走光性
コンコン。
その音を皮切りにして、突然世界が静寂に包まれたように感じられた。
いや、違うかな。
その音を除けば音は一切変わっていない。なりやんでもいないし、うるさくなった訳でもない。
ただ、一つとして確かに静かだ。
なぜか秋も終わるというのに汗ばんでしまっていた。
肩の制服の綿がやけにちくちくして、苛立たしい。
そこで初めて私がうたた寝してたのだと気づいた。
「...であるからして、昆虫の羽と鳥の翼は相似器官であり...」
先生はあいも変わらず虚無へ向かってお喋り中で、内容も何を言ってるのかさっぱり。
「...じゃあ———雨宮。
ソウジキカンとはなんだ。」
今度は確実に教室は静まり返った。
クラス中の視線が私に集まり、そこで初めて私が選ばれているのだとようやく気づいた。
……しかし、全くだった。
掃除機関...?...とはなんだ...?と、脳内の辞書に照合してゆくが一つとしてヒットはでず。
完全に八方塞がりで、先生の苛立ちも見てとれる。
数秒の沈黙ののち、一つのノートの切れ端が机に置かれた。
仲のいい湯沢君がこちらに顔を向けず、慣れた手つきで助けてくれたようだ。
「...えっと、相似器官とは、元々は違うものだが、結果として似たようになったものを指す。
例として、ペンギンの翼と魚のヒレ———」
そこまで言いかけた時、不意に、先ほどまでは白濁してまどろみかけたはずの世界が、ヒレという一単語をとても眩い光でハイライトした。
「思い出せ」そう語りかけてくるようだった。
「雨宮?どうしたんだ?早く続きを読め。」
「あっ、すみません...
…魚のヒレのように、種族や元々の役割が違うものが同じように進化したものが挙げられる。」
「うむ、いいだろう。ちゃんと聞いてるようだな。
雨宮、座っていいぞ。」
ため息を吐きながら席につき、湯沢君の紙にかいてあったページを開いて、ノートに這ったミミズ跡を消しゴムで消す。
もう寝ないように、筆箱から冷たいステンレス定規を取り出して握ってみるが、ひんやりなのは最初からで、いまいち効果はなく。
先生の声は、いつもなら鬱陶しいが今日はなぜか催眠へと優しく誘う。
私の必死の抵抗も虚しく、再び私はうたた寝タイムへと戻った。
ここは...あの海岸だ。
私の唯一の憩いの場であり、人魚と出会った場所だ。
私は、波止場の上をゆっくりと、ふらつきながら歩いていて、目の前には妖しく微笑む人魚がいる。
このままだと落っこちてしまうと、歩くのを止めさせようとしても、体は歩くのをやめなかった。
手を握りしめることも、瞬きも、発言も、全て自由自在であるのに、脚だけはどうにもいうことを聞かなくて、遂には波止場の端まで来た。
「人魚......」
そのまま飛び込んでしまった。
瞬間、まるで飛行機から飛び降りるような感覚に陥って、一瞬意識がふわっと飛んだ。
何もかものしがらみを、全て地上へ捨ててしまったようだ。
親も、学校も、田舎も、名前も、全部。
十五年も生きてきて、思えばこんなに体が軽かったことはなかった。
しかし、そんな感覚は着水と同時に崩れ去ってしまって、しかし悲しくない。
ただ、冬の海は、針山に飛び込んだような激しい痛みがして、声にならない声を上げた。
また体の内側がとても耐え難いくらい熱くなっていて、それもまたとても苦しかった。
なのに、どうしてか私は激しく高揚感と多幸感を覚えた。
恐らく... いいや、確実に、ようやく同じ土俵に立てたということに対してだろう。
そうでなきゃ嫌なんだ。
私にとって人魚は、もう下でも上でもない。対等だ。
それを否定する要素が一つでもあること自体、耐え難く嫌なんだ。
とても、とても嫌なんだ。
コンコン
「授業終わっちゃうよ?」
哀れむような声で起こしてくれたのは、またしても湯沢君だった。
「ん〜......」
私としては正しく応答したつもりだけども、微かな呻きにしか聞こえていないようで、再度机を叩かれる。
「...起きた。ありがとう」
「らしくないね。雨宮さんが居眠りですか。」
「私だってそういう日くらいあるよ。」
「昨日は夜まで勉強?」
彼は微かに笑う。
「いいや。そんなに偉い人じゃないよ。
ただ昨日は———
…いや、昨日は寝れなかったってだけ。」
「そう?勝手なイメージだけど、雨宮さんは毎日遅くまで勉強してるイメージがあるな。」
「ハードル上げないで。」
そう返すと、彼はへらへらと謝りながら笑っていた。
「…あ、そうだ雨宮さん。
後でさ、ノート見る?」
「...見るよ。ありがとう。」
彼は手際よく次の授業である数学のファイルを机から取り出して、何事もなかったように授業終わりの挨拶を済ませたのち、棚の奥へ開かれたままの単語帳を直した。




