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絶対に明日は二度来ない  作者: 結城蒼生
2/8

RUN AWAY

「行ってきま……またかよ……」

 誰もいない玄関に俺の声だけがむなしく響き渡る。

 返事をしてくれる人はいない。そんなことわかってるはずなのに……。

「ばーか」

照れ隠しに小さくつぶやくと、苦笑いして家を出る。

 三年前、俺の両親は揃って他界した。両親が生前何をしていたのかは知らないが、とにかく裕福な暮らしをしていた。両親は俺に莫大な財産を遺して死んだのだ。

 でも俺は信じなかった。

 安っぽい笑顔しかしていなかったが、言うことに間違いはなかった父親。そんな父親を側で支え続けた生真面目な母親。

その二人が同時に死ぬなんて……。

 両親の死を俺に伝えた親父の親友だった神谷志星かみやしせいは、事故の内容は教えてくれたが、両親の死体には会わせてくれなかった。遺産の相続は神谷の仲介によって事なきを得たが、俺の心から何かが欠けた。そして三年が経ち、心の傷は癒えたともではいかないが順調に回復しつつある。しかし『家には家族がいる』という感覚だけはいまだ抜けない。自覚症状があるのだとすれば、独り言が多くなった気がするということだけだ。

 いつもは神谷が俺の生活を見に家に来るのだが、今日は用事があったのか、珍しく来ることはなかった。そのせいもあって、スマートフォンを忘れたことに家を出てから気付く。いつもならめんどくさがってそのまま登校するのだが、その日に限って取りに戻った。

 時は八時十分。普段より五分遅れ。

 その五分が遅刻するだけでなく、もっと大きい何か(・・)を狂わすことになるのを、その時の俺はまだ知らなかった。



 初春の心地好い風を堪能しながら……なんてわけにはいかなく、見慣れた風景に目もくれずに全速力で自転車を走らす。

 バス代節約のため自転車通学を高校から始めたが、これが思ったよりきつく、やっとの思いで学校に着いたが五分オーバーの遅刻だ。

 どうせ玄関は閉められてるんだろうと半分諦めつつ残り半分の奇跡にすがる思いで取っ手に手をかける。

 扉は鍵がかかっているときの耳障りな金属の摩擦音を立て――ることなく、静かにスライドする。

 心の中で歓喜の叫びを上げながらガッツポーズをする。

 本来ならば、遅刻をしても報告しない生徒がいるため、防止策として職員室で遅刻届けを書いて、教室に入る際には担任に入室届を出さなければならないのだが、一年A組――つまり俺のクラスの担任は朝のホームルームに決まって遅れて来る。教師が教室に入る前に俺は自分の席で座っていればいいのだ。

俺は何の迷いもなく真っすぐ自分の教室へと向かった。途中、教師に見つかりさえしなければ俺の勝ちだ。

 このとき、しっかりと校内ルールを守っていれば、あるいは周りに関心を持っていれば気づくことができただろう。

 職員室どころか、校内のどこを見渡しても人がいないことに。

しかしそんなことよりも重要なことがあった。足の疲労である。

 一年生という理由だけで最上階に教室を作るのはおかしいと思う。学校見学に来た中学三年生に悪印象を与えるからだ――などと、文句をぶつくさ言いながら六階までただひたすら階段を昇る。若干息切れを起こしながら教室の後ろから入るが、誰もいない。黒板に張られた連絡用紙にはただ一言。

『全校生徒・職員は第一体育館に至急集まること。来なかったものには厳罰が下る』

 俺の通う漆原高校は、県内でも有数の進学校であるため欠席はおろか、遅刻すらしないのが当たり前の学校だ。休めば大量の課題が出され、遅刻した者には罰則が与えられる。平気で遅刻するのは俺ぐらいなものだろう。担任あってのものだが。

