越波
その日は、いつものように素足で海に入るなんてことはしなかったが、踏みしめる足に全く力が入らなかった。
手足の震えは止まらないし、耳も熱い。喉奥は痛く、言葉を喋れば感情の波というものが決壊しそうでただ後悔の念と贖罪の気持ちに押しつぶされそうで、それがまた辛かった。
ましてや歩ける状態でもなく、岸近くのバス停へ向かった。
バスが一日に六本くらいしかないのも手伝ってか、ベンチはもはや座れる状態ではなく、バス停に寄りかかって、少しでも気分を落ち着かせようとして、星も時刻表もYouTubeもみたが、ネオンのように光るサムネイルも、スッカスカの時刻表も、ギラギラ嘲るようにこちらを覗くあの一等星だって全てが私を責めているようで、土まみれのアスファルトへ座り込んだ。
もはやどんな母親の言葉も私の心を傷つけることはできないと、ある種の慢心というか、達観していた自分が、なんだか恥ずかしくて狡くて卑しくて。
全くいたたまれなくなってしまって、視界を完全に遮った。
するとまた頭に忌々しいアイツが囁く。
「母親そっくりね」「蛙の子は蛙ってやつかな?」
うるさい、うるさい、うるさい......!
「やっと自分より下が現れたね」「母親の生き写し」
うるさいよ...出てってよ...!
「名付けの姿も、怒る姿も、母親そっくり。」
ある音が頭を駆け巡った。
何かが崩れそうな、涙腺か、感情か、それとも別のもっと大事なものか。
そんなものが倒壊する前兆のような音だ。
しかし、その音は寸前にかき消される。
「ツキ!!」
不意に、聞き覚えのある声が脳内に響き渡った。
アイツとよく似ているが、もっと透き通った、純粋で、美麗な声だった。
顔を上げると、そこに人魚がいた。
顔を真っ赤にして、過呼吸気味の人魚が。
月の真下にいて照らされる美しい人魚が。
他になにも見えなかった。
「ツキ...!ツキ...っ!」
しかし、彼女は自らを気にも留めず、腕で体を支え、アスファルトを這いずりこちらへ向かってきていて、その綺麗な鱗もボロボロになっている。
「人魚!」
思考なんかよりずっと先に体が動いた。
そのせいか、土に足を取られ転んでしまう。
しかしもうなりふりなんて構ってられないと人魚の元へ走り抱き抱える。
思い込みか、それとも互いの体温かは知らない。
ただ暖かかった。とても。
「ごめん...ごめんね...あんなこと言って...」
私は確かにそう言ったつもりだが、恐らく言語にはなっていない。
嗚咽と泣き声のせいで、うめき声か何かにしか聞こえていなかったと思う。
ふと、腕に激痛が走って、一瞬人魚を離しそうになるが、力強く抱きしめた。
人魚の体に残る海水が、おそらく転んだ時にできた腕の傷に流れ込んだのだろう。
私の腕から鮮血が次々とたれ、人魚のヒレが紅に染まっている。
「いいよ...いいから...。
よかった...」
人魚は私の胸に抱かれて、耳を澄まさなくても彼女の心音がうるさいくらいよく聞こえる。
「えへへ、....っはは。」
彼女の喉の奥から、熱を逃すかのように引き攣った笑いが漏れるのが鮮明にわかる。
おそらく涙を流していると思う。
ただ、彼女自身も濡れていてよくわからない。
「大丈夫...?ヒレとか...だいぶ傷ついてて...」
一呼吸ついてようやく心配の言葉もかけられた。
「大丈夫......じゃないかも...。
ツキ...海まで連れてって...」
途端に胸に掛かる重みが増し、声が徐々に弱々しくなってゆくのを感じる。
「人魚...、頑張ってね、もう少しだから...」
やっとの思いで人魚を抱え、砂利道を踏み外さないように丁寧に歩く。
一歩。
「あのね、ツキ。私ね、怒ってないよ。」
砂利がうるさく鳴る。
「ツキはね、私の唯一の友達だから...」
もう一歩。
「それに...初めて私と話してくれた人、それがツキなんだ。」
腕が裂けるように痛い
「怖くなかったと言えば嘘になるよ。」
歯が痺れる感覚があって、目眩がした。
「….でもあんなに本気で悩んでくれて、私は本当に嬉しかったんだ。」
しかし、止まることはできない。
「ツキ、ありがとう...!」
私は最後の力を振り絞って、彼女を優しく海に入れた。
人魚は海へ還ると、海を勢いよく泳ぎ出した。
欠けた鱗は光を反射せず、代わりに痛々しく血が滲んでいる。
しかしあの輝きには変わりない美しさを取り戻し、こちらになんともないと勘違いさせるほどの可憐な微笑みを投げかける。
私は彼女に向かって座り込み、深く頭を下げた。
「ごめん...なさい...」
私もいつの間にか過呼吸気味で、うまく言葉を話せないが、なんとか言葉を紡ぐ。
「さっきも言ったじゃん!
私は大丈夫。許すよ。
……っ、あは……大丈夫。」
彼女の長い髪に月や夜景が溶け込んで反射し、幽玄に光っている。
「ツキもおいでよ!」
両手をこちら側へ伸ばす彼女に、私はまるで潮が満ちてゆくように、無意識的に脚が動き出した。
痛めた腕も瞬きすらも忘れて歩き出してしまい、ただ考えられるのはうるさく呼吸する私の吐息のみだった。
私は、彼女の胸へ飛び込んだ。




