十二話 “恩寵降眷”
それからしばらく、僕たちは有志発表の準備に追われた。
出演申請、会場の下見、機材の貸し出し確認、告知の張り紙。やることは山ほどあったが、形だけならどうにか整ってきた。
でも、肝心のドラムだけはまだ埋まらないままだった。
今日も遅くなった。時刻は七時を過ぎ、辺りの建物は街灯と月光に照らされていた。
『やれやれじゃ。やっと終わったか』
ローブの内側からコンブが顔を出した。
扉を開け、外へ出る。夏でも夜だ。頬を撫でる風は冷たかった。
きぃと金属のこすれる音がして、ゆっくりと扉が閉まった。
『――誰かおるぞ』
コンブが低く言った。
風は無いのに扉がわずかに揺れた。
反射で振り返るが、そこには何もなかった。
「誰?」
『わからん』
無意識的に息が浅くなる。
すぐ目の前には庭園があり、隠れる場所は無い。
『近いぞ』
耳元でコンブが囁いた。
庭園の中心ほどまで歩いた時、声が聞こえた。
「厄介な珍獣を連れてるな」
その声に反応し、すかさず声のする方を振り向く。
眼前には振り上げられた足が迫っていた。
咄嗟に腕を滑り込ませ、攻撃を防ぐ。
押し出された僕は靴底を地面に絡ませて勢いを殺した。
見上げた先に居たのは、水色の髪の少女だった。
美しい顔、その額の右端には鬼のようなツノが一本はえていた。
水面に落ちた雫みたいな揺らぎが彼女の輪郭をわずかに隠すと、次の瞬間その姿が霞んだ。
「くっ――!」
顔の横に拳が迫っていた。
飛び退いてかわし、間合いを取る。その後の彼女との距離は遠いようでそうは見えなかった。
「何者だ」
僕の声は響くことなく夜の闇に溶けて消えた。
「クラジオルクス・ルシフェル・ギルバートが“眷属”のひとり――『澪』」
ルシフェル――。
その名を聞いた途端、心臓が嫌な脈動のリズムを刻んだ。
ありえない。そう思ったのに、喉は酷く乾いていた。
“眷属”、その言葉が脳内で反響し、遅れて意味を探った。
ひとくちに敵と呼ぶには次元が違う。
目の前にいるのは、ラファエルに並ぶ化け物直属の部下だ。
「――なぜ僕を攻撃する」
「自分の胸に問うてみろ」
澪は静かに片手を僕の方へかざし、人差し指だけを伸ばした。
“精神掌握”
唱えられた瞬間、視界の焦点がズレた。
耳鳴りがする。それも、だんだんと鼓膜への刺激は強くなっていく。
何かが頭の奥に直接触れてきたような異物感があった。
――なにより、身体が動かない。
海の底に沈んだかのように。
『ロイ!』
耳元でコンブが怒鳴った。
その声すら、最初は水面から聞こえてくるみたいに遠かった。
ローブの内側から飛び出してきたコンブが、僕の頬を殴りつけた。
乾いた音がしたが、痛みは大したことがない。
『覚めんか阿呆!』
コンブの金切り声が、今度ははっきりと聞こえた。
冷たい空気を得て脳が正気を取り戻す。止まりかけていた思考が一気に動き出した。
澪の魔力はまだ頭の奥に残骸みたいに残っていた。
澪がほんの少しだけ眉をひそめた。
「珍妙だな、魔獣か?」
答えるつもりはない。
僕は全身に魔力をぶち込んだ。
全身の血が一斉に沸き立ち、強化が巡った。
手足に力が戻るどころか、さっきまでとは比べ物にならないほど体が軽くなった。
床を蹴り、距離を詰める。
澪の鼻先まで、たった一歩。
冷たい夜の空気が背中へ流れ、温かい色の街灯が線になってブレた。
拳を叩き込むつもりで、右腕を振り抜いた。
目の前で、空気がひしゃげた。
鈍い衝撃が拳から肘へ、肘から肩へ突き抜け、僕の体ごと押し返した。
その感触は肉でも骨でもなく、硬質なガラスの塊にぶつかったみたいな、ありえない反発だった。
しびれた右腕が震えている。
澪は一歩も動いていなかった。
微動だにせず立ったままで、何事もなかったかのようにこちらを見つめていた。
僕と澪の間、何もないはずの空間が、うっすらと波打つように歪んでいた。
――見えない壁がある。
「結界か」
『違う』
僕は半分断定していたが、コンブに否定された。
コンブはくんくんと鼻を揺らして、よく観察してから続けた。
『あれは魔術じゃ』
そういうコンブ自身も確信が無いように見えた。
毛を逆立てたまま、油断なく澪を睨んでいた。
「どうした? さっきの勢いは」
澪は口元だけで笑ってわざとらしく挑発すると、人差し指を僕の前にかざした。
「二度も通じるかよ」
弧を描いて澪へと接近する。やはり澪は一歩も動く気配がない。