遅刻は来なかったに入るのだろうか? 怒られることに変わりはないのだが、ついついくだらないことを考えてしまう。

「これが現実逃避ってやつか……」

 独り言をいうくせはないのだが、周りに誰もいないことから気が抜けて自然と口が緩んでしまう。普段人の目を気にして自然な感じで階段を下りる俺も、今日ばかりは視線を気にすることなく、体の中のバネがはじけたように二段飛ばしで軽快に下りる。

 いつもなら購買のおばちゃんが笑顔で手を振ってくれるのだが、何らかの用事でいないのか、カーテンを閉めきっている。おばちゃんと談笑することが学校での密かな楽しみの一つであったから少し残念ではある。

 無人の購買を横切り、ミシミシいう床をつま先小走りで駆け抜けると、ついに体育館の入り口へとたどり着く。しかし、いざ入ろうと思っても足が動かない。鬼の生徒指導部長が待ち構えてると思うとこのまま帰ってもいいような気がする……が、ここまで来たのなら男として行かなくてはならない。

 意を決して引き手に力を込める。そして俺は後悔をした。どうせ長々と説教をされるのであればトイレに行って用を済ませておけばよかったと。

そんなばかばかしい考慮も一瞬で無意味となる出来事が起こる。

 不意に胸を軽く小突かれた気がした。呆然としながら手でブレザーの上から胸を探ると、冷たくてぬるぬるしたものがワイシャツを濡らしていた。

視線をゆっくりと自分の胸へと向けようとすると、視界が真っ暗になり、体でバランスをとるのが急に難しくなる。上下が反転したような感覚に襲われ、そのまま背中から床へと倒れこむ。

「死にたく……ない……」

 最後に頭の中で浮かんだのは死に対する純粋な意思だった。

 死ぬ瞬間には走馬灯を見るというが、そんなもの(しび)れるような痛みで吹き飛んでしまったようだ。

 やがて痛みは無へと変わり、俺はあっけなく死んだ。



「……あれ? 何してたんだっけ?」

 気付けば扉の前で足が止まっていた。階段を昇って息切れをしていたはずだが、呼吸はすでに落ち着きを取り戻していた。いったい何分間扉の前で立ち尽くしていたのだろうか? 周囲から見ればさぞ滑稽こっけいだったことだろう。

「まっ、いっか」

 さほど気にすることもなく教室に入り、視界に留まった黒板に張られた連絡用紙を一瞥いちべつする。

『全校生徒・職員は第一体育館に至急集まること。来なかったものには厳罰が下る』

 それといった反応もせずにかばんを自分の席に放り投げると、廊下の端にある便所に向かう。

 俺にとって学校行事よりも用を足す方が重要事項だ。それに、体育館に往っても生徒指導部長に説教されるだけだし、早く説教されるか少し後がいいかと聞かれれば俺は間違いなく後者を選ぶだろう。誰だって嫌なことからは逃げたくなるに決まっている。たぶん。

不気味なまでに静かな便所に長居するのも嫌だった俺は、物の数十秒で済ませて指示された体育館を目指す。

「おっ! シロちゃ~ん、ハロハロー」

 体育館前の渡り廊下でとある幻覚を見た。俺は当然のように無視する。

 触らぬ神に祟りなしとはこのことだ。

「シロちゃ~ん、ひどくないっすか~?」

 当たり前のように窓から侵入し、かつそれを気にした様子を見せない不法侵入者。俺の悪友、櫻屋さくらやだ。

「お前なー……堂々と遅刻してんじゃねーよ」

「いーっしょいーっしょ。気にしたら負けだぜ? で、どこ行くとこだったの?」

「体育館、全員強制らしい。このままお前も行くぞ」

 どうせ生徒指導部長に怒られるんだ。なら馬鹿でもいいから味方がいるほうが心強い。

「えー、かばんがー……まっ、いっか。いくならドーンと派手にいこうぜ」

 桜屋のバカに付き合わされてるせいで俺に対する教師からの評価はがた落ちだ。俺は日々、こいつは知的障害なのでは? と疑問に思っていたが、頭に脳が入ってることさえ危ういので、いつ脳神経外科に連れていってやろうか検討中だ。

