4 英雄王ルネスブルグ
「いやああ、離して下さいっ。きゃあ、ヨーコさんっ」
エリの腕を取る無精髭面の男がヨーコを突き飛ばす。
奴隷商ウーシーカンパニーを名乗る他の男達は、手にする武器でぱんだ亭の客を牽制する。
男達の暴挙に、店の客達は口を挟めずにいた。
「待ちなよ、エリーをどこへ連れて行く気だいっ」
「自社の商品をどこへ連れて行こうと、アナタには関係ない事ざんしょ」
膝をつくヨーコをスーツの男ガンスが見下げていると、ぱんだ亭の客に今までとは違う緊張が走る。
エリを酒場の出口へ引きずる無精髭面の男の前に、ぬうっと立ちはだかる影。
ロングソードを腰へ提げる戦士風の若い男が立っていた。
「おい、邪魔だ若造っ。そこをどきやがれぶふうう」
無精髭面の男が豪快に吹っ飛び、店のテーブルや椅子を散らす。
「キサマが俺の行く手を塞いでいるのだ、馬鹿者め」
問答無用で男を殴り飛ばしたアレクに、事の成り行きを遠巻きに見る客達からはパチパチと拍手が湧き、ウルクウルクと賞賛の声が上がる。
「ヨーコさん、大丈夫ですかっ」
「ああ、平気だよ。まったく、こういう時のアレクは頼もしい限りだねえ」
無精髭面の男から逃れたエリが駆け寄れば、顔を綻ばすヨーコがエリの頭を撫
でる。
そして、仲間を傷めつけられた男達の敵意がアレクへ注がれる中、その内の一人が気づく。
「若い男に戦士の格好でウルク。てえめかっ。てめえがあのウルクかっ。頭っ、きっとこいつぜすぜ、一週間前に俺らの馬車を襲って奴隷達を逃がしやがった野郎はっ。飛んで火に入るガマトンボとはこのことだっ。おい野郎ども、きっちり落とし前つけてやろうぜっ」
奴隷商の男の声に仲間の荒くれ者達が呼応する。
床で転がっていた無精髭面の男も加わり、各々の得物を手に殺気立つ五人の男達がアレクを取り囲む。
店内で戦闘が行われようとする様子に、エリとヨーコはカウンターの縁へ身を寄せ、店の客達はテーブルの下や、壁際へ避難した。
ぱんだ亭は一触即発の事態。そこへパンっと手の平を打つ音が響く。
皆の注目を集めさせたのは、殺気立つ五人の男達を取りまとめる立場にあるガンスであった。
「本当に無能な社員を持つと苦労するざんすね。少しは切った張ったの事以外も覚えるざんすよ。だからこうしてワタクシが出向くハメになるざんす。それとワタクシの事は社長と呼ぶようにいつも言ってるざんす」
「かし、社長、あれですかい。こいつを見す見す見逃せって言うんですかい!?」
「そうは言ってないざんす。これだから脳筋は。そこで黙ってワタクシの『ビジネス』を見ているざんす。……ソルジャーウルクアレク」
自分の部下達を戒めたスーツの男ガンスが、アレクの前へと躍り出た。
アレクはロングソードの握りから、掛けていた手を離す。
「なんだ、キモち悪い髭の男」
「そう喧嘩腰にならなくても良いざんすよ。こちらは下調べでアナタの事も承知しているざんす。アナタ、そこの娘に金を貸しているざんすよね。ワタクシがその金の倍をアナタに支払うざんす。ウルフの異名を持つアナタなら、それで納得して頂けるざんすよね」
「そこの娘とはクサコのことか。うむ。確かにソイツには一万ルネの貸しがある。だがしかし、なぜお前がクサコが俺に払う金を、倍にしてまで俺に払おうとする」
「娘は弊社の商品。当然、社長であるワタクシにはアナタにルネを支払う責任があるざんす。金額が増すのはワタクシどもからの気持ちざんす」
「ふむ。イマイチ分からんな。そもそもお前らはなんなのだ。俺はお前らなんぞ知らんし、クサコの話なんぞどうでもいい。俺は今、腹が減っている。俺はヨーコの店に飯を食いに来た。邪魔をするな」
アレクはおもむろにカウンターへ座ると、周りから寄せられている視線にも素知らぬ顔でエリを呼ぶ。
「おい、ヨーコから金は貰ったか」
「えっと、その……まだだけど」
アレクへの返答するエリは、右手の甲にある猛牛の焼き印をもう片方の手で覆い、その両手を胸の前で抱えていた。
「嘘はついていないだろうな。俺への嘘はためにならんぞ。まあいい。それよりヨーコ、お前は何をしている。ボサっとする暇があるのなら、さっさと俺に飯を作らんか」
