5 魔法誓約書
寝静まる太陽はその姿を青黒き夜空に写し、月の名で浮かばせる。
大陸の誰もがこのように語る丸い月の眼下では、幾代の夜もどこかしらで人の火がともり、今宵は岩肌をさらけ出す地で屹立する石造りの塔も、久方ぶりの火をともす。
石造りの塔はプジョーニの街から東、山道へ繋がる街道より外れた場所に位置し、かつて人が魔族との争いで築いた見張り塔であった。
今もなお、形を留める見張り塔の上を目指して内壁を伝う螺旋階段を登れば、円状の部屋へと行き着く。
更に上へと石段が続く部屋は、十人程の大人がくつろぐには十分な広さがあり、石壁をくり貫いた窓から淡い光をこぼす程に明るい。
光源である筒状の魔晶ランプ以外に、物という物は置かれておらず、おおよそ殺風景なここには、奴隷商の男達と奴隷の娘の顔があるだけであった。
石段では奴隷商をまとめるガンスが腰掛け、その側で手下の男達がそれぞれ羽をのばす。
エリは上体を縄でぐるぐる巻かれ、石床に臀部を冷たくしながら、部屋の隅に座らせられていた。
ぱんだ亭から連れさらわれて、幾ばくかの時を経ていたエリの夜。
その帳が上がる気配は遠いようで、奴隷商達の動向を静かに見守る夜が続く。
「こんな田舎まで来た挙句、こんな埃っぽい所で一晩過ごさなくてはいけないなんて、ワタクシも大変ざんすね」
「仕方ねえでさあ。プジョーニとかいう街は俺達のような奴隷商に厳しくて宿が取れねえし、ヤサへ戻ろうにも山道は使えねえってもんで。けど、頭。馬車で過ごすよりゃ、よっぽどマシぜすぜ。待機してた仲間も入れりゃあ俺達十人もいるから、ここはありがてえでさあ」
奴隷商ウーシーカンパニーは、話をするガンスと頬を腫らす無精髭面の男、そしてこの場にいる残りの三人と塔の各所で見張りをする五人を合わせれば、総勢十人の集団になる。
「ヤサではなく本社。そして、社長ざんす」
「へい、すみやせん社長。それで話は変わるんですが、あのアレクって野郎、あれで良かったんですかい。こう言っちゃなんですが、俺達の商売は世間にナメられちゃ終わりですぜ。やっぱ、ガツンとシメといた方が良かったんじゃねえですか」
「それが出来るなら、ワタクシも苦労しないざんす。あの男、どうしようもない馬鹿のくせして腕は本物のようで、何度確かめても、ワタクシの指輪はずっと赤いままだったざんす」
ガンスが無精髭面の男へ向け、金色の指輪がハマる手をかざす。
ぱんだ亭の時と違い、指輪に埋め込まれている石は緑色であった。
「その指輪、石の色で大した野郎かそうじゃねえか、教えてくれるんでしたよね」
「緑は安全、赤は危険ざんす。『月たる鵺』から頂いたこの魔法道具は、弱きを挫き強きは避けよ、をモットーとするワタクシには非常に便利なもの。相手がワタクシの力を上回るかどうか、戦わずして分かるざんす」
間を取るようにして、すう、と石段から腰を上げるガンス。
それを見るエリが顔を背けた。
部屋の遠くより向けられた視線への反射的な行動だった。
「そして、社長であるワタクシの力には社員であるアナタ達も含まれるざんすから、アタナ達の得意とする武力では、あの馬鹿な男に挑んだとしても勝てないざんす。アナタ、ワタクシのお陰で命拾いしてるざんすよ。この娘の乗っていた馬車の連中のようにならなくて済んだざんす」
苦い顔の男を他所にガンスがコツコツと硬い床を鳴らす。
エリの側へと足音が寄って行く。
「奴隷商としての面目とはいえ、回収に銀貨三枚。鼻たれ娘はもう少しワタクシに愛想の良い顔を見せるべきじゃないざんすかね。女は愛嬌って言葉を知らないざんすか」
「うう……あの、私……気持ちの整理が。ぱんだ、ヨーコさん……」
「まなじ、ワタクシどもから逃げ出すからそうなるざんす」
ガンスの言い分に、涙腺が緩むエリの心は頷いてしまう。
