窓
辺りはすでに真っ暗だった。
暗い廊下は消防ランプのかすかな赤い光が遠くに見えるのみで、電灯はひとつ残らずすでに切られてしまっている。今日は新月なのか、普段ならわずかな月灯かりくらい取り入れるはずの窓も、ただの真っ黒い絵画と成り果てていた。
突き当たりの教室から見る暗い廊下は、どこまでもどこまで闇の中へと続いているようで、杉下はその光景を見て小さく息を呑んだ。
今、背後の教室の電気を切ってしまえば、自分はこの闇の中に放り出されてしまうのだろう。
こんなことならこれほど遅くまで、自分ひとりで学校に残るんじゃなかったと思ったが、今更そんなことを思ったところでどうしようもなかった。
「……技術室じゃなけりゃ、なぁ」
ただの暗闇ならば慣れている。部活で遅くなって暗い中帰るのも、学校に物を取りに入るのもいつものことなのだから。
しかし今日は違う。いつも一緒に学校に入るはずの友達はいないし、何より今いるのは普段なら絶対来ることのない旧校舎の教室だ。
そう。ここが旧校舎だ、ということが彼の恐怖をことさらに煽っていた。
「杉下君?」
「っ!」
電気を消すのを躊躇していると、突然暗闇の中から自分の名を呼ばれた。
思わず体を強張らせて振り向くと、すぐ横手の階段の上から見知った少女が降りてくるところだった。
それを見て、緊張と恐怖が一気に抜ける。
そこにいたのは去年同じクラスにいた少女だった。
「せ、瀬野か」
「どうしたの、教室の前で立ち止まって」
そう聞かれ、思わず黙り込む。まさか怖くて電気が消せなかっただなんて言えるわけがない。それも女の子に。
なんと言い訳したものか言いよどんでいると、不意に瀬野が小さく笑った。
「もしかして杉下君、旧校舎のあの噂信じてるの? だから電気を消すのが怖くてそこに立ってたの?」
「っそんなわけないだろ! あんな馬鹿馬鹿しい噂!」
まさか自分があんなくだらない怪談話を怖がってるなんて、目の前の少女は平気そうに笑ってるのに自分が怖がってるなんて、そんなことを知られたら明日から間違いなく学校で笑いものにされる。
怒鳴るように言い返すと、暗闇なんて怖くもなんともないと言わんばかりに背後の教室の電気を勢いよく消した。
瞬間、彼らを照らしていた唯一の光は消えて、辺りは先ほどまで杉下が見つめていた闇へと同化する。
闇に包まれてほんの少しだけ恐怖が舞い戻ってきたが、隣に瀬野がいるせいか、それほどもう怖くはなかった。
誤魔化すように呆れたような表情を浮かべてみせながら歩き出す。
瀬野は微笑を浮かべたまま、杉下に一歩遅れて歩き出した。
「そもそもあの噂、矛盾してんじゃん。夜に旧校舎の廊下を歩いてると、渡り終わるまでに幽霊に連れてかれるっていうの」
「違うわ、正確には夜に旧校舎の廊下を歩いてると窓の外にいっぱいに幽霊がいて、それを見た人は窓の外に連れ出されて幽霊の仲間入りをするって噂」
「似たようなもんじゃないか。
見た人がみーんな幽霊の仲間入りするってんなら、そもそもこんな噂広がるわけないんだよ。みんないなくなるなら誰がこの噂を言い出したんだってハナシだよな」
「ほんと、なんでみんなこんな噂を信じるのか不思議よね」
心底不思議そうにいう瀬野に、杉下は力強く頷いて同意した。
そんな馬鹿馬鹿しい話を、ありえもしない話を怖がるなんてどうかしている。
「だいたい幽霊なんているわけないのにな」
「そんなことないわ」
「はぁ? さっきまで瀬野だって馬鹿馬鹿しいって言ってただろ」
突然意見を変えた瀬野を、杉下は睨むような目で見つめた。
さっきまで明らかに噂を馬鹿にしていたというのに、幽霊がいるだなんて何を言っているのだろうか。
杉下の言葉に瀬野はまた微笑を浮かべて、口を開いた。
「馬鹿馬鹿しいとは言ってないじゃない。ほら」
そう言って笑みを浮かべたまま窓のほうへと視線を向ける。
つられ、杉下も同じ方向を見て――
「ッ!!」
声にならない引き攣れた悲鳴を上げて固まった。
そこには人の顔があった。廊下の端から端まで、ずっと続く窓に張り付くように様々な人の顔があった。
けして人が並んでいるのではない。暗闇の中でもはっきりとわかるほど土色の顔が、窓の上から下まで、まるで生首が敷き詰められているかのように何十何百と並んでいたのだ。
どの顔も気持ち悪いくらい青く、黄色く、白く、生きた人間の肌をしていない。白く濁った瞳も表情の抜け落ちた顔も生きたものではないのに、全員が自分達へと顔を向けていた。
「うわあぁあぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!」
まるで喉が張り裂けるような叫び声を上げて、杉下はその場から走り去った。どこまでどこまでも闇の代わりに顔が続くその廊下を、恐怖で顔を引き攣らせながら一心不乱に駆け抜けた。
その後姿を、瀬野は一人佇んで不思議そうに見つめていた。
「怖がらなくていいのに」
そう呟いて、再び窓へと視線を移す。
そこには窓の向こうから自分を見る顔たち。男、女。老人、子供。ありとあらゆる死人の顔が、無表情ながらも強くじっとこちらを見つめていた。
何を言うでもなく、するでもなく、ただただじっと。
「ただ、見てるだけなのにね?」
微笑を浮かべ呟いた言葉は、暗い廊下に響いて消えた。