新月の夜
凍てつく海風が、理性の境界線をさらっていく。
誰もいない下関の海岸、ハングルのラベルが貼られたゴミの隣に、それはいた。
夢か、幻か、あるいは誰かの悪質な冗談か。
――「羨ましいなあ」
その声が、私の行き止まりの日常に、静かな波紋を広げた。
「羨ましいなあ」
知らぬ少女の声がして、周囲を見渡すが見つからない。
「ここだよ、ここ。」
足元を見ると、少女が横たわっていた。
「寒くないの?」
「まあね。寒いよ。でも耐えられないほどじゃない。」
よく見てみると、足が魚のひれのような見た目をしていて、腰を抜かす。
「あ、あなた、、、人魚、、、?」
「そうだよ。人魚。」
さも当たり前でしょう?のような返しをされて若干鼻につくが、それどころではない。
「に、人魚って、、、そんなのいるわけ、、、」
「知らないの?アルゼンチン童話の」
「それは知ってるけど!、、、でも実在するなんて、、、ゆ、ゆめ、、、?」
どうしても信じられない
「夢じゃないよ。本当の人魚。」
徹頭徹尾彼女はさも当然でしょう?のような態度でこちらを見てくる。まるでこちらが異常のように。
すると脚に冷たい感覚が走る
「ひゃっ!?な、何するの!」
「何って、、、脚を触っただけだよ?こんな真冬に人間が素足で立ってるもんだから、てっきり新種の人魚かと。」
「新種って、、、いくつかいるの?」
彼女は鼻高々に「ふっふーん」なんて言いながら説明する。
「南米からオセアニアにかけた南半球で生まれた人魚はえらが二つに別れた人間みたいな形の人魚が多いんだ。
逆に、ここら辺では魚みたいな一つの大きなえらを持つんだよ。
私は前者ってだけ。」
「、、、たくさんいるんだ。」
「信じてないでしょ〜?ま、いいや。」
また脚を触ってくる。
「、っ、、ひやいからやめて。」
「いいじゃん少しくらい〜、減るもんじゃないんだから」
「あなた達みたいに私たちは変温動物じゃないのよ。」
彼女はさっきまでの自慢げな様子とは打って変わって困惑した顔を見せる。
「えーと、、、周りの温度に合わせて体温が変わらないってこと。」
「なるほどね」
口では言うが、おそらく理解していないだろう。
「羨ましいなあ」
「、、、さっきからそればっかりね。どうして?」
「だって、人間は自由だし。」
イラっとした。
私が真に自由であればこんなところ来るはずがないからだ。
私が今どんな思いでここにきてるのか教えてやりたい。
でも、言葉が出なかった。理性が堰き止めたのか、それとも単純に語彙がなかったのか、彼女に次の言葉を許してしまった。
「私たちは海流や温度とかいろいろ考えないといけないけど、人間は自由にどこまでも行けるしさ。いいなぁ〜」
言い返したい気持ちをグッとおさえて、言葉を紡ぐ。
「そうね、そうよ。自由なのよ。私たちは。」
「やっぱり!?」
気怠けそうだった彼女の目が一気に輝く
「本当に、本当に北極の魚も当たり前に食べられるの!?」
「まあ、食べられるよ。回転寿司にでもいけば」
「寿司って知ってる!見たことあるよ!」
まるで子供のようにはしゃぎ出す彼女。
「いいなぁ人間は。」
またこれだ。
「でも、人魚だって自由じゃないの?時間に囚われずに自由に泳げてさ」
軽口のつもりで彼女をやじる。
「そうなんだ。君はそう思うんだね。」
予想とは裏腹に、彼女は困惑すらせず納得していた。
私はてっきりそんなに不幸自慢をするくらいなのだから、怒って来るものだとばかり思っていた。
しかし彼女は、現にこうやって猫のように地面に転がったり、と思えば急に何かに気づいたように目を見開いて
「、、、あ、ね、そろそろ乾燥してきちゃってさ。
だからもう少し経ったら行かなきゃ。」
なんて急にしおらしくモジモジしながら答える。
「あのさ、、、」
また脚にまとわりついて来る。濡れるし冷たいしで勘弁してほしい
「私人間と接したことなんてなくてさ、、、名前、、、教えて欲しい」
下唇を噛みながら、
「私はツキ。貴女は?」
「、、、本当にあるんだ」
「?」
「私たちにはね、名前ってものがないから。
名前って概念があること自体、私には新鮮なんだ。」
「じゃあ、どうやって互いを呼んでるの?」
「人魚は基本的に群れないよ。何らかの状況で会話するとしても、「そっち」とか「あなた」みたいに、曖昧にしかしないんだ。」
「、、、私から見たら、すごく異常に思えるよ。それって」
「じゃあ、ツキがつけてよ。名前」
「ええぇ!?そ、そんないきなり言われても、、、」
「明日また来るから、考えておいてね。名前。」
海岸をゴミを器用に避けながら海へ向かう。
「またね」
聞こえなかったのか、無視して砂利に大きな跡を残し、彼女は波に攫われていった。