奴隷商にさらわれた時、エリは自分なりに奴隷としての一生を見つめ、覚悟を決めていた。
荷馬車で揺られて運ばれていた時も、いい人に買われればそれで良いと沈む顔を笑顔に変えた。
でも今、ぱんだ亭での生活を手にしていたエリに、笑顔を作れるだけの覚悟は抱けない。
「商品である以上、これもワタクシの責任なんざんしょうね。本当に社長は大変ざんす。奴隷商も客あっての商い。そんな汚らしい顔をした商品のままでは売れないざんす。ですからそんな娘にワタクシが一つ、素晴らしい未来の話をしてあげるざんす。娘はどうせ孤児ざんしょ」
ガンスが得意気に口髭を撫でると、咳払いを一つ。
「とある貴族夫妻には愛してやまない娘がいたざんすが、夫妻はその娘を病気で失ってしまうざんす。ああ、悲しみに暮れる日々。しかしそこへ亡き娘に似た奴隷の娘が。貴族夫妻はワタクシへ、ありがとうありがとうと涙ながらに礼を言い、その奴隷の娘を買い取って行ったざんす」
そこには芝居がかる声音があった。
「買われて行った奴隷の娘は、ワタクシに拾われるまで毎日残飯を漁って暮らす孤児。しかし今では裕福な暮らしを約束された貴族の娘。ワタクシのお陰で幸せな人生を送っているのでざんす」
石造りの小さな舞台上の役者から合図が飛び、奴隷商の男達が手の平を打ち合わせる。
エリにガンスの話の意味を理解できないわけではないが、一緒になって拍手を送れるものでもなく、縄で縛られていたことを幸いに思う。
「その、髭社長さんは奴隷だって幸せになれる……そう言いたいんですか、言いたいんですよね、きっと。それで、貴族の人からお礼される奴隷商は素晴らしいんだよって言いたいんだ。人のためだって言っているように聞こえる」
「折角の話をムゲにする娘ざんすね。幸せになれるかは、娘の運とワタクシに対する態度次第。として、奴隷を必要とする者達が間違いなくいるから奴隷商が成り立つざんす。ワタクシどもは人から必要とされる商いをしているざんす。それでも、世間が馬鹿ばかり。ワタクシども奴隷商への冷遇と偏見はどこへ行ってもあるざんす。不条理だと思わないざんすか」
「だって、奴隷商なんだもん」
「見た目通りのお馬鹿な返答……ざんすが、しかし娘、そこざんす。だからこそワタクシが先頭に立ち、現在の商いの形を変える事にしたざんす。魔法誓約書の破棄条項撤廃を足掛かりに、ワタクシどもウーシーカンパニーがこの業界に革命を起こすざんすっ」
拳を握る髭男の意気込みに、周りの奴隷商の男達も鼻息を荒くした。
唐突な奴隷商達の熱に一瞬たじろぐエリであったが、エリもその体を熱くしてしまう。
「あのあの、魔法誓約書の破棄条項撤廃って、代価がなくなるってことですか!? ですよねっ。ああ、それいいと思いますっ」
奴隷を奴隷として縛る魔法誓約から解放されるには、誓約を捧げた相手と奴隷の死を除いて、誓約時に交わされる”誓約そのものを無効化する条件”、代価の支払いに従うしかない。
誓約書の無効化を意味する破棄には、誓約を為す魔法の根源である魔力の理により、拘束力に見合う代価が必要とされた。
奴隷の場合、奴隷商の約款を用い、通貨による価値を使用することが多く、人を縛る力に見合うものとなれば、ルネは誰もがおいそれと都合できないほど高額なものになる。
奴隷の未来が待つエリには、代価の廃止は嬉しい限りであった。
「やはりお馬鹿な娘。何か勘違いしているようざんすね。魔法誓約の性質上、代価はなくならないざんす。誓約書内容から破棄できる条件項目を取っ払うと、ワタクシは言っているざんすよ」
「取っ払う? 誓約書を破棄できなくする……無効化できる条件をなしにするってことですか!? それだと、奴隷が本当の本当に一生奴隷のままじゃないですかっ」
