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波の下  作者: f値
2/7

テプラ

彼女は一体何になろうとしているのでしょうか。


 数分、唖然として大きなタンカー船が通っていったことすら気づかなかった。

磯臭い海からあがり、蒸れて中途半端にしか履けていない靴下を不快に思いながら、一等星を見る帰路の途中、たった三十分前のあの出来事が夢に思えてきた。

人魚なんているわけないだろう。

生物学的に間違っている。仮にいたとして、既に他の研究者などに発見されているだろう。

ありえない。疲れているんだ。私は疲れている。

しかし、浜辺に落ちた美しい青い鱗がそれを否定する。

こんな大きな鱗は、人魚でないという反例を考えるより人魚はいると断定したくなる大きさと美しさを持つ。見たことのない、引きづり込まれるほど美しく月光を反射するのだ。

私は人魚の実在を認めざるを得なくなってしまった。

それを自覚した瞬間、寂寥とした微風が襲う。

彼女によって濡れた脚が夜風にあたって、とても耐えられないほど凍てつくのだ。

まだ気になることもある。だが、一刻も早く帰ってお風呂に入ろう。そう思って足が速くなる。

人魚と話した時間も、帰路の時間も同じくらいであるのに、体感では2倍にも3倍にもかんじる。これが相対性理論というものなのだろうか。

海の近いといっても、数分というわけでもなく、割と歩く上、坂も多い。

さらに足も濡れてかじかんで、歩くたびに氷を踏んでいるんじゃないかというほど痛みが走る。

坂を登り切る頃には、息が切れていた。己の不摂生さを痛感するとともに、達成感を味わってかじかんだ手を精一杯動かして鍵を開ける。

しかし案の定、母親の返事はない。

車もなかったし、恐らくまた浮気相手とホテルにでもいってるのだろうか。

こうなってくると薄々勘付いてはいたが、やはり、湯船には一滴もたまっていなかった。

いいなぁ、母親は今頃ホテルの湯船につかってるのかな。そう思いつつもシャワーを浴びないわけにも行かないので、仕方なく服を脱ぐ。さらに寒くなる。

しかし暖かいシャワーを頭に浴びると、そういう邪念も全て水とともに流れてゆく。

そして瞼を閉じると、今度は忘れかけられていた人魚との記憶が瞼経由で蘇る。

そうか名前、名前か。名前————

私の「ツキ」という名は、流産した兄である「太陽」から名付けられたと聞いたことがある。なんとも悪趣味だと今は思うが、両親はそれを美談であると考えているらしい。私も昔はそう解釈していたが。

幼稚園や小学校の「名前の由来を教えてもらいなさい」という課題では肩身が狭かった。(第一、肩身が広かったことはなかったわけだが。)

周りが「笑顔を振りまくように」だとか「すくすく育つように」だとか、そういう由来を述べている中、一人「死んだ兄の背中を追って」なんて、陰気臭いったらありゃしない。

幼稚園では回避できなかったが、小学校ではなんとか「夜道を照らすような輝かしい人になってほしい」と捻り出すことでやり過ごすことはできた。

だから、少なくとも由来については明るいものでありたい。

そして、私は犬や猫、ハムスター、金魚といった殆どのペットを飼ったことがない。

だから、そのような名付けのノウハウはないし、ましてや人間に相当する生物に名前をつけるなんて萎縮してしまう。

ただ、意外なことに名前の候補自体はオイル時計のように浮かび上がる。

アリスだの、ノアだの、ミトだの、ヨゾラだの......

湯気で曇ってしまったガラスに指で書く。

しかし、その全てがどこかペット的というか、薄っぺらく感じてしまうのだ。

彼女は、見た目で判断してしまうと、恐らく私と同じ年齢、つまり15まで名前という概念がなく生きてきたのだ。そんな彼女にただ浮かび上がっただけの名前をつけるというのはいささか無礼じゃないか。そういう考えが頭の中で反芻する。

「そもそも、一日で名前を考えろという方も無茶だ。」

コンディショナーを髪に浸透させているときそのような考えも浮かんだが、とはいえ考えないわけにも行かないので、英単語帳を開いたり、名前ランキングをしらべたりして、一ついい名前が浮かんだ。

「ルチア」

イタリア語で光という意味を指すらしく、あの子の輝き様にはピッタリだ。

何度も確かめるように、メモ帳に書いて、明日伝えるのが待ち遠しくなる。

きっと喜ぶだろう。いや、絶対喜ぶだろう。

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