6 ブショウ髭とアゴ髭
例えるなら泉の魚が水面から飛び跳ねる勢いで、座るエリがバッと立ち上がった。
不安に浸りずんずんと沈み暗くなる感覚から一気に浮上する気持ちを表わすかのような行動には、全身を突き抜けた圧倒的な希望や助かったと確信まで至る安堵があったのかもしれない。
それはそれとして、跳ねた後にエリは硬い石床へとベタンと顔から突っ伏したた。
縄で両腕が体に括りつけられたままであるのだから、一度バランスを崩してしまえば為す術もなく倒れてしまう。
しかしながら石床からくいっと上げられた顔を見るに、少女を襲ったのは痛みではないようだ。
涙の跡を残す顔はニヤケ面であり、向く先では抜身のロングソードを肩に担ぐ戦士風の男が螺旋階段から姿を現していた。
「アレクだ。なんでだか分かんないけれど、アレクがいるよう、えへへ」
エリが喜ぶ最中、アレクが立つ石段近くではその顔の緩みを許さない緊迫した状況へ突入した。
侵入者を待ち構えていた奴隷商の二人。
得物を手にばっと左右へ展開した男達の刃がアレクへ斬り掛かる。
左――無精髭面の男がダガーで攻撃を仕掛ける。
アレクのロングソードが無精髭面の男へ振り下ろされるが、男は横へ飛び退き斬撃を躱す。
そこへ間髪入れず右から顎髭面の男が、ショートソードで突き刺すようにして飛び込んだ。
刺突の障害となり得るアレクのロングソードは、切っ先を石床へ打ちつけたままだ。
「ぐがっ」
声を漏らすは顎髭面の男。石床にカランとショートソードが落ちる。
突き出す刃の軌道を見切られた男は、アレクの左腕に捕まりぐんっと引き寄せられ、羽交い締めにされた。
だが、顎髭面の男が身動きを封じられている間にも、、戦士アレクには地を這うような男からの刃が迫る。
連携とはかくもこうあるべきと示すかの如く、既に目的の背後へと回っていた無精髭面の男。
「ふん。それで俺の不意をついたつもりかっ」
振り向きざま放たれた、片腕とは思えぬアレクの空気を震わす一振り。
横に薙ぐ、鉄の鎧すら両断しかねない豪快な一撃が――虚空を薙いだ。
身を低くすることで回避できる。無精髭面の男の戦闘経験がアレクの反撃を予測し対処した結果である。
刹那の駆け引きを制した無精髭面の男は、眼前の脇腹目掛けダガーを突き立てた。鋭利な刃先は難なく肉に埋まり、流血にその刀身を濡らす。
のであるが。
「だあはははっ、甘いな。俺はなんと髭面の盾を装備していたのだっ」
確かな手応えのあったダガーが突き刺さしていたのは、右から攻め立てていた顎髭面の男だった。
アレクが絞め落とした顎髭面の男を身代わりとして、まさしく盾として使い、無精髭面からの攻撃を防いでいた。
そのままアレクは、猪突猛進を体現するかのように猛烈な勢いで突き進み、石造りの部屋へドンっと重い衝撃を走らせた。
無精髭面の男を”盾”ごとオラオラと押して石壁へ叩きつけたのである。
状態を縄で縛られるエリがもぞもぞっとして立ち上がる頃、ぐったりとなる髭面の男達は側にあった石壁の窓から外の暗闇へ、ポイ、ポイ、と投げ入れられた。
「これで終いか。しかしコイツら全員、面白いように髭面ばかりだったな」
ゴミを払う仕草でパンパンと両手の平を鳴らすアレクが登って来た螺旋階段には、倒れる奴隷商の男達の姿があった。
今、見張り塔で息のある者はこの円状の部屋にいる三人のみ。
石壁に立て掛けていたロングソードを取りいつものように担ぐアレクと、その戦士から距離を置くガンス。そして、アレクへ駆け寄るエリである。
「アレク、助けに」
「おうこらっ、クサコっ。お前がこんなところに居るせいで、俺はヨーコから塩カラい飯を食わされてしまったぞっ。どうしてくれる。舌がヒリヒリだぞ、喉がイガイガだぞ。こんのお――ペっ、ぺぺぺぺぺぺ」
「うわああ、なんで、何が!? ちょ、汚いいっ、汚いよう」
エリは反転して、吐き掛けられる唾液の嵐から逃げる。
数歩目、足がもつれ硬い石床にべチャリと倒れ伏す。
「ソルジャーアレク。一体どういうつもりざんすか」
「俺の口の中がいかにシオシオになっているか、コイツに思い知らさねばならんだろ」
お汁の雨が降り注ぐエリの耳に届いた、感情を抑圧するような声は遠く、感情をむき出しにする声は近い。