自由への望みを持てることが、奴隷として生きる者の支えであり、魔法誓約の無効化自体が失われるなど、エリには信じられないことであった。
「魔法誓約書の破棄がなぜ存在しているのか。そこから娘は何か履き違えをしているざんすね。そもそもあれは奴隷の為にあるのではなく、奴隷を買う客やワタクシども奴隷商の為にあるものざんす」
「奴隷のためじゃなくて……意味分かんないです」
「ワタクシが素晴らしいのは、お馬鹿にも愛想を尽かさない所ざんす。良かったざんすねワタクシで。奴隷を所有する多くは、貴族や富豪だというのは娘にも分かるざんすか」
「そのくらいは知ってます……よう」
「お得意様である彼らにとって奴隷は財産ざんす。そんな彼らは、奴隷を売ったり買ったり譲渡したり、仲間内で交換したりと忙しい人種。その際、一度交わしてしまえば永遠に変わる事のない誓約内容は足枷になるばかりか、基本的に受け付けていないざんすけど、奴隷の返品もあるざんす。不測の事態も考慮すれば、破棄できない誓約書の方が不自然なんざんす」
ガンスの説明にエリは小さくな口を開けてることで同意を示した。
一人が複数の魔法誓約を行うことは可能であるが、誓約そのものは重複しようと一生涯誓いが満たされるまで効力を持ち続ける。
奴隷の主となる者からすれば、奴隷を手元へ置くための誓約内容がかえって扱い難い財産となってしまう場合もあるということだ。
それゆえ、改めて誓約するための破棄があるとエリは理解する。理解するが、開く口を結んで唸る。
「では、どうしてワタクシが必須とも言える誓約書の無効化そのものを無くしてしまうのか。お馬鹿な娘はお馬鹿なりに考えているざんすね。そうざんしょ」
「考えました……けれど、分かんないです」
エリの素直さがガンスの口髭を跳ねさせた。
そうして、いかにも嬉しそうなガンスが、座るエリを中心にして右から左、左から右へと歩き足を止める。
「順を追って話すざんす。必要なものでも、お得意様には誓約書の破棄がある事自体煩わしく代価に悩まされているざんす。そこでワタクシどもは”誓約内容を変更できる”奴隷を売り込む事にしたざんす。誓約書を破棄する必要性があるのは誓約書の内容を変えられないから。では、変更可能な誓約書を作れば良い。まさに逆転の発想ざんす」
「言っていることは分かるんですけれど……でもその変更が無理だから、破棄することが必要なんじゃないのかな……って思う私は、さっき髭社長さんが言ったこと言っているだけなんですけれど」
「揚げ足を取ったつもりざんしょうが、そうは問屋が卸さないざんす。お馬鹿な娘。ワタクシはさる組織からの力を借りてそれを可能にした、新しい魔法誓約書形式『ウーシー誓約』を作ったざんすっ」
一度でも魔法誓約を行った者なら絶対に信じることなどできない、魔法誓約書の変更。
人の身で魔法を行使するウイザード達が、長年の経験と知識で確立した魔導学に則り、特別な儀式と書式で作る魔法誓約書は、誓約書そのものが手を加えられない仕様となっている。
裏を返せば、改変できる誓約書など誓いの楔となれないのだ。
しかしエリは力強いガンスの口調に疑念など持てず、その様子を見たガンスが一段と勢いをつけて語る。
それは一人の奴隷商の男が思い描く、商いの展望であった。
男はまず、顧客の望みでもある誓約内容が変更可能な魔法誓約書、『ウーシー誓約書』を売り込み、後に”更新制”へ切り替えると言う。
魔法誓約は一度交わせば、永久的に効力を持続する。更新制とはその誓約書が及ぼす力を、永久的なものから定期的なものへと変えるというものだ。
誓約更新は年ごとに行い、顧客からは更新毎に手数料を取る。誓約更新を怠った顧客の奴隷は以後、誓約変更の対象から外す。
