Dの意味
「なぁ……ここで何日過ごすんだっけ?」
「一週間……ぐらいかな」
「いくら何でもこんなところで過ごすのは気が引けるな」
「私としては、お風呂さえ入れれば文句はないのだけど」
「風呂よりも寝所を先に探さないと……」
「お・風・呂・が・さ・き!」
「……はい」
城勇人、朝燈御紗の二名が立っているこの場所。そこは、スラム街や隠れ蓑、クズの吹き溜まりなど、様々な名称で呼ばれていた。しかし、政府によって正式に付けられたその名は『D地区』。このDが意味するのは『ゴミ捨て場』ではないかと、長い間まことしやかにささやかれていたが定かではない。
D地区には日本各地から集められた支援物資と称された不用品――残飯や捨てられた家庭用品――がまとめて送られている場所で、同時に無法地帯化としている。D地区設立時には経済的に自立困難の人を移民させて援助をしてたらしいが、その援助に釣られて悪いものがD地区に入り込んだようだ。生活に困った人間や身寄りのない者が支援を求めて入ってくることは何の問題もないが、過去に犯罪歴を持った人間が蓑隠れのために集まるようになってからは、自治組織のない荒れた場所となってしまった。それはもう見るも無残な姿だった。そのためかD地区は昔から問題が絶えない。日本国政府はD地区内で起きていることに関して無干渉の方針を取っている。誰が存在し、誰が消えたのかを把握できないからだ。
そんな危なっかしい場所に放置した神谷は、警察の手が及ばないことを考えてのことだろうが、俺たちにとってD地区のような荒れた環境で一週間はきついものがある。一週間どころか一ヶ月は遊んで暮らせるぐらいの金額をもらったが、このお金をどこでどう使うのか教えて欲しい。辺りは見渡す限りのゴミの山。足下は当たり前、横を向けばゴミの壁が眼前にあることも珍しくない。例えるならばゴミの要塞だ。店らしき建物はどこにも存在しない。こんなところで平然と店を出しているのも奇妙な話だが。
「あっちで人が集まってるみたい。行ってみない?」
少し離れたところで小さな群がりが出来ていた。
「どうしたんですか?」
朝燈の問いを人々は無視する。横目で視線だけ送ってくる者もいたが、手の動きを休めることはない。年齢は子供から年寄りまで様々。だが全員に共通することがあった。色落ちしたぼろぼろの衣服や擦り切れたスニーカー、左右違う靴の者。素足の者さえ少なくはない。時が経つにつれ、徐々に人が減っていく。そして人々が群がっていたものの正体があらわになる。
「これって死体……なのか?」
「そうみたい。たぶんこれ……事故じゃないわ」
ゴミの山で横たわった半裸の死体。喉には鋭利なもので切り裂かれた痕がある。先程の群がりの原因はこれだ。生活に困った人々が金目になりそうな物を漁っていたのだ。死体荒らしも異常だが、それを止める人間がいないというのも恐ろしい。犯人を探すことよりも金品を漁る方が大事なのだから、殺人も珍しいことではないのだろう。
「ネーチャンたち、外から来たんだろ?」
不意に話しかけてきた少年は、その小さな体には不釣り合いなぐらい大きいコートを来て、顔を隠すように帽子を深く被っていた。
「外って何のこと?」
「あの壁の向こうだよ」
少年が指差した先にあるのは、D地区を覆う高く分厚い壁。
「どうしてそう思う?」
「臭いだよ、臭い」
驚いた様子の朝燈に、自慢げに胸を張る少年。俺は我慢できずにため息をつく。
「なわけあるかよ。死体を見つけたときの反応、話しかけられたときのちょっとした仕草。第一に衣服が綺麗すぎる。違うか?」
少年を撫でまわすように歩くと、少年は後退りをする。
「ご名答! ニーチャンやるね」
「ついでに俺達の荷物も返してもらおうか」
「あれ? もしかしてばれてた?」
「ねぇ、勇人。何のこと?」
