ部で独裁的な立場にあり、思うがままにやってきたはずだ。そういう部だったから彼らはバスケ部に入り、僕は入らなかった。
恨みはない。僕は僕で、凪ぃの家で凪ぃとともに、自分のバスケをしているから。だから一切、恨みはないし、未練もない。僕は僕で、自分のバスケを、自分たちのバスケを凪ぃとともにしているから。最近は凪ぃとのバスケはご無沙汰で、もっぱら一人でバスケをやるしかなくて、モチベーションは高いとはいえず集中力にも欠けボールもあまり手につかず、バスケに対する興味も低下気味ではある。でも彼らに恨みはないし、モチベーションが高くてやばいんだけどとか言っている彼らを羨んだりもしていない。ただただ、喧しいだけだ。
「ポイントはここよ。この手の動き」
手首を内側にねじるように捻って、ボールに回転をつける動きをバスケ部員はしきりに繰り返している。
「こーか?」
「いーや、違う。それじゃギュイッて感じじゃん。そーじゃなくて、クイッて感じだから」
クイッ、クイッと言いながら何度も手首をこねくりまわしている。傍目にはどちらも同じ動きにしか見えない。
手首をねじりながらあーでもないこーでもないと無意味な試行錯誤を繰り返すバスケ部員たちの姿をぼんやりと眺めていると、そのクイッという手の動きが、僕の脳をかき回すようにしていつ頃かの記憶を掬い上げた。
「あなたはそんなことしなくていいの。怪我したらどうするの?」
その日の朝、パートに出る前の母の顔がとても疲れて見えた。僕は試験期間中ということもあり、凪ぃとのバスケ練習はお休みにして、凪ぃの家で試験勉強をそれなりにこなし、普段より早めに帰宅していた。試験に備えてさらに勉強をするのも一案だけど、凪ぃの家である程度は身を入れて取り組んだこともあり、気晴らしに勉強以外のことをしたかった。そうした方が、かえって明日のテストにも集中して望めるのではないか。やりすぎ根のつめすぎはかえって支障をきたすと、凪ぃだって言っていた。こんな時ばかり凪ぃの言葉に己を委ねるのは、ずるい気もするけど。
これは逃げじゃない、試験勉強をしたくないが故の部屋の模様変え的逃避行動とは一線を画していると自分に言い聞かせながら、僕は料理でも作ってみようかな、と普段なら思いもしない考えに到った。気まぐれにすぎるし気の迷いとしか思えないけど、その日の朝に眼の端に映った母の疲れた顔も相まって、僕は腕まくりをしてキッチンへと向かった。 腕を組んで台所をうろうろ往復しつつ、冷蔵庫を開けたり閉めたりを繰り返す、メニューを思案するも、個々の材料の組み合わせによる完成図のイメージが一向に湧いてこない。和洋折衷色とりどりの献立を舌で味わってきたはずだけど、自分の体や手に調理という経験が一切刻まれてないからなのか、何から手をつけたらよいのか見当もつかず、頭も真っ白け、という惨状。進退窮まり追い詰められた僕は、ここはカレーだなと、ニンジンとジャガイモを手掛かりにようやく落ち着き所を見出した。家庭科の授業や林間学校で、全行程の一部にだけ関わったカレー作りの経験に、今日の夕食作りの全てを賭けることにした。そうせざるを得なかったし「困ったときはカレー味だよ。なんかいまいち味がきまらない時はカレー粉かカレールーを入れちゃえば、とりあえず味はまとまるよ。カレー風味という名の偉大すぎる味にまとめてくれるから、困ったときはカレー味、これ鉄板にして鉄則」とかなんとか凪ぃが言ってたような覚えもある。凪ぃに今夜の夕食作りの成否を委ねるのは怖いけど、それ以外の選択肢がないのだから仕方がない。困ったときの凪ぃ頼み。カレールーがちゃんとストックしてあるのを確認して、僕はいざ調理を開始する。