既存の魔法誓約と違い『ウーシー誓約書』を扱えるのは、奴隷商ウーシーカンパニーだけであるから、顧客は財産として奴隷を維持する限り、自社の更新制度を受け入れるしかないと自信を見せた男は、結果的に代価を必要としない『ウーシー誓約書』は容認されると豪語する。
そして男はここで、従来の誓約書の破棄を無効化した意味が生きると満面の笑みであった。
誓約書を破棄できる要素を廃した『ウーシー誓約書』は、更新が可能で在り続けることで成り立つ。
顧客は奴隷を買った後も、奴隷商ウーシーカンパニーを必要としなくてはならない。
「今までは、奴隷を買ってしまえば貴族や富豪はワタクシに、はいさようなら。しかしこれからは一度の取引きで長いお付き合いざんす。そして、需要と供給の問題もこれで解決。幾らでも増やせる奴隷と違い、買い手である貴族はなかなか増えないざんすからね」
活力でみなぎるガンスの視線が、石壁の窓へ移る。
男の野心が見ている先を、俯くエリが追えることなどなく、
「これからの奴隷商は一定数の客を確保し、そこから利益を得るべきざんす。そうすることで安定した潤いばかりではなく、世間の見方を変える事に繋がるざんす」
「変える……変わりましたよ。私、もっと奴隷商が嫌いになりました」
なけなしの元気を使い、くっと頭を起こして放った思いは、とても弱々しいものとなった。
相手は奴隷としての人生を与え、奴隷にとっての希望すらも奪う人でなし。
臆してなどいない。ただ、見上げる相手の対照的な表情の顔に、気が滅入って仕方なかった。流れ落ちる涙がたまらなく嫌だった。
エリは自分が失意の底へ沈んでゆくのを実感してしまう。
「奴隷娘の意見は世間と関係ないざんす。関係あるのは世間に影響力を持つ人間、ワタクシどものお得意様、貴族や富豪達ざんす。彼らにとって奴隷商は奴隷を調達するだけの相手でしかなかったのが、自分達の損害を恐れワタクシどもを支持しなくてならなくなるざんす。そうなれば、自ずとワタクシどもを世間から守ろうとするは目に見えて――」
もう随分と語られた奴隷商の未来が中断する。
熱を帯びる声が響いた硬い部屋に、騒がしい音が混ざったからだ。
ドタドタと石段を踏み鳴らした足音はガンスを振り返らせ、部屋の男達からも注意を向けさせた。
石段には上層から駆け下りて来た一人の男。
「頭っ、じゃなくて、ガンス社長っ。ちょっといいですか。暗くてはっきりしないんですが、何かこっちへ向かって来るものがあります」
「モンスターなら心配ないざんすよ。人魔大戦時の建築物には、創世神の加護が付与されているざんす。だから、中には入――」
「いえ、それが魔晶ランプのような光りが見えるんで、俺っちの勘だと人だと思います」
「では、さっきの街の自衛団どもの可能性が――」
「いえ、それが俺っちの勘だとそれもなんか違うような気がします」
外の見張りをしていた男からの報告に、ガンスは眉間にしわを寄せ不機嫌そのものの顔を返す。
「と、とにかく真っ直ぐこっちに向かってくる光があるんです。どうしましょう」
「どうもしないざんす。どこの誰で何者かは知らないざんすが、ここへ向かってくるなら、目的など分かりきった事。正義感ぶった馬鹿な輩、我が社を妬む同業者、ワタクシどもが襲われることなど常。いつものように返り討ちにしてあげれば良いだけの事ざんす」
にゅろんと伸びる口髭が摘まむ男の鋭い目つきと低くなる声が、周りの男達へ仕事の時を告げる。
鬱憤晴らしに丁度良いと首を鳴らす者。研いだ得物の切れ味を試したい者。己の見せ場だと高揚する者。
戦いに長けた奴隷商の男達が各々ごそりと動き出すのであるが、やはりと言えばやはりなのであろう。
彼らは呼吸するような自然さで殺気を纏い、それはうなだれる少女エリを更に息苦しくさせるのだった。