路地裏
それから数週間はひたすら身体のトレーニングだけに費やした。
資金は、地下室にあった金庫に、慎ましくすれば一生暮らせるような額の現金が入っていたため、さして困ることはなかった。
この当たり前のように付いている金銭感覚についても最初は不思議だった。帝国の通貨など見たこともない涼馬だったが、それらの金銭価値については、日本円と同じように容易に理解できた。その理由についても、手紙にはちゃんと書き記されていた。
『――さて、次に記憶の問題についてだが、君の覚えている記憶は自分の体験だけであって、バゼット・ジュールとしての記憶が無いことにはもう気づいているだろうか。現在君は、自分の前世にあたる記憶と、僕が培った意味記憶――所謂知識や技能についての記憶を持っている状態だ。つまり、イスカン語を使えたり、一般常識を理解しているのは、言ってしまえば「体が覚えている」からなんだ。カリラについても、かなりピーキーな機体に仕上がったが、操縦は体に染みつくまで練習したから問題なく操縦できるだろう。ただ、所謂思い出と言われる類の記憶――エピソード記憶などについては、残念ながら引き継がれていない。そのうち、僕の知り合いに逢うこともあるだろうが、そこはうまくやってくれ』
手紙の後半に書いてあった部分を涼馬は思い出す。親切なんだか投げ遣りなのか分からないが、言語などの点などで苦労しない点は大いに感謝している。できれば、エンドエイプの操縦技術だけでなく、肉体面の強化もやってくれていれば文句は無かったのだが。
昼間は家の中で筋トレなどして、夜は繁華街とは逆方向の比較的治安の良い通りをランニングする。そんな生活が三週間くらい続いた時の事だった。
「はっ、はっ、はっ」
規則正しいリズムで息を吐きながら、夜の街を走る。
一歩進むごとに足と肺が強化されていくのが分かるランニングに、涼馬は密かに充実感を覚えていた。転生する前はマラソン選手を見て何が楽しいのかと甚だ疑問だったが、今ならそれが少し分かる気がした。
毎日食事もきちんと摂り、陽の光も十分に浴びたことで血色もだいぶマシになってきた。そろそろ動き出してもいい頃合いかなどと考えていると、突然男の恫喝するような声が通りに響いた。
思わず足を止めると、続いて男女の言い争うような声と、何かを引っぱたいたような音が耳まで届く。歓楽街でもないこんな所で荒事かとは珍しいと涼馬は少し好奇心が湧いて声の方に向かって歩いていく。
「いいから大人しくついてきな。俺たちも好き好んで暴力は振るいたくねえんだ」
声が聞こえてきた通りから一本外れた道を覗くと、何やら二人組の男のそんな声が聞こえた。粗暴な口調だが、その口から出る言葉は生前涼馬の聞いたことのないような言葉だ。おそらく帝国の言語なのだろう。
男が話しかけた相手はまだ少女という感じの、垢抜けなさが残る女だった。肩口で切り揃えられた黒髪を揺らし、少女は強気に言い返す。
「……ッ! 女の顔引っぱたいといてよくそんな言葉をぬけぬけと言えるわね!」
烈火のごとく怒りだした少女の剣幕に、男たちは思わずたじろぐ。しかし、涼馬が驚いたのは、少女の思わぬ強気な返答に対してでは無かった。
「日本語だと……」
少女が発した言葉は日本語だったのだ。久しぶりに聞いた旧知の単語の数々に、涼馬は思わず踵を返しかけていた足を止めた。
良く見れば、確かに少女の風貌は日本人のそれだった。イスカン人は、瞳の色も髪の色も様々だ。事実、今の涼馬の身体――バゼット・ジュールも金髪に黒眼という昔の地球では珍しい風貌をしている。少女ににじり寄る二人組の男もそれぞれ青髪と紫髪という組み合わせだ。その点で言えば目の前で男達に詰め寄られる少女は、確かに日本人の特徴と一致していた。
涼馬がそんなことを考えているうちに、彼らの間にはどんどん剣呑な雰囲気が漂い始める。
「なんて喋ってるか分かんねーよ。イスカン語で喋れよ。チッ、もういい。抵抗出来なくなる程度でボコってから連れてく。奴隷なら奴隷らしく言うこと聞いてればよかったのによ」
「ひひ、トウヨウジンは綺麗な顔してるのが多いからなぁ。一度味見して見たかったんだよなぁ」
「ッ! いやっ! 来ないでよ!」
どんどん距離を詰めてきた男達から、少女は必至に逃げようと後ずさるが、後ろは行き止まりだ。黙って見ていればこれから胸糞悪い三流のストリップショーでも始まるだろう。
涼馬が以前住んでいた街――ススキハラでもこんなレイプみたいな乱暴は、大きな通りを出ればいくらでも見ることが出来た。そんなのを安い正義感で助けて回っていたりすれば一生をそのまま終えてしまう。普段ならこれも見なかった事にして立ち去る所だが、今日は少し違った。
一つは、少女が懐かしみを感じる日本人だという事。もう一つは、涼馬のリハビリの検査。
「さてこの身体、どれだけマシなもんになったかな……」
涼馬は一つ息を吸うと、足音を鳴らして路地裏へと踏み出した。
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