8 勇者アーサー
新しいお話スタートです
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東街道へ抜ける街の通りにある年季の入った木造の酒場からは、いっぱいになる酒飲み達の愉快な声が店の明かりとともに外の暗がりへと漏れていた。
手際良く仕事をこなす長い黒髪を束ねる女店主からの指示で、右手に焼き印を持つ給仕の少女がせっせと注文の品を運ぶ、いつも通りの光景が繰り広げられていたぱんだ亭であるが、特に賑わいを見せていたのは酒場のカウンター席であろう。
側の壁には人目につくよう掲げられている、店主ヨーコが魔晶石板と呼ぶ金属ともガラスとも言い難い質感の大きな四角い板がある。
ぱんだ亭の魔晶石板は、魔晶石で作られた『シンブン玉』を板の縁にある小石が一つ収まる程度の丸いくぼみへハメ込むことで、シンブン玉に封じ込められている大陸の主だった話題を文字や絵として、濃い緑色の平面部に投影する仕組みだった。
本日は定期的に配達されるシンブン玉が届けられた日でもあり、目新しい話がカウンターテーブルを囲む常連客達の良き肴となっていたようだ。
「『アーサー様ドラゴン討伐の為、魔晶石の街クリスタへ出立予定』かあ。とうとう勇者様のお出ましってことのようなので、どうやら僕の家を建て直す計画も終わりのようです」
魔王討伐を目的に大陸を駆け巡る勇者一行。その動向を知った常連客の一人が残念そうにうなだれると、ヨーコを始め酒飲み仲間の陽気さが増した。
「イノブタじゃねーんだ。酪農家のロニじゃドラゴンの鱗すら剥げねーつうの」
「でも、もしかしたらがあったかもしれないですし」
「だから、その”もしかしたら”が初めっからねーんだって」
中年の男が呆れる態度で言えば、酪農を仕事にしている男から微笑む顔をのぞかれるヨーコ。
「ロニ君の夢見たい気持ちも分からなくもないさね。褒賞金が三〇〇〇万ルネだからねえ。この店もずいぶん古いし、最近じゃ馬も世話しなくちゃならなくなってさ。アタイも店を開けなくていいんなら、ドラゴン退治と洒落込んでいたかもね」
「きっと包丁を持ったヨーコさんなら、ドラゴンでも三枚におろせますよ」
「ふふ、ドラゴンの肉って旨いのかしら」
料理と葡萄酒、そして笑い顔が並ぶカウンターテーブルで、ヨーコ達は軽口を飛び交わせながら会話に花を咲かせてゆく。
「それで、アタイは勇者様がドラゴン退治に動いてくれてありがたいさね。なんでも今クリスタじゃドラゴンが鉱山に居座っているお陰で、採掘場からまったく魔晶石が取れてないらしいじゃないかい」
「魔晶石で成り立っているクリスタとしては、街の死活問題ですから大事でしょうね」
酪農家の男の言葉を受け、ヨーコの切れ長の目が酒場のあちらこちらを見て回る。
「アタイらにとっても大事さ。そこの魔晶石板もだけどランプにコンロ、それと最近じゃ食材を冷やす箱なんかもあるようだし、商売に欠かせない物ばかりだ。品薄になれば自然と買値が上がるだろうから、そうなったら困りもんさね」
「僕も魔晶石の道具がないと酪農の仕事に支障が出ますね」
「ま、そんくらい影響があって重要なもんだからドラゴンを退治した暁には、三〇〇〇万ルネつう、家一つまるまる買えるような高額の褒賞金がクリスタの自治会から貰えるんだろうけどな」
「マサさん、僕の家の話はもういいですから……それより、知り合いの冒険者が話していたんですけど、クリスタのクエスト、ドラゴンにも関わらずギルドの依頼で一番人気らしいですよ」
冒険者ギルドは様々な依頼を加入している冒険者へ斡旋する機関である。
決まった仕事を持たない者が多い冒険者にとって、なくてはならない仕事の受注場でもあるギルド館は、大きな街へ行けば必ずと言って良い程目にでき、それは各街からの依頼を大陸中の冒険者が選べるギルドの強みとなっていた。
『手招きドラゴンの討伐』はネコの月より二ヶ月前、朝方ともなれば吐く息が白いヤジの月にクリスタ自治会からギルドへ持ち込まれたもので、酪農家の男の話にあるように受注率が最も高い案件となっていた。
冒険者達が進んでその足を向かわせる要因として、魅力的な褒賞金の額もさることながら、一つに対象モンスターの出没場所が限られているばかりではなく、目的の場所が魔晶石の街クリスタが保有する鉱山ゆえに準備を含めた道程が容易である点。一つに対象が単独であることから複数の敵による危険性を嫌う冒険者達にとって好ましかった。
