残響
あの日のあの時間、夕暮れ時。
目を刺す強く美しい橙色の日光は、暁にも見紛う。
山に日が完全に隠れるが、まだ暗くはならない、いわゆるマジックアワーという時間帯だ。
数分、波止場で黄昏ていた。
波のタイミングが違うと気づいた頃にはもう彼女は陸に上がっていた。
「ツキ、久しぶり!」
彼女は滴り落ちる塩水の音に負けない大きな声で挨拶する。
顔はとても恍惚としていて、いやというほど輝きが伝わる。
「久しぶり?」
「うん。久しぶり。もしかして忘れた?」
「忘れてなんかない。でも...まだ一日だよ?」
「うん。だから久しぶりって。
もしかして、一日って人間の価値観では短いの?」
「まあ...短いかな。
だって、友達なら学校とかで基本毎日会うし。」
「えぇ!すごいなぁ、いいなぁ!」
彼女は陸ではしゃぎ回る。下は砂利だ。痛くないのだろうか?
「それでそれで、ツキ、名前は?」
私の手を強く握ってあざとく聞く。ああ、この名前を選んでよかった。ピッタリだ。
「あなたの名前は———」
その単語を口にしようとした瞬間、時が止まったように感じた。
カラスは空に静止し、船は動かず、彼女も動かず、私は動けるが、瞬きができない。
風は吹かないし、色彩はモノクロになって、視界の端には砂嵐が見える。
ただ、いつも以上にうるさい波の音のみが私の五感を刺激する。
「貴女って本当に母親そっくりよね。」
「だ、誰!?」
私の耳元で確かに囁いた声は、どこか妖しくあの鱗のように吸い込まれるようであったが、確かに人魚の声であったことはわかる。
しかし現に彼女は今私の目の前で静止している。物理的に耳元へよって囁くことは不可能だ。
そして何より、「母親そっくり」と言う言葉が引っかかる。
私は母親を反面教師として生きてきたつもりだ。
「母親に似ている」なんて言われるのは心外だ。
「貴女って結局、母親と同じなんだね。」
しかし反論する余地も与えられず、せせら笑う声とともにまたささやかれる。
正体不明のその声の主に絶えず恐怖を覚える。
「違う...!私は母親なんかじゃない...。
あの人のようにはなりたくないの!」
耳を抑えて、自分でも信じられないくらいの、金切り声と言っても差し支えのないほどの声が出た。
身の毛のよだつ思いだった。
「あれだけ名前選びにお熱だったのに?」
見透かされていた。
「やめて!黙って!」
私にはもはやそれしか言う術がなかった。
言いたいことは全て言語化できなかった。
ただ、喉奥が痛い。それだけはわかる。
「よかったね。」「嬉しいでしょ?」
「な...何が言いたいの。」
正体不明のソレは私の周りを回っているらしい。
「上に立てて。嬉しいよね。わかるよ」
「貴女は誰!?」
言い終わる前に彼女は消えた。
そして自分に母親の虚像が重なるのを鮮明に記憶した。
母親が私に名付ける様子と、私が人魚に名付ける様子が重なった。
「ツキ?おーい。ツキ?」
彼女の声が頭に響く。
時は動いている。
カラスはゴミを漁り、船は動き、風は吹いている。
空は薄紫の美しい色を取り戻し、海は空の光を反射し藤色に見える。
目をパチパチさせ、現実に戻ったことを実感する、
あの地獄のような空間から解放された。それがたまらなく安堵を誘う。
「ああぁ、ごめん。少し考え事をしてた。」
取り繕った。
正直、あのショックを受け止めるにはもっと、可能であれば一日は時間がほしい。
あの声は、確かに彼女そのものだった。
しかし事実としてあの時彼女は止まっていて囁くことなんてできないし、本当の彼女にあんなことを言われたくない。
おそらく、幻聴の類か、あるいは———
「そう?ならいいけど...
そんなことよりさ、名前だよ名前!結局なんなの?」
正直、今一番聞いてほしくなかった。
彼女の無神経さにイラつきもないと言ったら嘘になるが、こんなことは彼女の知る由ではない。
少なくとも、私の「名付け」をしようとしたと言う越権行為に比べれば些細なことだと悟る。
「...申し訳ないけど、私には名前をつけるなんてできない。
私は貴女の母親じゃないの。」
深く頭を下げた。
しかし彼女は「え〜!」と言いながら抗議する。
「約束したじゃん!名前つけてくれるって言ったじゃん!」
「そ、そうだけど...
でもできないものはできないの。」
居た堪れない気持ちにもなるが、私は絶対に母親のようにはなりたくないのだ。
私には彼女に名付けることなんてできないのだ。
「嘘つき!言ったじゃん!」
彼女が私に泣きつく
私の手を握る力が強いのを感じる。
「...いい加減にして!」
「...っ」
彼女の瞳孔が開くのがわかる。
つい口走ってしまった。
気づいた時にはもう遅かった。
彼女は完全に萎縮して、私から後退りしている。
「ごめん」と言おうとしたが、彼女の怯えた顔を見て、自分は大変なことをしてしまったと改めて自覚し、言葉に詰まった。
彼女は海に入り、少し泣いたような声で「明日またこの時間に来るから!」と言い残し去っていってしまった。
砂利の上に一人座っている。
なぜか無意識に歯を食いしばっていたようで、顎と歯がジンジンする。
「名付けの姿も、怒る姿も、母親そっくり。」
そう言ってる、あまりに鋭く、気に入らないあの謎の声が頭に響く。
「いい加減にして」一人で呟いてみる。母親の口癖だ。
口癖といい、トーンといい、いい方と言い、自分の中で、母親と自分の声の区別がつかなくなってきた。
誰もいなくなった荒涼とした寂しい海へ少し大きな石を投げた。
ひどく嫌悪感を覚え、吐き気がした。