まずは調理実習や林間学校の時、立候補したわけではないし班の中で相談があったわけでもないのに、何故だか暗黙の合意形成ができあがり僕の担当となった野菜の下処理から始めることにした。これなら経験済みだ。
経験と言っても片手で数えるほどなので、その手つきは当然ぎこちない。特に一苦労なのがジャガイモの芽を取る作業で、確か皮剥き専用の器具にジャガイモの芽をくりぬく機能も備えつけられていたはずなのだけど、その器具の肝心の在り処がわからないので、包丁でやらざる得なかった。
はじめのうちはおっかなびっくりで恐々、という感じだったけど、やってる内にコツみたいなものを掴みつつあった。ポイントは芽の淵付近に包丁の根本部分を当て、手首をクイッと返すことだ。感覚的なものでしかないけど、これがギュイッとやっちゃうと上手くいかない。クイッだといい感じに芽を摘むことができる。やってるうちに段々と作業に興が乗ってきて、鼻歌を口ずさむようなキャラじゃないけど口笛くらいなら吹いちゃおうかな、なんてテンションになりつつあった、その時だった。
「なにしてるの!」
血相を変え、目をひん剥きながら、ズカズカと台所に踏み入り僕へと駆け寄ってくる母親。そのままの勢いでスーパーの買い物袋を肘に食い込ませたまま下ろしもせず、僕から包丁を奪い取った。
「いや、ちょっとカレーでも作ってみようかなって」
母のあまりの剣幕に、身じろぎもできずそう口にするのが精いっぱいだった。疲れてたみたいだし、と口にする間もなく、
「あなたはそんなことしなくていいの!怪我したらどうするの?」
僕の言い分や思いを差し挟む隙を、握りつぶすように母の言葉は途切れない。
「ただでさえ試験中なのに、包丁で指切ったりしたら支障があるでしょ。元々あなたは不器用なんだから。火の扱いだって危ないし、よかったわ怪我する前で」
ヤカンに火をかけるくらい凪ぃの家では当たり前にやっているし、料理だって確かに僕は不器用だけどやってみなくちゃわからない。いきなりお目付け役や手を貸してくれる人なしにカレーに挑戦というのは無謀だったかもしれないけど、その挑戦自体はもちろん挑戦する気持ちまでも根底から否定されて、僕は言いかえしたくてたまらなかったけれど、言い返すことなしに全てを飲み込んだ。母の前ではいつもこう。言っても無駄だし、無駄だとわかっているから、言ったことはない。言ったことはないけど、無駄なのはわかる。
「怪我ないわよね?」
台所を去っていく背中越しに声がかけられる。怪我?促されるように自分の手を見てみると、指から血が滲んでいた。気が付かないうちに切ってしまっていたらしい。気が付かないほど集中していたのかもしれない。
「ないよ。大丈夫」
怪我した、なんて口にすると、怪我したという経験までをも取り上げられてしまいそうで、僕は隠れるようにして傷口に絆創膏を貼る。その手で掴みつつあったコツを、忘れることなく身体に刻みつけるかのように、クイッという手の動きを、何度も何度も反復した。そのクイッという手の動きが、また時を別にした記憶をほじくり返した。
「あーダメだぁ。やっぱダメかー」
いつものように凪ぃの家にいくと、机にかじりついている凪ぃが、くしゃくしゃと頭をかきむしっていた。僕がこの家に行く時間帯に、凪ぃが自分の机で何かしているのはすごく珍しい。どうやら僕が来たことにも気づいてないみたいだ。
「何やってんの?」
声に反応し凪ぃが振り返った。
「あ、むっちゃん。おかえりー」
正しくは「いらっしゃい」だと思うのだけど、凪ぃはいつも「おかえりー」と僕を迎えてくれる。だから僕も「ただいま」と返す。
「珍しいね、仕事中?」
「ん?あーこれ?ちがうちがう。仕事じゃないよ」