何のことかわかっていない朝燈は、俺と少年を交互に見る。少年は「参ったなー」と、呟きながら悪びれる様子もなく、懐から俺たちの金銭が詰まった茶封筒を取り出した。
袖に入れたところをたまたま見ただけで、盗られたことにはまったく気付かなかった。運が良かったのか悪かったのか分からない。
とんずらかますのかと思いきや、素直に投げて返してくる。
「で、僕をどうする? ここには警察はいないよ?」
どうせ都合が悪くなったらすぐ逃げるつもりなのだろう。先ほどから俺たちが近づこうとすれば距離を置こうとするのがいい証拠だ。
「朝燈さんはどうしたい?」
「朝燈さんって何よ、呼び捨てでいいわ。私としてはお金は戻ってきたし、どうでもいいのだけど」
「おい、少年。ここらは詳しいのか?」
「少年……ね。生まれも育ちもここだよ」
「なら決定だ。一週間、俺たちのガイドをやってくれよ。給料は出すからさ」
微妙な言い回しをする少年だったが、俺はそんなことを気にせず自分の提案に満足していた。
少年はお金が欲しい。俺たちは地形を知りたい。どちらが損をすることなく得をする。うん、我ながらいい案だ。
朝燈の顔色をうかがうも、文句はなさそうだ。
「それいいね。じゃあさっそくだけどさ、今晩泊まるところはもう決めた? 夜ほど危ない時間帯はないからね」
少年の足取りが急に軽くなった。スキップまでしている。そんな子供らしい仕草に、俺達は自然と笑いが込み上げてくる。ここに来てから初めて笑った気がする。まさかこんなゴミだらけの場所で笑うとは思ってもいなかった。
少年に置いていかれないようについていく。それに比例して死体との距離も遠のいていく。あの死体は確かに新しかった。きっと犯人はまだ近くにいたはずだ。
すべては『ここでは当たり前の風景』で済まされてしまったが、次は自分達が狙われるのかもしれないという恐怖が残っていた。それは新参者である二人に対しての警告だったのかもしれない。どのみち、二人の頭の中には死体のことなどこれっぽっちも残っていなかった。
「鍵がないってどういうことなの?」
朝燈が困惑しながら少年に詰め寄る。確かに鍵は必要だ。寝てる間に金品を盗られない保証はないからな。もしかすると命の心配をしないといけないのかもしれない。
「だから、鍵付きの高級ホテルなんてないってことだよ。ここらで一番いい寝床はここしかない。でもここは最高だよ? 雨や風を凌ぐことができるし、個室があるのはここだけだ。僕が保証するよ」
外で寝泊まりをする心配がなくなったことは喜ばしいことだ。地下に作られた宿泊施設は、木の板や何かの看板で寄せ集められた壁が構成されていた。どれだけ非力なやつでも殴ればたやすく壁を破壊することができそうだ。
「でも鍵がないと安心できないわ。別々の部屋が良かったところを妥協して相部屋にしたのよ」
付き合ってもいない男女が同じ部屋で寝ることは世間体からしてみればあり得ないことだ。部屋が足りていれば別々だったことだろう。しかし、今は朝燈が百歩譲って相部屋になった。跳ねて蹴って斬りつけたりする彼女だって年頃の女の子なのだ。彼女だって苦渋の決断だったに違いない。これは期待に応えなければ。
「二人いるんだし、交代で寝ればいいんじゃないかな?」
「それしかないようね。スリの少年はどこに泊まるの?」
「僕のことは弥生って呼んで。適当にそこらで寝るさ。いつものことだしね」
「ふーん、私は寝るわ。精神的にとても疲れた気がするの。四時間交代で先に見張りよろしく」
彼女は俺の返事を待つことなく、体を抱え込むようにして横になって寝てしまった。
「ニーチャンはネーチャンの彼氏なの?」
「おまっ、そんなこと朝燈に聞くなよ? まだ出会ったばかりで、成行きでこうなっただけだ」
「へー、こんな綺麗なネーチャン、逃がしたらバカだよ?」