張り詰めた魔力がビンビンと感じられるわけではない。澪の周囲から辛うじて感じ取れるのは、薄い風属性の魔力のみ。
それは澪を覆い囲むように張られていた。
再び澪へと拳を振り抜いた。
また壁に阻まれた。さっきと同じ感触が拳を撃ち抜いた。
「何度やっても同じだ」
「あんま舐めんなよ」
余った左の掌に込めた魔力を放出した。
“嵐弾”
澪は飛び退くように、大げさに交わした。
その魔術は壁に阻まれることなく澪の立っていた床へ叩きつけられた。
「やっぱりな」
薄い風の膜を自分の周りに巡らせて、攻撃を受ける瞬間一点に寄せ、厚みを形成している。
それだけだ。
「つまり、複数同時攻撃に弱いんだろ?」
「――ずいぶんと早い攻略だな」
澪の表情から焦りはうかがえない。
「コンブ、行けるか」
『任せぇ』
澪をまねるように、僕は人差し指を伸ばした。
てくてくとコンブが指先まで走っていく。
「さっきの質問に答えてやる――コンブは魔獣だ。
つまり――」
「夜行性」
僕のセリフを先読みするように澪が言い放った。
魔力の満ちる夜の時間帯だけ、コンブは別の姿になれる。
長くは保たないが――。
くるくると数回まわって地面へ着地したコンブは、ぶる、と全身の毛を更に一段と逆立てた。
次いで首から下がみしみしと音を立てて隆起し、前足は太い腕に、腹は硬く閉まっていった。
目のハイライトが消えると同時に、コンブは立ち上がった。
何度見ても慣れない。なにせ、僕より背が高い。
人の形を得たコンブはハムスターの頭だけを残し、武人の肉を詰め込んだみたいだった。
「思った以上に珍妙だな」
澪は鼻で笑った。
コンブが踏み込んだ次の瞬間、その体が掻き消えた。
風圧が僕の全身を撫でると、既に澪の背後に回ったコンブの姿が視界に戻った。
『合わせろロイ!』
僕の拳が正面から、コンブの拳が背後から、澪を狙った。
澪に到達する寸前、両側同時に空気がたわんだ。
集まった風がそれぞれの拳を受け止め、勢いを鈍らせる。
でも、感触はずいぶんと軽い。
ばちっと魔力が擦れ、散った。僕らの拳は防御を貫通し振り抜かれた。
しかし、そこに澪の姿は無かった。
「バリアが剥がされた――やるじゃないか」
声は背後から聞こえた。
振り返るとさっきまで僕らがたっていた場所に澪がいる。
看破されてなお澪は風の防御を張ろうとしていた。
そこへ、僕は掌をかざした。
“風帳――”
“絶”
澪の魔術は完成する前に霧散した。
術が発動する直前――加えてこの距離なら、無効化が使える。
「援護は任せろ」
僕の言葉を皮切りに、コンブが澪と距離を詰めた。
正面から潰しにかかるような踏み込み。
ハムスターの頭部からは想像もつかない速さで間合いに潜り込み、間断なく打撃を繋げていく。
コンブの連打に、澪も同じ速さで打ち返す。
互いに拳が噛み合うたび、顔をしかめた。
コンブをかわすように、弧を描いて僕は嵐弾を撃ち込んだ。
澪はそれを手で弾いた、その隙にコンブが畳みかけた。
今、手数ではこちらが上だ。
コンブは低く沈み込んで胴へと拳を突き上げた。
鈍い衝撃音。澪の体が大きく揺らいだ。
「っ――!」
コンブの連撃に澪は対応しきれなかった。
追い詰めている。
間違いなく。
コンブが大きく踏み込み、右腕を引いた。
今までで一番深い溜めだった。
澪の防御を正面から突き崩す、渾身の力。
合わせて僕も魔力を練った。
“恩寵降眷”
澪が唱えた魔術は、身体の芯まで貫くほどの圧を感じさせた。
空気が爆ぜているように、肌がビリビリと刺激される。
関係ないとばかりにコンブの拳が澪へと到達した。
そう見えた。
『かはっ――』
澪は半歩も退いていない。にもかかわらず、コンブがはるか後方へと吹き飛んだ。
より早く、澪がコンブに拳を到達させていた。その拳は僕の目にも追えなかった。
さっきまでとはまるで雰囲気が違う。顔を上げた澪のツノは肥大化し、その根元から赤黒い線が全身に伸びていた。
コンブは気を失い、変身も解けてしまっていた。
「魔獣なんてこの程度」
澪の視線が、僕を捉えた。
コンブを一撃で沈めた拳があの速度で向かってくれば、僕は避けられない。
澪が踏み込んだ。
「おいおい、こんな大物がウチのに何の用だ?」
その声は澪のものではない、男の声だった。
目を開けると、そこにはレオンが居た。
「――覚悟しろやクソガキ」
横合いから割って入った影が澪の拳を受け止めていた。