仕事をしているなら出直した方がよさそうだと思っていたけど、その必要はないようだ。
「仕事なんかよりもはるかに大事なものだから」
社会で働く大人にとって、仕事よりもはるかに大事なものってそうそうあるもんじゃないと思ってたけど、凪ぃの眼つきが只事ではない真剣味を帯びていて、その言葉に偽りは露ほども感じられなかった。
「仕事よりもはるかに大事な、わたしが趣味で出してる同人漫画だよ」
だいたい予想してた範囲内の答えだった。安定の凪ぃ。
「でもそれにしても珍しいね。僕がいる時間帯に、仕事はもちろんだけどさ、その手のことしてるってのも」
凪ぃはライター的な書くことを生業にしている、らしい。詳しいことはわからないし、世の中にははっきりさせない方がいいこともあるので、僕も詳細は聞かない。それとは別に趣味で同人活動をしていて、こちらの方ではあらゆる意味で描く、ことをしているらしい。レビューや記事やコラムや小説みたいなものからイラストや漫画、版画なんかもしてるらしいけど、こちらも具体的な中身までは知らない。僕もあえて聞いたりはしない。世の中にははっきりさせない方がいいこともあるし、はっきりとさせたくないこともあるのだから。
「そうなんだよ。ほらっ、やっぱむっちゃんとの蜜月を大事にしたいじゃん。だから極力、仕事は無論、同人活動も控えるようにしてるんだけど」
僕がいない時は、同人活動はどうでもいいけど、仕事だけは控えないようにしてほしいなと切に願った。
「なんだけど、昨日からやってるこいつがどうにも手強くて。いつもなら朝方には切り上げるんだけど」
凪ぃの赤い蜘蛛の巣みたいに血走った眼から察するに、どうやら一睡もしていないようだ。
「大丈夫?少し休んだ方がいいんじゃないの」
「うーん、とりあえずキリのいいとこまで終わしちゃいたいんだよね。ここさえ出来れば、あとはちゃっちゃっといけるんだけど」
机に向き直り、腕組みをして原稿用紙を睨み据える凪ぃ。
「手強いって、上手く描けないってこと?」
「うん。描く前からわかっちゃいたんだけどね。わたしの技術じゃ難しいだろうなってことは」
「描かてなくてもわかってるんなら、やめとけばいいんじゃないの?」
漫画表現についてよくは知らないけど、ある場面を描くのに一つの描き方しかないってことはないはずだ。その人の力量に応じた描き方があるだろうし、出来ないやり方に執着するよりも、自分の身の丈にあった技量に即した描き方をした方がかえっていい物が描けたりするんじゃないだろうか。やったこともない僕が言えることではないので、偉そうに口に出したりはできないけど。
「そーなんだけどさ、でもやってみなくちゃわからないじゃん」
「それはそうなんだろうけど」
僕は何となく気になり、凪ぃの机を覗き込む。
「うわー、見ないで―」
全身で覆うようにして原稿用紙を僕の眼から隠そうとする凪ぃ。出来の悪いテストの答案用紙が他人の眼に晒されるのを防ぐような仕草だった。
「いや、凪ぃの失敗作を見て笑いたいわけじゃなくて、難しいのがわかってるのにそれでもやらずにいられなかったのって、どんなものなのかなって思って」
他人の失敗っぷりを見て笑うほど、僕の性格はねじ曲がっていない。けど凪ぃは僕の叔母であり血縁関係にある以上は他人ではないので、失敗具合によっては爆笑してたかもしれない。
「あーそれなら、これこれ。この感じ。この線の感じを出したいわけ」
凪ぃは机の端っこに置いてある、開きっ放しの漫画雑誌を差し出した。そこには見開きでドーン、と迫力ある一枚絵が描かれていた。この絵の難易度については正直よくわからないけど、パワフルかつ繊細で、とても言葉では表現仕切れない真に迫ってくるものがあるような気がした。