「ああ、飯、アタイはあんたに飯を作るのかい」
状況が飲み込めず、気のない口調でアレクの言葉をなぞったヨーコ。
空気が張り詰めていた酒場に、ぽっかりとした穴が開くが、そこに一人だけ、呆気に取られることもなく、油断ない気構えの男がいた。
指輪がハマる指で、にゅろんっと伸びる口髭を摘んだガンスは、なるほどと呟きアレクの背後へと迫る。
「ソルジャーアレク。ワタクシとの話がまだ途中ではなかったざんすかね」
「なんだ、ザンス男はまだ居たのか。俺はしつこいヤツはぶっ飛ばしたくなる男だぞ」
「そうおっしゃらずにソルジャーアレク。時間は取れせないざんす。いいや、どちらかと言えば、強く、そして賢い貴方だからこそ、ワタクシは話をするざんす。本当に優れた戦士は食事を待つささやかな間にも、思慮深く物事を考えているものざんしょ。だからこそざんす」
「ふむ。まどろっこしくてよくわからんが、賢い俺は飯が出て来るまでの暇つぶしに、ザンスの相手をしてやらんでもない。話を聞いてやる。とっとと話せ」
「流石はワタクシが一目置くソルジャーアレク。器が大きい男ざんす」
「ちょいとアレク、そいつの話なんて聞く必要なんてないさね。こいつらは奴隷商なんだよっ。エリを連れ去ろうとした連中なんだよっ。あんたらもいつまでアタイの店に居座る気だいっ、早く出て行きなっ」
アレクへ話を持ちかけるガンスの様子を見てヨーコがまくし立てるが、ガンスの部下の男達に追いやられてしまうばかりか、側に居たエリとも引き離されてしまう。
やれやれと肩を竦めるガンスが、カウンターに座るアレクの隣へ。
椅子に座ることはせず、代わりにカウンターテーブルの上に銀貨を二枚置く。
アレクは銀貨へ目もくれず、ガンスの細く伸びた口髭を観察していた。
「おい、髭ザンス。お前はクサコをここからさらおうとしていたのか」
「いえいえまさか。そこの娘はソルジャーアレクに一万ルネの負債を持つ娘。そんなことをすれば支払われるはずだったルネが、貴方の手元へ入らなくなるざんす。ワタクシは強くて尊大なソルジャーアレクを貶めるような愚かなことはしないざんす」
「うむ、そうだな。俺のクサコを勝手にさらおうとするヤツなど愚か者だな」
「そうざんす。賢いソルジャーアレクが愚か者など相手にする必要などないざんす。あの女店主などがまさにいい見本。商売人のようで、まるでビジネスを理解していない愚か者ざんす」
「おい、髭ザンス」
アレクの視線がガンスを突き刺す。
鋭い眼光を受け、女店主をダシにしたのはマスかったかと、ガンスは紫色のスーツの下で冷や汗を掻く――が。
「”びじねす”とはなんだ。新しい食い物か何かか」
「流石は一流の戦士ともなると、ワタクシにはない見識をお持ちのようで勉強になるざんす。それで、不肖のワタクシから持ち掛ける食べ物でない方のビジネスとは、貴方のような偉大な戦士に相応しい商談、いいや、一つの戦いと置き換えてもいいざんしょ。お互いの利益を賭けた戦いはもはや戦ざんす」
「ぬう。相変わらず髭ザンスの話は分かりづらいな。戦などと面倒そうな話なら俺は聞かんぞ」
「面倒は何もないざんす。ソルジャーアレクなら尚の事、戦いの勝利者こそが金品を手にするべき道理は、言わずとも分かるざんすよね。勝者は勝利の証として金を手にするものざんす」
「それは分かる話だ。だから俺のような強者は、掴むべくして金を掴んでいる」
「その通りざんす。貴方には勝利がこそが相応しい。その手に大陸中の金銀財宝を収めるべくして存在する男に違いないざんす」
ガンスのあからさまなおだてに、いつも以上に胸を張りうむうむと大仰に頷くアレクは、あからさまな気分の良い態度である。
「だからざんす。ワタクシが置いたこの銀貨も、かの英雄、伝説のルネスブルグ王に勝るとも劣らない貴方の手に収めて頂くべきざんす」
「そうかそうか。この銀貨はなんだと思っていたが、髭ザンスは俺に金を差し出したかったのだな。うむ。そこまで言うのなら、この二万ルネは俺が受け取ってやろう」
魔晶ランプで煌々と照らされる酒場。
