出発進行
「お待たせしました。このバスは下関駅行きです。整理券をお取りください。」
いつものバス停、いつもの時間、いつもの匂いにいつもの音。
このバスで数駅乗れば学校に着く。
私は放送委員だし、皆よりある程度早く行かなければならないため、基本バス内で同級生を見かけることはない。
本から目を離して、ふとシートを見るとそこには東京都バスと書かれていて、少し目を見開いた。
東京都?ここから何キロ離れているのだろうか。
やけに暑い暖房を鬱陶しく思って、本をパタパタさせながら
まだ夢から醒めてないのか。
そのような考えも浮かんだ。
しかし、数秒の思考の末、恐らくこのバスは中古品であるという一つの結論に辿り着いた。
なんだ、そうか。君もなんだ。
そう思うと、この飽き飽きするほど乗ったバスに、愛着とやらが湧き出てしまった。
愛おしそうにバスの窓を触ると、ひんやりしていて心地よく、睡眠を誘った。
「次は、終点、下関駅です。
どなた様もお忘れ物がないようにお願いいたします。」
……あれ、終点...?
終点、確かにそう聞こえた。
しかし私が降りるべきは駅なんかじゃない...
ならなぜこんなところへ?
……数秒後、バスがターミナルへ入ると同時に、ようやく理解した。
どちらかというと、理解自体はずっと前にしてあっただろうが、取り繕おうとした。
なんと、私は寝過ごしてしまったようだ。
あの「舞踏館」へ来てしまった。
暇そうなタクシー、絶え間なく入れ替わるバス、うるさい電車の通過音。
奥には談笑する制服姿の男子や女子の群れがいて、その全てが新鮮だった。
駅に一人でくる。ましてやバスでなんて、それまでなら考えられないほどの夢物語だった。
私の憧れていた「自由」というのは、まさにこんな場所なのだろう。
少し歩くと、絶え間なく時刻表が動いて、隣には見知らぬ町の名がびっしり書いてあった。
吸い寄せられるように券売機とやらへ向かった。
券売機の上には地名と数字が並んでいて、運賃表であることは理解した。
しかし、意味が全くわからなかったので、とりあえず五百円分の切符を買った。
これだけあれば遠くまで行けるだろう。
かなり大きな音がでて少し驚いていると、ほんのり暖かく、今まで触ったことのない材質の紙が出てきた。
これが「切符」なのだろう。
細かくたくさん印字され、裏表で材質の違うそれは、全くの未知なるものであり、とても素晴らしく見え、つい笑みがこぼれてしまう。
そんな素晴らしい切符を、書かれている指示にしたがって改札に通してみると、あろうことか穴が空いてしまった。
すぐさま駅員を捕まえて
「あのぅ、切符に穴が空いてしまいまして...」
と困り顔で言うと、駅員さんに軽く笑われて少しムスッとした。
私は本気で困っているのだ。
子供だからといってそのような不躾な対応をしていい理由にはならないはずだ。
「お嬢さん、この穴はね、ちゃんと正しくお金を払いましたよと伝える為のものなんだよ。
だから、穴は空いてていいんだ。」
と切符を私へ返すと、にっこり微笑んだ。
「わ、わかりました。」
強気に反論しようと脳では考えていたが、いざその時が来ると狼狽えた返事しかできなかった。
おかしいだろう、五百円でこの切符を買ったのだから、これは私のものなのだ。
人のものに勝手に穴を開けるなんて、どんなやからなのか。信じられない。
しかし、再び駅員へ聞こうとはついに思わず、プラットホームへ向かった。
駅構内に吹く風は、あの海岸を想起させるほどに体温を下げるが、しかしそれもまた帆風のようで気分を昂らせた。
反対側をみると、ドアから暖かな空気がでている電車があって、寒さには勝てずつい乗ってしまった。
これもまた、異様に暖房が熱く、眠気を誘う。
しかし、二度も同じことはすまいと太ももをつねって無理に自分を律した。
本をこう開いてみると、田舎人のように見えないか。
あ、電車が入線した。いや、眼で追ってしまったら田舎者だとバレるだろう。
そうやって自分が嘲笑の的にならないようにと色々振る舞っていると、突然
「ドア閉まります。ご注意ください。」
恐らくそう言ったのであろう雑音が耳に入った。
スピーカーのせいか駅員のせいか聞いた時には何を言ってるか見当も付かなかったが、直後にドアがしまったことで直感的に理解した。
そして、自らが置かれている状況をそこで初めて理解した。
「あのぅ、この電車はどこゆきですか。」
向かいに座っているおばあさんに尋ねてみる。
「お嬢さん、これはね、小倉行きですよ。十五分もすれば着きますよ。」
こくら...?と戸惑っていることを見透かされたのか、おばあさんは続けて
「福岡県ですよ。」と微笑みながら言う。
「どんなところなんですか?」
「どんなところねぇ......都会ですよ。
モノレールが走っていて、港があって。
下関なんて比じゃないくらいですよ」
衝撃的だった。
あれほど私が感動した都会「下関」は、都会ではなかったのだ。
あれほど私が憧れた下関が、だ。
「下関より...ですか。」
「ええ、そうですよ。人口なんか百万は居て。束になってもかないませんよ。ははは。」
おばあさんはこちらへ、慈愛にみちた顔をしながら私を笑った。
しかし、私はおばあさんの顔を直視できなかった。
百万の人がいるのか。東京じゃなくて、たった十五分電車にゆられるだけのご近所に。
北九州と言う都市があるのは知識としてあった。
いつも海から望んでいた。
されど、いざ現実にそれがあると言うのは、なんとも慣れない気持ちだ。
「お嬢さんは、都会へ行くのは初めてなのかい?
なら、モノレールに乗ってみなさい。
きっと驚きますよ。」
「...度々すみません、モノレールとはなんですか?」
「モノレールはね...いえ、それも無粋ね。
知らずに乗ってみなさい。きっと面白いですよ。」
そう言うと、彼女は降りてしまった。
モノレールという名の、これまた未知のものへ心底期待が押し寄せた。