 素直に怒られる覚悟をしていたのに、桜屋のせいでプラスα怒られることになるのはごめんだ。慌てて止めようとする。

「ちょっ、待っ……」

 しかし、俺のストップも間に合わず、櫻屋は体育館の扉を勢い開け放つと、両手を広げて何かを叫ぼうとした。息を吸い、吐き出そうとしたその瞬間、何を思ったのか、一言も発することなく床に倒れる。

「おいおい、それで派手にやったつもりか? そんなんじゃ誰も気づか……櫻屋?」

 櫻屋の虚ろな目は虚空を見つめていた。足元の床一面に赤い液体が広がっていく。いつもすぐ近くあるものだが見る機会が極めて少ない『血』だ。

「おい! 櫻屋! 目を開けたままにするんだ。眠ったらだめだ!」

 目を開けてドッキリでしたーなんて展開がないのは、左胸に刺さったナイフと出血を見れば馬鹿でもすぐ分かる。

 震える手に力を入れて落ち着かせると、冷静に状況を分析する。このおびただしい量の出血は櫻屋が瀕死ということを表している。櫻屋の衣服を脱がし、傷口に押し当てる。そして警察と救急車を呼ぶ。警察に電話すると、電話の向こう側にいる丁寧な話し方の男は俺の話をあっさりと信じ、近くの警察官を回してくれると言った。

 ピリピリと周囲に神経を張り巡らしながらいたが、いつまで経っても救急車のやかましいサイレンの音は聞こえてこない。櫻屋の脈が小さくなっていくことに焦りといら立ちを覚えながら救急車を待つ。

畜生ちくしょうがっ!」

 拳で思いっきり壁を殴る。表面が擦り切れて血がにじむが、不思議と痛みは感じなかった。死と戦っている櫻屋を思えば何にもできない自身が歯がゆくてたまらない。

「しっかりしろよ櫻屋! 死ぬなって言ってんだろ!」

そして櫻屋の脈は微動だにしなくなった。

 俺の悲痛な叫びもむなしく、櫻屋は死んだ。

初めて死というものに直面し、思ったことは「あっけない」だった。長い年月を生きてきた人間がこうもあっさり死んでしまうことに驚いた。次は自分かもしれないと思うと、恐怖に胸が押し潰されそうになる。

「なら……やられる前にやってやる!」

 櫻屋に刺さったナイフを丁寧に抜き取る。血は思ったほど出なかった。それもそうだ、血液を送り出す役目を果たしていた心臓はもう動いていないのだから。

 本来なら、警察を呼ぶ前に逃げることを優先するべきなのだろうが、今の自分には何かに頼ることしかできなかった。そして、冷静という言葉は恐怖に押しつぶされ、自ら脅威を消し去ろうという異常な考えに走ってしまった。

 まずは入り口周辺を警戒する。開けた瞬間襲われたのだ。入り口周辺に潜んでる可能性が高い。死角を警戒しながら体育館に足を踏み入れる。だが犯人らしき人物は見つからない。