ただし、このドラゴン討伐の背景として、未熟な冒険者達の多くの命が失われていた。
「あのお……やっぱりアレクでも、ドラゴンさんの討伐は難しいんですかね?」
不意に投げ込まれた質問は若い女の声であった。
店主の隣で立つ若草色のエプロンドレスを纏う給仕の少女からの問いに、尋ねられた側の男達は腕を組む者と顎へ手を添える者と分れたが、双方思案する仕草であることに変わりはないようだ。
「考えてみたが、考えるまでもなくウルクがドラゴンに勝つのは無理だろーな。いくらアイツが自衛団でも手を焼く馬鹿力野郎でも、所詮街レベルでの話だろ。それと比べて相手はモンスターハンターや戦い慣れしている冒険者でも歯が立たなくて、勇者様をご登場させちまうようなモンスターなんだ。大陸レベルの凶悪モンスターで間違いないだろ」
「僕もマサさんと同じ意見ですね。クリスタの街に居ついてる手招きドラゴンは割りと小さめらしいけど、そもそもドラゴンって竜王の化身って噂のある北の魔王の眷属らしいですし、そこら辺のモンスターと格が違いますよ。あのウルクでも相手にならないでしょうね」
「そういやドラゴンって、ロニの言うように北の魔王の眷属って話だったな。いいのかよ勇者様はそんなの相手にして。まだ西の魔王討伐の最中だろ。もし北の魔王が人間の勇者が襲って来たあ、なんて勘違したら大変じゃねーのか?」
「問題はあるかもとは思いますけれど、見るに見かねてじゃないんですかね。クリスタの依頼で結構な数の冒険者が命を落としているって話を聞きますし、アーサー様は王族でもあらせられるから、きっと民の身を案じて居ても立ってもいられなかった、ってやつですよ」
酒で舌の回りを良くし飲み仲間同士で盛り上がる男達の眼差しが、カウンターの中へ向けられた。
「んで、ヨーコちゃんはどう思うよ?」
賑わう酒場を見渡していたヨーコの視線が呼び戻された。
「アタイかい? そうだねえ、ぷちって踏まれて終わりなんじゃないのかい。そう思う……けれども」
「けれども?」
容赦のないアレクの末路を描いたヨーコの溜めるような口ぶりに、エリが明るい髪色の頭を少し横へ傾けその言葉尻をなぞる。
「いやさね、アタイはドラゴンとの勝敗よりも、気分屋な部分を差し引いてもあり余るくらいの報酬額があるモンスター退治に、なんであのルネ馬鹿が何一つ騒いでいないのかが気になるのさね」
「そう言えば、僕はクリスタのドラゴン討伐関係でウルクの噂話は聞いたことないですね」
「俺もねーなあ。ただよヨーコちゃん。アイツも馬鹿なりに身の程を知るってことを覚えただけなんじゃねーのかなあ。ドラゴンには敵わないと見て、端から諦めてんだろーよ」
「マサさんの言うようにそれならそれで、俺はドラゴンが嫌いだなり、何故俺がクリスタの街まで出向かねばならんなり、なんでもいいから負け惜しみの一つくらいは吐いて、ウチで悪態つきながら騒ぎそうなもんだろうさね」
「……たしかに」
同意の言葉は給仕の少女と中年の男と酪農家の男、すべての口からこぼれ重なった。
「でも、アタイがこの話を知ってかれこれ二ヶ月くらいかねえ。アレクにそういった素振りがまったくないんだ。それがどことなく……アタイには気色が悪いさね」
ヨーコの眉を寄せる渋い顔がエリへとうつった時であった。ヒヒーンと鳴く動物の声が彼女らの耳へ届く。
外から繰り返し怯えるようにして発せられる馬の嘆きに、酒場の客達がざわつき始める。
「いつも大人しいのに、どうしたのかね」
「ヨーコさん、私ハナコとハナゾーの様子を見てきますね」
エリが店の納屋へ繋ぎ留めている馬達を気に掛けると、通り雨がすっと止むかのような急速さで、酒場の喧騒が収まった。
理由は分かりきっていた。毛むくじゃらの大きな黒い塊が酒場の出入口の木柱を軋ませ強引に侵入してくるからだ。
思いもよらない光景に酒場の誰もが息を呑み恐怖で身を硬くする、まるで時間が静止しているかのような状況下で、ゆっくりとモンスターの全身がさらけ出されてゆく。
鋭い爪が生える四肢を床に着け、ずんぐりむっくりと丸まる姿であっても、その巨躯は優に人の高さを越えていた。