「どう?すごくない?」
「うん、凄さはわかんないけど、凄いのはわかる。凄くないってことだけは絶対ない、っていうのもわかる」
「でしょでしょ?むっちゃんならわかるって思ってた。だからこそ余計に、わたしの拙作は見られたくなかったの。なんだけど、でも隠したからってわたしのスキルが稚拙なことに変わりはないんだから、もういっそのこと出血サービスで見せちゃう。じゃーん」
本当は見せたかったんじゃないかと疑いを抱きたくなるほどに、威勢のいい開示っぷりだった。
「……なるほど」
「……どう、かな?」
凪ぃは息を飲み、緊張の面持ちで僕の答えを待つ。
「オブラートがいい?それともど真ん中の直球?」
気遣いは大事だけど、気を遣いすぎるのもかえって失礼にあたることがあるので、事前に問うておくことにした。
「いや、もうそれを聞いてくる時点で、わたしにとって嬉しい感想ではないってことじゃん。むっちゃん無神経!もっと気遣いが欲しい」
「いや、気遣いをした結果、のつもりだったんだけど」
気遣いの匙加減の難しさは、知ってたつもりだけど実際にしてみると思った以上に難しかった。この場合、どうするのが正解だったのか。そもそも正解なんかないのかもしれないけど。
「んじゃ、オブラートに包んで言うけど、月とスッポン?天と地?くらいの差があるね」
「オブラート薄すぎるよ。もっと分厚いオブラートじゃないと飲み下しきれないよ」
「良薬口に苦しって言うじゃん」
「っていうかオブラートでそれならど真ん中の直球の方、むしろ聞いてみたい。いったいどんな表現カマしてくるのか楽しみですらある」
試すような視線。どうにも墓穴を掘ってしまったようだ。
「……言葉にできない、くらいの隔たりがある」
僕は苦しい言い訳を捻りだすように言った。
「……それずるくない?」
「ど真ん中の直球が、真っ向勝負っぽくないズルさに満ちてることもあるんだよ」
「ふんだ、まあいいよ。自分でもわかってるから。でも、この線の感じ出したいんだよなぁ」
憧れを前にして、手の届かなさにため息を漏らすように凪ぃは言った。
「そうゆうのって、パソコンのソフトとかでどうにかならないの?」
「うーん。できないわけじゃないけど、やっぱり手描きとは微妙に違うからね。ぱっと見た感じはそんなに変わんないけど、微妙な質感というか肌合いっていうか」
言葉にはできないことをなんとか言葉にして伝えようとする凪ぃ。的確な言葉として表現はできてないのだろうけど、言いたいことは伝わってくる。
「でも、できないのがわかってたんだから、やっぱりやめといたほうがよかったんじゃないの?徹夜なんて体にもよくないだろうし」
お肌にも、とは言わないのは肌が荒れ気味の凪ぃに対する僕の気遣い。
「そりゃそうだけど、何事もやってみなきゃわかんないからね。難しいと思ってだけで案外簡単、ってこともあるかもだし、そもそもその難しさもやってみてはじめて、ようやくそれが自分にとってどれくらい難しいのかもわかるわけだから。なんだってそうだよ。楽しいことから辛いこと、楽勝なことから危険なことまで、ぜーんぶやってみなきゃわかんないよ。もちろん、ぜんぶやってるみるわけにはいかないんだけど。でもだからこそ一つ一つ、ちゃんと経験していって、その積み重ねで色んな予測だったり想像をしてみて、やるべきこととかやらない方がいいこととか、やってみたいこととか、いろいろとその人なりに選択していくわけだね」
うんうん、と自分に言い聞かせるように凪ぃは頷いている。
「凪ぃとしては、この絵のこのタッチは自分には難しいだろうけど、それでもやってみなくちゃわからないし、やってみたかったってこと?できなかったとしても」