「ワタクシが聞いているのは、どうしてアナタがワタクシどもを襲うのかという事ざんす」
「ああ、それか。髭面共の方が襲って来たのでな。返り討ちにしてやったまでだが」
エリがころり体を回転させると、向き直って牙を見せる横顔が見えた。
その視線を辿れば、紫色の男の手に鉄製筒状の細長く黒い武器がある。
「ほう、髭ザンスが手にしているのは銃か。珍しい物を持っているな。ふーむ、髭面の盾は捨ててしまったしな……。おいクサコ、ツバはもう飛ばさんからこっちへ来い。お前をクサコの盾として――、待てっどこへ行く、そっちじゃないこっちへ転がってこんかっ」
石床の上をゴロゴロ急ぎ転がるエリ。
「ソルジャーアレク、誤解しないで欲しいざんす。これはアナタと事を構えたくないからこその銃ざんす。話を進める為の手段でしかないざんす。だから、ワタクシにそれ以上近づいて来なければ、引き金が引かれる事もないざんす」
「髭ザンスと話なんてないぞ。俺はそこの端で転がっている、芋虫みたいなヤツを連れて帰るだけだ。俺の飯係があの芋虫イモコが帰ってこんと、一生塩カラい飯しか作らんと駄々をこねるのでな」
「アナタと取り交わした話を持ち出したいところ……ではあるざんすが、この際、そんな奴隷娘の一人や二人どうでも良いざんす。ええ、好きに連れて行ってもらって構わないざんすよ」
「いちいち言われんでも、さっきそうすると言っただろう」
転がる行き場を失った壁際の芋虫こと、エリが引き起こされる。
首の後ろへ腕を回され吊るされるエリと、相手の襟首を掴み吊るすアレク。
互いの顔が対面し、じーっと見つめられるエリの方は居心地が悪い様子を見せる。
「ええと、縄を解いてくれるとありがたいな……って思う私は、間違ってるのかな」
「いつもに増して汚い顔だと思っていたが。ふーん。クサコは泣いていたのか……。芋虫で泣き虫弱虫とは、欲張りならぬ虫張りなヤツめ」
話を聞いてくれないばかりか散々な言い草のアレクに、違う意味でまた瞳を濡らしたくなるエリであったが、埃っぽい部屋のお陰か、日頃は白く艶の良い肌もややくすむように汚れており、このような顔は涙の痕跡を留めるのに適していた模様だ。
「それにしてもドロドロで汚い。お前クサコだしな……ふーむ。なんだか俺は今、ばっちいものに触れているような気がしてならない。いや、むしろクサコだから間違いなくばっちいのやも知れん」
放られ尻餅をつくエリが見上げれば、自分の襟首から離された手が、持ち主である男のズボンでゴシゴシ拭かれていた。
エリは一時の間を経て、ヒドいっ、と一言絞り出した後、乙女の尊厳を胸に喉を大きく開く。
「ばっ、ぱっちくなんかないもんっ、少し汚れているだけで私ばっちくなんかないもん。お風呂毎日入ってるもん。それにクサコはそのクサコじゃないもん。臭くない方のクサコだから関係ないんだもんっ」
「もんもんうるさいっ。モンチーざるのマネをする暇があるのならさっさと顔を拭いておけ、泣き虫ムシコめ」
縄を解いてくれないと無理だからと、エリが反論しようにも矛先を向ける相手の大きな背中があるだけ。
くるり身を返していたアレクがズンズンと歩いてゆく。行き先は後ずさりをするガンスのようであった。
エリからアレクの表情は分からない。けれども顔を歪ませ怯えるガンスを見れば、戦士の顔をした男から威圧されているのが分かる。
ロングソードを肩へ担ぐ後ろ姿は何も語らなかったが、エリはアレクの目的を悟った。
「ソ、ソルジャーアレク。待つざんす。止まるざんすっ。どうしてこっちへ来るざんすか。アナタは娘を連れて帰る。それをワタクシは手出ししない。だから貴方もワタクシへは手出ししない。お互いこれで良いはずざんしょっ」
「それでも良かったが。何、少しばかり俺の気が変わったのだ。俺は強く、そして賢い男でもある。また面倒なことにならないようお前をサクっとぶった斬っておこうと思ってな。ついでだ。遠慮などいらん」
「ふ、ふざけた事を。何から何までっ。アナタ! 交渉と言うものを――く、来るんじゃないざんす。くうう、良いざんすかっ。銃ざんすよっ。ワタクシが持っているのは銃。理解しているざんすか。そんな革の装備では防げない強力な武器なんざんすよっ」