「俺には勿体無いさ」
俺には彼女どころか友人でさえ少なかった。知り合いと呼べる人ならいたが、俺はそんなに社交的ではなかったために一人でいることが当たり前になっていた。友人が欲しいとは思ったこともあるけど、それは両親がいなくなった中学生初期の話で、今は一人でいることも苦ではない。唯一仲の良かった友人、櫻屋はもうこの世にいない。彼の馬鹿な発想から生まれる奇想天外な行動には度肝を抜かれたが、彼と話している時は確かに楽しかった。
「なぁ、ニーチャン。明日はどこ案内して欲しいんだ?」
「……あぁ、そうだなー……まずは飯を食う場所だ。そのあとは、何かぶらぶらしたいな。適当に案内してくれよ」
「オッケー! それで、給料のことなんだけどさ、どれくらいもらえるのかな? 」
ホテルがシャワーと寝床で一人千円という格安の値段だったから、ここは壁の向こうとは違って物価が恐ろしく安いのだろう。
「希望とかあるか?」
「んー……こんくらいかな」
少し控えめに右手の人差し指と中指を立てる。
「二千円?」
弥生は慌てて首を振る。
「いやいや、とんでもない! 二百円だよ! 高すぎたらもっと減らしてもいいんだよ? でも一日中付き合うわけだし少しくらい……」
「五百円だ」
「え?」
「一日五百円の一週間契約だ。ほら、今日の分」
「こんなにいいの? しかも一週間で? ありがとー!」
五百円玉を握りしめて喜ぶ姿がとても幼く見えた。
これほどまでに喜ぶのだ。ここでは物価が恐ろしく安いらしい。
「明日の朝になったら迎えに来るよ! それまで生きててね、ニーチャン」
「不吉な別れ方するなよ……」
弥生が去り、残すは俺と熟睡中の朝燈だけとなった。
D地区の夜は不気味なまでに静かだった。時折、ドアの隙間から差し込む風が物音を運んでくるが、それは車が走る音や人の話し声ではなく、ゴミの山が発する耳障りな音だった。
「暇だ……」
今の心情を表す的確な一言だった。
ゲームがない。テレビもない。スマートフォンも警察から逃げ際に置いてきてしまった。ただひたすらじっとするしかないのだ。精神的に疲れてきた。
独り言を聞かれていないか朝燈を横目で確認する。そして俺は、起きている彼女が絶対に見せることのない無邪気で無防備な寝顔に目を奪われた。
微かに開いた口から小さな吐息が漏れ、呼吸に合わせて胸が上下する。学校で常に女子の胸を見てたわけではないため詳しいことはわからないが、年の割には大きい分類に入ると思う。丁寧に手入れされたストレートで艶のある栗色の髪からは、桃のように甘く、夏みかんのように酸っぱい香りがした。
もっと近くで感じたい。そんな衝動に駆られるが、俺の理性がぎりぎり止まらせる。
女子に触れることは愚か、話しかけることすらためらってきた俺のすぐ側で、年頃の女の子が寝ている。
普通のことであるように一緒の部屋で寝泊まりしているが、いざ意識すると急に緊張して体が強張ってしまう。
朝燈が寝返りを打つと、少し慌てながらも離れる。自分でも知らぬ間に体が動いていたようだ。
彼女は見計らったかのようなタイミングで目を開けると、眠たそうに呟く。
「コンタクト外すの……忘れちゃった……」
小さな容器に透明の液体を注ぎ込み、外したばかりのコンタクトを漬ける。そして少し離れたところで固まっている俺に気づいた朝燈が深紅の目をこちらに向け、声をかけてくる。
「あれ? もう交代の時間?」
「いいや、まだだ」
「ん、そう」
時計を確認せず、長い髪に気を遣いながらベットに倒れ込むと、そのまま再び眠りへと落ちていった。
実際のところ、すでに交代の時間は過ぎていたが、いっこうに眠気がやってこないせいか、交代を告げることができなかった。
「あぁ、眠たい……」
あくびをしながらそうつぶやいたのは、日が昇り始めた頃だった。