「そーゆーことかな。でもやってるうちに、これかなっていうのも掴みつつあるんだよ?だからやっぱりやってみなきゃだよね。こう手首をさ、内側に反らして、ペン先を巻き込むっていうか」
言いながら凪ぃが手首を、クイッと返すような動きをした。僕はその動きに誘導されるように、指に張られた絆創膏に視線を移した。
「あー、しかしさすがに疲れた。寝てないのもそうだけど、お腹もぺこぺこだよ」
「それじゃぁ、お茶に……」
僕はもう一度、絆創膏に目をやり、もう血が止まってるのを確認して、ぺりっと剥がした。
「凪ぃさ、お腹結構減ってる?」
「ん?そりゃ減ってるよ。昨日からこいつにかかりっきりでなんも食べてないもん」
「……カレー好き?」
カレー味のまとまりの良さを僕に説いてくれた人に聞くまでもないだろうけど。
「カレー?好きだよ。どしたのいきなり」
「ジャガイモある?」
「ジャガイモ?あるよ」
「ニンジンは?」
「あるけど」
他にも食材の有無に関する質問をいくつかする。
「……カレー作ってもいいかな?」
「カレー?むっちゃんが?」
凪ぃの声の調子が跳ね上がる。
「うん。上手くできるかどうかわかんないけど、やってみたくて。だめかな?」
虚を突かれたようにきょとんとしていた凪ぃの表情が、ぱっと花咲くように弾けた。
「だめじゃないよ、いいに決まってんじゃん。なになにどしたの?どーゆう風の吹き回し?むっちゃんがわたしにカレー作ってくれるなんて。カレー味の雪でも降っちゃうんじゃないの?」
僕が凪ぃのために料理しようとすることが、凪ぃにとって天変地異が起こるくらいに珍しいことのようだ。それはいくらなんでも失礼にすぎると思う。気遣いゼロにもほどがある。もはや気遣いなんて必要ないと思ってるのかもしれないけど。
「時間かかるかもしれないし、上手くできるとも思わないけど」
「ぜんぜんいーよ。だいじょーぶ、ゆっくりやればいーから。焦らずやれば、むっちゃんならできるよ」
その言葉に賭けるようにして、僕はカレー作りに臨んだ。調理は遅々として進まず、途中で何度も諦めそうになったけど、凪ぃのアドバイスと励ましもあり、僕はなんとか完成に漕ぎ着けた。
凪ぃは僕の作ったカレーを三杯もおかわりし、ご馳走様、と拝むように合掌してから、残りは明日だし汁で溶いてカレーうどんにしよー!とご機嫌な調子で言ってくれた。色々と試行錯誤しながらやっていたせいでついつい量を作りすぎてしまったけど、どうにか捨てたり腐らせたりせずに済みそうでほっとした。
一度は取り上げられたカレー作りを取り戻した僕の手は、再び何枚もの絆創膏だらけとなった。絆創膏の下には、傷とともに、クイッという手首の動きも刻まれたような気がした。たぶん、この傷が消えたとしても、あの動きだけは僕の中から消えることはないだろうと、キャラじゃないことも思ったりもした。
「……お腹、空いたな」
手首の動きがもたらした記憶が、僕の腹の虫を刺激したようだ。そういえば今日はまだお茶もお菓子も口にしていない。学校から、ぼんやりとしたまま凪ぃの家に来て、そのままぼーっとした状態のまま過ごしていた。
台所へと向かい、食糧棚を適当に漁っていると、床に古びたジャガイモが転がっていた。かなり古くなっていて、今日明日で食べないと腐ってしまいそうなほどだった。空腹具合を鑑みると、カレーくらいぺろりと平らげてしまいそうな気もした。
作ろうかな、とも思ったけど、一人っきりじゃまともなのを作れないのはわかりきっていたし、苦労して作った挙句に失敗するのも嫌だったので、電子レンジひとつで出来上がりのお湯すら沸かす必要のないレトルトをコンビニで買って済ませることにした。