君に手を伸ばせば
君に手を伸ばせたら。
時が水のようにただ流れ続ける毎日。
変わることのない日々が僕に雨のように降り続けている。
高校生になっても、ただ通う距離が長くなったとか、学校の授業が難しいだとか、そんな些細な変化だけであって、僕の人生を大きく変わるようなことなんてなかった。
退屈だとは言っていない。
それなりに友達もできた。
行事があればそれに全力で力を注ぐような男じゃなかったけれど、それなりに楽しむことはできた。
でも、それが僕の人生の分岐点となることもなく。
ずっと地平線が見えるんじゃないかと思えるほど、舗装された真っ直ぐな道であった。
大学を出たあとは、それなりの会社に就職して、老いれば動かなくなって天国に召されるまで待ち続けるのが容易に想像できた。
だから僕は変化が欲しかった。
帰りの道で僕は信号で歩みを止めていた。
目の前に駅があり、大きなスクランブル交差点では向かい側でも人々が信号が青になるのを待っていた。
そんな時、横に人の気配を感じる。
イヤホンをしている僕では周りの音なんてあまり拾えず、たとえ後ろから迫ってきた人に突き飛ばされても、そうされるまで気づかないだろう。
だから横に並ばれてからようやく視界の隅に入って気付く。
だけど、僕は横にいる女子が誰なのか、視界の隅に入っただけで判断できた。
その人は僕のクラスの鈴原友里恵という女子で、今は隣の席である。
信号が青になって僕は歩き始める。
彼女も歩き始める。
後ろからも帰宅途中の生徒やサラリーマンが大勢いるのに、僕と彼女はほとんど歩幅が同じで歩くペースも同じだった。
そして改札口を通って、電車に乗り込むと僕と彼女は同じドア付近で立つ。
これも毎日の出来事の一つだった。
手で届く距離にいる。
入学してから僕は恋人が欲しい、という些細な願いを持っていたのは言うまでもなく存在した。男子なのだから仕方のないことだ。これは女子にも言えることなのか僕にはわからないけれど、とにかく変化が欲しかった。
だけど、高校生活が後半に差し掛かると、受験生になる僕たちではもう恋人を作ろうなんて考えるよりも、大学生活に思いを馳せるほうがまだ希望が残っていた。
だから、どんなに目の前にいる女子が好きだと思っていたとしても、今更ながら告白する勇気は僕の中には存在しなかった。
手は伸ばせない。
クラス内で席替えが三度もあったのだけれど、僕は彼女と隣同士になるのが今回で初めてではなかった。
一度目も二度目もまるで運命のように席は隣同士だった。
だけど、一度も会話をしたことがなかった。
彼女はクラス、いや、学校内でもそれなりに上位に入るような可愛さを持っていた。美人というよりは美少女に近い。だけど、それなりに告白もされているようで、そのたびに断っているようだった。
そんな彼女を僕はいつの間にか知らないうちに目で追いかけていた。
彼女は基本的に無愛想だった。
だけど、たまに友達と微笑んでいるところを見ると、鼓動が高まる。
そんな少女が目の前にいる。
でもそれだけだった。
窓から見える風景を見つめるだけ。
彼女は僕とは無縁の存在だから。
彼女は目の前からも消える。
同じ駅で降りるのだけれど、その後僕は東口へ。彼女は西口を出ていってしまう。
それが毎日だった。
変わることのない毎日。
そんな一日が今日も過ぎ去っていく。
僕は良く本を読んだ。
本の中の世界では、人々が僕と違って毎日新しいことに触れていた。
毎日が楽しくもあり、悲しくもあり。
そんな世界であったら、なんて子供じみた考えを思い浮かべてしまう。
だけど。
だから小説が好きだった。
そんな僕はある本を手にした。
白のカバーでシンプルなデザインである単行本をレジに持っていく。
迷いはなかった。
その本は昨日彼女が読んでいたからだ。
そんな理由で本を買うなんてと思うかもしれないけれど、何を読んでいるのか知りたかったんだ。彼女がどんな世界を見ているのか知りたかった。
その本は恋愛小説だった。
短編集で、高校生の男女の馴れ初めを語った話が集まっていた。
僕はその本にすぐに乗り込めた。美しい情景が思い浮かべられて、主人公の気持ちを理解できた。いや、自分と重ねることができた。
その中でも最後の短編が良かった。
どこにでもいるような高校生の女子が主人公で、ある男子のことが好きだった。
でも、その男子はいつもその主人公のことを気にすることなく、退屈そうな日常を送っていた。声をかけようとしても、彼は人を寄せ付けようとはせずに、クラスでも一人でいることの方が多くて、か弱い主人公では声をかける勇気なんてなかった。
そんなある日、彼女はその男子が本を読んでいるのを見かける。彼女はそれが気になって自分も購入する。その本は同じく馴れ初めをテーマにした小説で、主人公はまるで僕のようにその話に共感して、そして意を決して声をかけるのだ。
『私、好きだよ、この本』
「この本、良いよな」
僕はこの本に助けられたと思う。
ようやく主人公は彼に声をかけることができた。
それは僕も同じだった。
彼女は僕の言葉を聞いて、嬉しそうな顔をしてくれた。
「うん、私も好きだよ、この本」
今まで見たこともないような満面な笑顔で、僕は自分の頬が赤くなっていくのを感じた。
こうして僕は彼女と本を一緒に読み合う仲となる。
でも、これが最後とはならない。
小説では主人公が声をかけた後、彼は口にする。
『ありがとう』と。
その言葉の意味が未だによくわからずにいた。彼女たちはそのまま仲良くなって主人公から告白しようという意思が僕たちに明かされて終わる。たぶん彼女たちは付き合うことになったんだろうけど、でも『ありがとう』という意味だけは僕にはわからなかった。
だから彼女にこのむずかゆさを話すと、笑みを浮かべて彼女はこう言った。
「小説は現実でも起きることがあるんだよ。もう一度よく読んでみて」
彼女は僕が買った本を開くのではなく、自分のバッグから単行本を出す。とそう思えば、何やら原稿用紙を机に出す。そして彼女は読んでみてと言った文を指差す。
『図書室で彼が一人でいるとき、参考書を開くこともなく、ただペンを走らせていた。遠くからそれを覗き込んでも、いったいそれが何なのか私にはわからなかった』
その一文を読んで僕はハッとした。
そして彼女を見つめた。
彼女も僕のことを見つめていた。
ただし、僕は驚きを隠せない顔をしているのとは違って、彼女はまるでどっきり大成功とでも言いたいのかと思うほど、口元を抑えていた。
ようやく落ち着いた彼女はこう言った。
「ありがとう。――この本を好きになってくれて」
あまり難しい話にはしたくなかったので、最後の部分も二人がなんとこうなるだろうな、とわかるような言葉を入れてみました。
こういうことがあればいいですよね。