 いや、いた。

 ステージの上に座る、金髪頭でサングラスをかけたチンピラ風の男が場にそぐわぬ拍手をする。

「おめでとう! お前が最後の一人だ。喜べ」

 ナイフを握る手にさらに力を込める。

「……警察は呼んである。お前に逃げ場はない」

 少しでもプレッシャーをかけるため感情を込めないで言ったのだが、男はいっこうに余裕そうな表情を崩さない。

「言っとくけど警察は来ねぇぞ? これは政府の方針らしいからな。だから警察も動かねぇ」

「そんなこと信じるわけないだろ」

「なら好きなだけ待てばいい。暇ではないけど俺も付き合ってやるぜ?」

 男が嘘をついてるようには見えないが、信じていいことでもない。もし仮に警察が来ないとすれば、俺は警察の援護もなく単身で男に立ち向かわなくてはいけないのだから。

 真意を確かめながら時間稼ぎのつもりで問いかける。

「警察はそのうち来るさ。それより、ここに集まったみんなはどうしたんだ!」

 そう、俺より一足早く集まっていたはずの全校生徒・職員が一人もいないのだ。

「あぁ、第一体育館……は見てないのか。教えてやるよ。俺が殺した」

「また嘘を……」

「嘘じゃねぇよ。逃げねぇから見てこいよ。お前自身の目で確かめてこい。俺は逃げねぇ……どこにもな」

 最後の一言を発した彼の目はとても真剣な眼差しだった。目を釘づけにするぐらい真っすぐ、そして遥か遠くを見ていた。嘘はない。なぜかそんな気がした。

逃げるつもりなら目撃者である俺を殺してさっさと逃げればいいのだ。それをしないということは、まだやることが残っているということだろう。それがなんなのかは分からない。でも俺は確認しなければならないのだ。彼が言うとおり誰も残っていないのか……を。

第二体育館へと一歩、また一歩と、重たい足取りで歩みを進める。いつまでも頭の中で響く悪夢のつぶやきが俺の動きを鈍らせた。

「俺が殺した」

 嘘であってほしい。そんなことがあってはならない。

 いくら兇器を持っていたとしても数百人の生徒を一人も逃がさずに殺害するのは容易ではない。仮に本当だとしてもミサイルや機関銃など、非現実的な方法しか思いつかない。だとすれば本当に嘘なのかもしれない。この第二体育館の扉を開ければみんながいて、生徒指導部長が眉間に血管を浮き上がらせながら……。

「……なわけねぇーか」

軽い口調ではあったが、男の目を見て不思議とそう思ってしまったのだ。嘘は言ってないと。ならばせめて戻りたい。あの楽しかった日々に……。

 そんなのはごとだとわかっている。過去・・に戻ったり、やり直す(・・・・)ことはできないのだから。

 現実を受け止める覚悟をした俺は第二体育館の扉を開ける――。

 その後のことは覚えていない。

 頭の中が真っ白になり、何も考えれなかった。そして現実に戻されたそのとき、自分の意志とは裏腹に、膝から崩れ落ちるのとほぼ同時に胸の奥底から熱いものが込み上げ、俺の口を介して体外へと排出された。

 体育館で広がっていた光景。それは、この世とは思えない阿鼻叫喚のちまたと化していた。ある生徒は喉を切り裂かれ、ある教師は左胸を一突きにされていた。同時に異臭が充満していた。人間が死んだあとの腐敗化が早いと聞いたことはあるがここまで早いとは……。すぐ近くに見知った顔を見つけ、再び嘔吐おうとしそうになるが、もう出し尽くしてしまったのか、空回りし、喉がかすれて逆に辛い。

「これが政府の望んだことだ」

 後ろを確認もせず、振り返ると同時に手に持ったナイフで切りつけるが、男は一歩下がって避ける。

「いいから聞けよ。最後の一人だから見逃してやるっていってんだよ。今ここでその命散らせてやってもいいんだぜ?」

「殺す気がない? ふざけるな! こんなにたくさんの人間を殺したやつの言うことなんか信じられるかよ」

「それが真実なら仕方ねぇだろ」

「腐ってやがる……」

「少しは落ち着けよ、まったく……こんなやつでも原石グラインダーなのかよ」

「グラインダー?」

 聞き慣れない言葉に戸惑うが、男の細かい動作まで見逃さないように監視の手を緩めない。

「原石も知らねぇのかよ。驚きだぜ。この学校は原石を育てるために作られたらしいが、この様子だと生徒には秘密にしてたらしいな。とにかくこれ見てみろよ」

 男が人差し指を動かすと、空中で何かが動き回る。

「これが何か分かるよな?」

「ナイ……フ?」

「有り得ない」

 その一言に尽きる。

 あらゆる物理の法則を無視し、目にも留まらぬ速さで自由自在に動くナイフは、まるで蜂のように獰猛で、蝶のように優雅だった。ピアノを弾くようにあらゆる指を動かすと、十本のナイフは華麗に宙を舞う。