「ひ……日暮れグマ」
誰がつぶやいたのかは定かでない。だが、この上なく明白で正しい発言だった。
加えて、山林で生息する凶暴なモンスター日暮れグマが何故目の前に現れているのか。理解している者などいないが、異変に気づく者は多い。
カウンター奥の壁へ、華奢な体を押し付けていたエリとヨーコの顔も怪訝な表情となる。
「あ、あの、ヨーコさん。なんかあの日暮れグマ」
「そうさね、手足を引きずってこっちへ向かって来るわね」
酒場の客達を壁際へ追いやり、テーブルや椅子を倒しながらエリやヨーコへずりずり近づいて行く日暮れグマは、”歩いている”ではなく”動いている”と形容すべきだろう。
カウンターの前まで移動すれば、その下腹部の毛むくじゃらがモゾモゾと動きそこから戦士風の若い男が姿を現す。
「おいヨーコ。腹が減った。俺になんか食わせろ」
「……はあ。まったく、何から物申そうか悩んじまうよ」
ヨーコの安堵が混ざる溜息を他所に、アレクは担いでいた日暮れぐまを無造作に放る。
毛むくじゃらの大きな体が鈍い音を立て床へ横たわり、生気のない突起のある口を持つ獣の顔が天井を仰ぎ見た。
「アレク、そいつはなんだい。ウチにモンスターとの同伴はお断りなんてルールはないけどさ、そんなの連れて来られてもこっちは困りもんさね」
「俺もできればこんな邪魔臭いヤツを連れ回したくはない。しかし、ジジイ会の白髪爺がモンスターをやっつけた証がないと金を払えんと言うのでな。ぶっ倒した中で一番強そうなのを持って来たのだ」
「特徴のある爪なり毛皮を剥ぐなりして持ってくればいいものを。アタイの方が間違ってるのかね……。会長さんも、まるまる一匹持って来られるとは思ってないだろうにさ」
「ジジイの好みなんぞ俺が知ったことか。それより早く飯を作れ。日暮れグマのヤツは次から次へと仲間を呼んで襲ってくるモンスターだったからな。夕方から何も食べてない俺の腹はぺこぺこなのだ」
「そんなに腹が減ってるなら、自分が担いでた日暮れグマの肉でも食べれば良かったんだよ」
「コイツらは駄目だ。試しにカジってみたが、とても不味かった」
「……あんた相手じゃ、下手な冗談も言えやしないね」
ヨーコは肩を竦め、やれやれと左右へ首を振る。
「お願いだから、モンスターをかじるなんてのはもうおよしよ。あんたが腹壊すのは勝手だけどさ、アタイが変な物食べさせているなんて、ラティスから思われたかないからね」
「おいこら。頼むフリをして、しれっとキモち悪いヤツのことを出してくるなっ」
がんっと、穴が空いてしまいそうな勢いで拳が叩きつけられたカウンターテーブル。
そこへ、葡萄酒が並々と注がれた木製のコップが置かれる。
「そりゃ悪うございました。とりあえずあんたは、料理ができるまでこれでも飲んでいなさね」
「うむ。ヨーコにしてはなかなか気が利くではないか」
「今夜は酔い潰れてもらった方が都合がいい気がするからね。どんどん飲みなさね」
「……なるほど、そうかそうか」
尖る白い歯を見せつけるようにアレクの口角を上がる。
「言っておくが、俺はヨーコ如きの魂胆なんぞ既に読めているからな。大方俺の日暮れグマを狙っているのであろう。が、甘いな。ミンミン蜂の蜂蜜より甘い。俺がこんな安い酒で酔い潰れるわけがなかろうが。後悔しろよ、店の酒樽ごとカラにしてくれるわっ、だははははは」
酒場中へ響く豪快な笑い声。
不快さを示す者がほとんどであったが、これが良き合図となった。
モンスターの脅威がないと分かれば、ぱんだ亭は普段の装いを取り戻そうと動き出す。
エリがペコペコと頭を下げながら散らばった酒や料理を片付け、客達は慣れた手つきで倒れたテーブルや椅子を起こす。腕力に自慢のある者が集まり、日暮れグマを酒場の端へと寄せる。
稀に見る傍若無人な戦士が贔屓とする酒場では、これらも日常の光景であった。
こうしてうら若き少女エリが働き始めて三巡目の水の日も、何事もなかったように団欒が始まり、いつものように騒がしくしながら夜を深めてゆくのであるが、
「いいんですかヨーコさん? アレクなんかにあんな高いお酒を出して。もったいないですよう」
「日暮れグマが街中を徘徊してたら大騒ぎになるからね。アタイが一肌脱ごうじゃないか」
この日のぱんだ亭では、値が張る強い酒が多く振る舞われた。