アレクが手を伸ばすカウンターテーブルの銀貨はてかり、ガンスの瞳も光る。
「交渉成立ざんすね。では、そこの娘は、ワタクシどもが引き受るざんす」
「ぬ? 待て待て、髭ザンス。どうしていきなりクサコが登場してきた」
「絶対勝者のソルジャーアレク。貴方とワタクシは今、二万ルネ分の銀貨二枚と一万ルネの娘を天秤に掛け、ビジネスを行ったざんす。ビジネスでの強者、つまり勝利者はより多くの金を手にした者。当然、勝者であるソルジャーアレクは重
たき皿の物を手にし、敗者であるワタクシは損失を請け負わなければならないざんす」
疑念を抱かせる隙を与えまいとしたのだろう。ガンスの口はアレクが勝者であることを強調した。
ガンスの思惑が功を奏しているのか、アレクから、思考する素振りはうかがえない。
うかがえるのは、その口数の多さゆえ生き物のように動く、にょぱぱと伸びる口髭に心奪われている様子のそれだけであった。
「勝者であるソルジャーアレクには銀貨を。敗者であるワタクシは娘を。これがビジネスの勝敗ざんす。流石は勝利の女神に愛されたソルジャーアレク。勝利の証である銀貨を、自ら掴み取りその手に収めたざんす」
「つまり、俺が銀貨を手にする代わりに、髭ザンスがクサコを連れて行くということか」
「少々違うざんす。ワタクシは、無理にでも一万ルネの娘を請け負わなくても良いざんす。しかしその場合、勝者であり続けなければならないソルジャーアレクに、敗者の泥を被せてしまうことになるざんす」
「どうしてそうなる」
「繰り返すざんすが、ビジネスでは金額が多い方が勝者ざんす。二万ルネは勝者の金額、一万ルネは敗者の金額ざんす。ワタクシはすべての戦いでソルジャーアレクは覇者であるべきと考えるざんす。手っ取り早く言えば、ソルジャーアレクに損をさせたくないざんす。娘を手放さなければ大損も大損。大赤字ざんす」
ガンスは畳み掛けるように喋る裏で、部下にエリを連れて行くよう指示を出した。
ガンスの後ろでは、またもやエリが無精髭面の男から引きずられ、ヨーコが連れて行かせまいと奮闘する。
それでもやはり、華奢な女達の力では屈強な男達に抗えず、見るに耐えない客からの助けも、奴隷商の荒くれ者達が手にする鋭利な刃物の前では無力だった。
「うう、ヨーコさああん、ヨーコさんっ」
「エリーっ。いいのかいアレクっ。エリーが連れて行かれちまうよっ」
床板へ体を打ちつけたヨーコが、目に飛び込んだ戦士の背中に訴えた。無駄だろうと分かってはいても、瞳に映ってしまえば口が自ずと開くのだろう。
カウンター席で佇むアレクがゆるりと振り返ってすぐ、紫色の影がヨーコの視界に入る。
「そこの女店主は店の給仕がいなくなる損失を負いたくない為だけに、貴方を敗者の道へ引きずり込もうとしている愚か者。自分の都合でソルジャーアレクの利益を阻害しようとするなんとも厚かましい女。やはり、ビジネスのビの字も知らない、ただの馬鹿で間抜けでどうしようもない女だったざんす」
「だはは。わかるぞ。ヨーコは自分が馬鹿のくせに俺をどこか馬鹿扱いしているからな。うむ、髭ザンスの言う通り本当にマヌケなヤツだ」
二人の会話をすべて聞くまでもなく、ヨーコは外の闇へ姿を消すエリを追っていた。
その店を放置した店主と後へ続く店の客達を見送るガンスが、口髭を摘む手を懐へ運び、既にアレクへ渡してある銀貨とは別の銀貨一枚を取り出す。
カンスは銀貨を確認する傍ら、その指にハマる指輪を目視する。
金色の指輪には赤い石が埋め込まれていた。
「では、ワタクシもここからお暇するざんす。流石は名のあるソルジャーアレク。いいビジネスでしたざんすよ」
「そうか。なんか俺も悪い気はしていないな。それで、この銀貨はなんだ」
アレクへ渡された一枚の銀貨は、口止め料としての意味合いが見て取れた。
ガンスにとって奴隷商が奴隷の回収に取引きをした事実は、今後の商いの不利益になり兼ねない。アルクにむやみやたらと話を広めてもらっては困るのだろう。