「そう、ナイフだ。俺の能力チカラだ。指の数だけならどんな物でも操ることができる」

「そんなの手品に決まっ……」

「こんなこともできる」

 指を針のように真っすぐ伸ばして俺を指す。すると、一陣の風と共にナイフが頬をかすって背後に飛んでいく。俺の頬にはうっすらと血が滲んだ一本の線が引かれた。

 どんなからくりかはいまだに見破ることができないが、本当に俺を殺す気がないのは分かった。こんなことができるなら今頃、俺も死体の仲間入りしてるだろうからな。

「お前の能力も知りたいとこだけど……原石もわからないガキに聞いてもしょうがねぇか。まぁいい。二つの目の使命も達したことだしな。おっと、聞こえてきたぜ? 準備いいねー」

「準備?」

 いくらか経ってようやく俺にも聞こえてきたそれは、警察のけたたましいサイレンの音だった。

「やっぱり来たか! 俺が呼んだ警察だ。もう逃げられない」

「お前、なんか勘違いしてねえか?」

「……は?」

 その時だった。

「聞こえるかな? 若き犯人。私は警察署長総監の山口だ。君は百を越える警察官に包囲され、その中には今まさに突入しようとしている特殊部隊もいる。しかし、これは脅しでも何でもない。お願いだ! 君の犯した罪はとても重い。だが、法で裁かれる前に潔く自分の悪事を認めて出頭してくれることを私は望む。一分だけ待つ。賢明な判断を期待するよ。城勇人・・・君」

 俺は自分の耳を疑った。ここを包囲した警察官は確かに言った。

 城勇人――俺の名前を。

「だから言っただろ? まったく……俺がお前を生かすなんて言うから国があわてて罪をお前になすりつけようとしてやがる。国はどうしてもお前には死んでもらいたいらしいな。どこで盗聴してんのやら……。分かったか? 俺のバックには政府がいる」

「俺が殺人犯だなんて……そんな馬鹿な……」

「そう、そんな馬鹿な話が当たり前になってしまうのが|原石の恐ろしさだ。お前が警察から逃げ切ることができたら面白いことを話してやるよ。お前の人生を破滅に追い込んだ俺を、政府を恨め! 力を求めろ! 今のお前にはそれしかできねぇんだからな」

 なにか言い返してやろうと口を開きかけたが、山口の諦めかけた声が邪魔をする。

「本当に残念だよ、城勇人君」

 どこかの窓ガラスが割れる音がする。タイムリミットの一分はすでに切ったようだ。

「さあ逃げろ! あてもなくさまよい続け、絶望に打ちのめされろ!」

 一人殺しても罪は重い。それが数百人となると死刑ではすまないだろう。無実で死刑なんて御免だ!

 いまから教室の荷物を取りに行くのは間に合わない。全てを目に、脳に、記憶に焼き付けるために、最後に満足げに笑う男を憎々しげに睨みつけると、渡り廊下の窓から外に出て、上靴のままグラウンドに向かう。グラウンドの裏側には密接したビルが建ち並んでる。そこなら警察の包囲網にも穴ができるはずだ。学校の敷居を示すフェンスを軽々と飛び越えて、薄暗い路地に入る。

 ここまでは順調だ。警察もすべての地形に詳しいってわけでもなさそうだから案外簡単に逃げ切れるかもしれない。

しかし、そんな安易な考えも一瞬でくつがえされる。

「こんなところ来ませんよー、先輩」

「これも仕事だ。それにしてもじめじめして気持ち悪いな」

「そっすよー、こんなところにわざわざ来るやつはいませんからね」

 突如(とつじょ)、正面の通路に現れた警官二人。俺を逃がさないように学校裏に配置された警官の一部だろう。俺を見つければ付近の警官が集まってくるに違いない。

 幸いにも、二人の警官は話をしていたようで俺の姿は見つかっていない。慌てて十字路を曲がって視線を避けるが、このまま二人が直進し、十字路の左右を確認すれば見つかるのも時間の問題だ。知らばっくれることもできるが、学生服の男子が朝から、しかも殺人事件があった高校の近くでうろちょろしていれば当然怪しまれるだろう。そのまま身元確認されて御用だ。そもそも制服でばれてしまう。