口髭を震わせながら、ガンスが強い口調で己の優位性を告げる。
野生のイノブタを仕留めたこともあるガンスにとって、ただただ真正面から進んで来るだけの的に当てるなど造作もないこと。
そればかりか、ガンスが片手を銃身に添え構える長筒は、最新型の六連射可能の銃である。万が一外したとしても、次弾が即座に撃て、隙はない。
そして、相手との間隔。
剣撃の間合いならまだまだ遠いが、射撃の間合いなら確実性がある好ましい距離。
この絶対的優位が覆ることなどあり得ないとガンスは考えているが、危機感に足は退り続けていた。
「馬鹿にするな。俺は銃がどういった武器かくらい知っている。さすがの俺も当たりどころが悪ければ無事ですまんだろう。だからこうして、鉛が飛んで来る前に一撃を食らわそうと、髭ザンスの方へ向かっている」
言い分に対しそぐわないゆったりとした戦士の歩みが、口髭がしんなりとなる男を苦しめ、銃の引き金を岩のように固くする。
銃口を向ける相手が駆け出すなどの動きを見せてくれれば、ガンスは反射的に引き金を引けた。
急激な変化を与えず、じわりじわりと圧力が増すだけの駆け引きは、慎重なガンスから決断力を奪った上で、最善の選択肢を選ばせようとする。
ガンスの最善とは脅威と向き合わないことであり、一度でも銃の引き金を引けば、最善は叶わなくなる。
絶対的優位でありながらも、銃身を支える手にある魔法道具――指輪を信じる男にとって”赤”は、絶対的脅威だった。
避けるには、逃げるには、脱するには。
思考が一辺倒になるガンスは短い呼吸を繰り返し、額からは大量の汗をしたたり落とす。
「と、止まるざんすっ。はひ……銃を向けているざんすよ。一介の戦士などでは太刀打ちできない。はひ、そう剣では防げない。それが銃なんざんすっ。なのにどうして赤いままざんすかっ。はひ、はひ……どう考えてもワタクシが。なぜざんすか」
ガンスの背中が、とんっと硬い石壁に触れる。
眼球がこぼれ落ちてしまいそうなくらいに見開らかれた眼は、食い入るよう何度も確認した指輪から、影を被せる戦士へ釘付けとなった。
「剣は振り上げねば振り下ろせん。銃というものは引き金を引かねば、鉛は飛び出さん。お前は戦いをまったく知らんヤツだ。”びじねす”とやらは戦いと口にしていたようだが、玄人である俺はお前がずぶの素人だと見抜いていたぞ」
「待つざんす、ソルジャーアレクっ。はひ、話をワタクシの話を。ワタクシを斬り伏せても意味がない、そう、合理的じゃないざんす。それどころか損するざんすっ」
「俺がすっきりするのだ。損などにはならん」
「はひほ、本社へ戻れば金貨を用意出来るざんす。ワタクシを生かしておいた方が、はひ、遊んで暮らせるくらいの額は用意出来るざんすっ」
「命乞いか。しかし今金貨は持っていないのだろう」
「銀貨なら、銀貨なら、はひるざんす」
石床に銃が置かれると、金属音とともに数枚の銀貨が散らばった。
ガンスの懐からこぼれ落ちた銀貨の一枚に重々しい足が乗る。
「俺は落ちている金なんぞに興味などない」
「ソソソ、ソルジャーアレクっ。聞く、聞くざんす。ワタクシの命はワタクシのものだけじゃないざんす。ワタクシはこれから、奴隷商の未来を切り開いて行かねばならない男ざんす。『月たる鵺』から選ばれたこれからの世の中に必要な男なんざんす」
見えない圧力に屈したからなのか、自らの誠意を示そうとするからなのか。
膝を折るガンスの手は、祈るように胸の前で組まれた。
「貴方のような、偉大な戦士なら尚の事、理解して頂けるはずざんす。はひ、人は特別な人間とただの凡人に分かれ、無論貴方とワタクシは前者の人間。特別なワタクシ達は、はひ、同じ価値を有する同胞のようなものざんす。だから、間違いを起こしてはならない。賢明なるソルジャーアレクなら正しい決断を、はひ、考え直すべきざんす」
その懸命な声に、ふてぶてしい態度ながらも耳を傾けていた戦士が動く。
担ぐ武器がすう、と掲げられた。
振り下ろされたロングソードが、その鋼の色を鈍くする。
「俺をキサマ如きと一緒にするな。お前は俺に斬られる。ただそれだけの髭男だ」