「言わずとも、と思うワタクシざんすが、敢えて理由を欲するソルジャーアレクの気持ちも分かるざんす。そうざんすね。ビジネスとは戦い。戦いにおいて敗者が、貴方のような勝者の寛大さに触れ、感服し敬意を表わすなど、ままある事ざんしょ。その銀貨はそのようなものだと思って頂けるとよろしいざんす」
こうしてウーシーカンパニーを名乗る奴隷商のガンスは、自分の世辞で満足気なアレクを尻目に、閑散となるぱんだ亭を去るのであった。
それから、程なく――。
ぱんだ亭に残された形で居座っていたアレクの元へ、ヨーコと客達が戻る。
酒場の人集りにエリの姿はなく、駆けつけた街を警護する自衛団員が加わるだけだった。
肩を落とすヨーコに常連客は励ましの声を掛け、自衛団員は走り去った奴隷商の馬車の行方を伝えた。
だが、みなの心は連れて行かれたエリがもう戻らないと理解していた。
ヨーコや客達がいくら束になっても、戦闘の手練れ集団である奴隷商に敵わないのは火を見るより明らかである。
生死を分かつものであれば尚更、修羅場を知る者と知らぬ者の差を歴然と表わす。
ならばと、ヨーコ達が日々訓練で身を鍛える自衛団に頼ることは難しい。自衛団の本分が街を警護することにあるからだ。
馬車を走らせ、自ら街の外へ去って行った脅威に対し、積極的な対処を講じる必要性は乏しく、加えて奴隷商を追うとなれば、近隣の街や村へ出向く場合も想定される。他所へ干渉してしまう行為を極力避けたいのが、街の一組織であるプジョーニ自衛団の意向でもあった。
ぱんだ亭に否応なく陰鬱な雰囲気が広がる。
しかしその中にあって、酒場のカウンター席、三枚の銀貨を手にする男だけは晴々しい表情で上顎の尖る犬歯をさらけ出すのだった。
「おい、ヨーコ。そろそろ俺に飯を出せ」
アレクの傲慢な催促が酒場に残る常連客達の神経を逆撫で、乱されたテーブルや椅子を正すヨーコの足をつかつかとカウンターへ運ばせる。
「何をカリカリしているのだ。小じわが増えるぞ」
「あんたが――っ」
バンっとカウンターテーブルを平手で打ち鳴し、ヨーコが飲み込んだ台詞は『役に立たないから』。
アレクがいつものように奴隷商相手に暴れてくれていたなら、エリが連れて行かれることもなかった。だから、あの奴隷商の髭男も自分ではなくアレクに固執した。そう思ってしまうヨーコは、憤りの矛先をアレクへと向けてしまう。
彼女からしてみれば、目の前の男は自分の期待に応えられるだけの力を有していたのだ。その苛立ちは余計に強い。
けれどもそれは単なる八つ当たりであり、自身が唇を噛みしめるわけは、店主である自分がエリを守れなかった不甲斐なさからくるものだと知るヨーコに、続く言葉を口することなどできなかった。
「いきなりテーブルを叩いて俺を驚かすんじゃない。いや待て。そんなにビックリはしてないからな俺は。ビビったとかでもないからな。アレだ。うるさかったと俺は言いたいのだ」
「……アレク。あの髭男の倍の四万、いいや五万払うわ。あんた、あいつらから
エリーを奪い返して来ちゃくれないかい」
「今度はなんだ。いきなりなんの話をしている。無駄に変なヤツだな」
「エリー奪還の話だよ……。アタイからあんたへ、報酬銀貨五枚の依頼さね」
カウンターへ聞き耳を立てていた酒場の常連客一同が頷いた。
普段頭を下げたところで、平然と突っぱね足蹴にするような男も金が絡めば動
く。
そして、金が生きがいの男は剣術に秀でているわけでも、魔法が使えるわけでもないが、とにかくデタラメに強い。プジョーニ自衛団も手を焼くこの男の強さを持ってすれば、奴隷商だろうと恐るるに足らず。
ヨーコの機転に曇り模様の酒場が、見る見るうちに明るくなる。
「ほうほう。なるほどなるほど。賢くて強い俺に依頼か。ケチんぼのヨーコにしては、報酬が銀貨五枚とはえらく太っ腹だな。最近のヨーコ腹を見るようだ」
「アタイは子供を授かった覚えなんてないけどね。それでどうだい、引き受けてくれるのかい」
「うむ。断る」
周囲の予想を裏切るアレクの返答に常連客達がざわつくのであるが、断られて一番困るはずのヨーコは動じておらず、エプロンが巻かれる細い腰へ手を当て構える立ち姿に、落ち込む様子はない。