 俺はいままでずっと手に握っていたナイフの存在に気づくと同時に、単純だが我ながらいい案を思いつく。

 あとは警官の視線を逸らす何かきっかけが必要だ。その何かを探すが、辺りには汚れが染み付いた壁や適当に積まれた鉄パイプ、今なお回りつづける大きな換気扇。他にはないものかと目を凝らすも、現段階では活用できるものが見つからない。

 ならいっそのこと不意を突いてこのナイフで……。

 しかし、俺の人間らしさがそれを拒絶する。そんなことをすればあの男と一緒だ。教師や生徒を皆殺しにしたあのいまいましい男と……。

 死体の山を思い出して息がつまりそうになるが、胸を撫でて落ち着かせ、現状に向き直る。次の案を考えてる時間はない。警官はゆっくりだが確実に俺との距離をつめてくる。

「やるしかないのか?」

 自分に語りかけて心を落ち着かせる。

 汗で滲んだ手の平を固く握りしめて立ち上がる。声が近い。あと二、三歩もすればナイフを握りしめながら焦った醜い俺の姿が警官の視界にさらされることだろう。唾を飲み込む音が体内に鳴り渡る。これが相手に聞こえなければいいが……。

 勝負は一瞬だ。

 そして――

「ミャー」

 静寂を破った物音に身を凍らせる。決意を固めて神経を張り巡らせていた俺にとって、それは心臓が止まるほど驚くできごとだった。俺ほどではないが、驚いたのは警官も同じようで、それが子猫だと気づいたときには両者ともに安堵のため息が出ていた。

「なんだ、子猫ちゃんじゃないすか」

「おい、職務を果たせ」

「ほら、先輩も見てくださいよ。かわいいっすよ~」

 半身まで乗り出していた俺は動きを止める。

 おもわぬ形とはいえ、警官の視線を逸らす課題はクリアだ。

 すかさず右手に持ったナイフを向かいの通路に置いてあるゴミ袋に投げつける。普通の高校生にナイフ投げの技術はあるはずがないため、横回転を繰り返しながら飛んでいったナイフは、ゴミ袋を浅く切りつけ、中から空き缶がこぼれ落ち、やかましく甲高い金属音が通路に響き渡る。

「誰だ!」

 警官二人は腰から拳銃を抜きながら十字路の俺とは反対側に曲がっていく。

 作戦成功……なのか?

 奇跡とも呼べるタイミングで出てきてくれた子猫に尊敬の意を表しながら警官の来た通路に行くと、後ろを確認せず一目散に走り去る。


 そして三日が過ぎた。正しくは三日間ぐらいだ。

 無一文。しかも、家に帰ることも許されず、慣れない空腹に堪えながら、人目を避けるためにネズミのように暗がりを歩く。

 こんな生活してまで生きる価値はあるのだろうか? そうだ、寝よう。

 不意にそんな楽観的で意味不明な考えが頭をよぎった。

ここ数日、一睡もしてなかったからかもしれない。疲れた俺の頭は自身の意思よりも本能を優先し、深い眠りへと入った。



「でも先輩、たかが高校生一人が数百人を一人残らず殺害することってあるんですかね?」

「さあな、でもこれだけは言える。俺には絶対に無理だ。ミサイルなんかがあれば別だがな」

「ですよねー。誰もいない路地に物音がしたり、事件現場には検査官じゃなくてスーツの男達が入っていったり……おかしな事件でしたね」

「長生きがしたかったら余計な詮索はやめておけ」

「でも犯人も捕まってないんですよ?」

「……」

「了解です。忘れますよ」

「それでいいんだ」

 事件捜査の打ち切りを伝えられた二人の警官は、この事件を忘れようとした。知ってはいけないことが目の前で起きていることに薄々気付いていたからだ。

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