「気分屋というかなんというか、まったく困ったもんで、あんたらしいよ。で、アタイにはなんとなく分かんだけどさ、一応、どうしてアタイの話を断るのか知りたいさね」
「ん? 俺がヨーコの依頼を断る理由か。まず、面倒だな。そして面倒だな。クサコを連れて行った髭面共はもうどこかへ行ってしまったのだろう。賢い俺はアテもなくうろうろするような馬鹿なマネはせん。むしろ、俺にそんなことさせようとするお前が馬鹿だ」
「そうかい。あいつらの行き先に心当たりはあるんだけどねえ」
「ぐぬぬ、そうなのか……いや待て。例えヨーコに心当たりがあろうと、アレだ、俺がつまらん。面白くない。あの髭ザンスは既に俺に屈した雑魚だ。負け犬だ。俺のような偉大な男が相手にするには役不足だ」
依頼は受けぬぞ、とばかりにアレクは腕組み、ふんっと顔をヨーコから逸らす。
依頼内容が煩わしい、相手が自分に見合わない。まるで聞き分けのない子供が述べるよ
うなわがままな理由だと、酒場の常連客達がため息を漏らす。
けれども、ヨーコだけはただ呆れるのではなく、そこにアレクの性格を見ていた。
アレクは時に自治会の発注するモンスターの討伐依頼を受けるが、必ずしも受注するわけではない。
ルネの褒賞は大前提として、内容が長期に及ぶものや煩雑なものを断るばかりではなく、『興味が失せた』や『つまらん』などを口にしては、より好みをする。
今に始まったわけではない。アレクとは元から扱いづらい男なのだ。
そして――、
「じゃあ、やっぱりアタイからの依頼は断るんだね」
「クドい。俺は断ると言ったぞ。ヨーコの依頼なんぞ受けん」
意味もなく意固地である。
依頼を受けてしまうと負け。
この変人が抱いている考えを、数年の付き合いがあるヨーコはありありと感じていた。
こうなってしまうと、男の首を縦へ振らせるには一億ルネは積まないといけないだろうことを知っていた。
「それよりいい加減にしろよ。いつまで俺を待たせる気だ。早く飯を持ってこんかっ。今日はたまたま俺の機嫌がいいから、我慢なんぞと言うものをしてやっているが――おおっ、あそこにパンぱんだパンがあるではないかっ。あれを出せ、あれでいい、あれを食わせろっ」
アレクが身を乗り出し指差すカウンター奥の厨房には、ヨーコが後でエリと食べようと作り置きしていたまかない用の料理があった。
頑丈なカウンターでさえ、悲鳴を上げそうなアレクの勢い。
大切な店を壊されてはたまったものではない、とヨーコは渋々、アレクから見つけられてしまったパンぱんだパンを取りに移動する。
「大したものさね、あの髭男も……」
ヨーコの忌々しくも賞賛めいた呟きには、自分の依頼を断るアレクを手玉に取った奴隷商の男ガンスの顔が過る。
ヨーコの心情に構うことなくカウンターでは、今か今かとアレクが獣のような唸りを上げていた。
そうして、待ちに待ったパンぱんだパンを乗せる皿がカウンターテーブルの上に置かれ、獣が歓喜の声で吠えた刹那だった。料理が獣の前から引っ込められた。
カウンターテーブルから料理を取り上げたヨーコは、すかさず奥の厨房へ踵を返す。
「おいこらっ何をするっ、俺の飯を返せっ」
「アタイをコケにしまくったあの髭男、確か”びじねす”とか言ったかい」
アレクの声に追いつかれまいと駆けた勢いそのままで、ヨーコがパンぱんだパンを乗せる皿を調理台の上に置けば、側の棚から塩を入れた陶器が消えた。
「む、そうか、そういうつもりか。俺の飯を奪ったのは、さっきの依頼を俺に受けさせるためだなっ。ふん。小賢しいぞ、ヨーコっ。俺がそんなことでお前に屈するか馬鹿者め。今すぐソイツをよこせ。今すぐ返せっ。さもないと暴れるぞ。いいのか、店の風通しがかなり良くなるぞ。それでもいいんだな。おいこらヨーコっ、俺の話を聞いているのかっ」
今のヨーコの耳には遠いのか、背後では食事のお預けをされたアレクによって、ドンやガンといった大きな音を立てテーブルが叩かれていたが、まるで聞こえていないような仕草でカウンターからの訴えを無視する。
「なら、アタイの”びじねす”とやらを見せてやろうじゃないかい」
それは女店主の、店を賭けた覚悟が宿る言葉だった。