マネージャーの訪問と話し合い
季節が梅雨入り前になった頃、そろそろ沢登りに向けたロープワークの訓練をしておこうかと、水城涼真は近場の岩場へロッククライミングをする日程調整をしていた。はじめてナイトハイクをしてテンションが上がっていた若宮朱莉は、ときどき水城涼真の部屋に訪問して「次の予定はありませんか?」と聞くことが多くなった。この日、水城涼真がロッククライミングをする場所を検討していると、また若宮朱莉が訪ねてきて「次、どこか行かないのですか?」と聞いてきた。
水城涼真「あんな、次の予定の前に、あんた芸能界の仕事はどないなってるん?」
若宮朱莉「大阪でのテレビ局でいくつか仕事はしていますのでご心配なさらず」
水城涼真「東京での仕事はもうするつもりないん?」
若宮朱莉「わたし、女優といっても、ドラマ撮影とかほとんどありませんので大丈夫です」
水城涼真「そう言っても、若宮さんの事務所って東京にあるんとちゃうの?」
若宮朱莉「専属事務所は東京ですが、大阪で仕事をする場合でも事務所を通しておけば全く問題はありません」
そういった話をしていると、一階からドアをドンドンと叩く音が聞こえてきた。水城涼真は「宅配便かな?」といいながら、一階の様子を確かめに外へ出て行った。すると灰色のストライプを着た30代くらいで、身長165cmくらいのパーマをかけてふわっとしたやさしげなウェーブのかかった髪型に黒縁メガネをかけて、口髭と短めのあご髭の卵型の顔をした男性が若宮朱莉の部屋である103号室のドアを叩いていた。その男性は必死に「朱莉ちゃん!」と叫んでいた。水城涼真はアパートの管理人として、すぐに103号室へ向かって、その男性に「あの・・・あなた誰ですか?ご近所迷惑にもなるんで、ドアを叩き続けるのはやめてほしいんです」と言った。するとその男性は「それは申し訳ありませんでした。わたくし、井野口晃と申しまして、若宮朱莉の専属マネージャーです」と言った。すぐに若宮朱莉も103号室へ走ってきて「井野口さん、こんなところまで何の御用でしょうか?」と言った。
井野口晃「朱莉ちゃん、こんな勝手なことされると困るよ。探すのにずいぶん苦労したんだよ」
若宮朱莉「勝ってなことって、わたし、何かいけないことをしましたか?」
井野口晃「僕に断りもなく大阪に引っ越したり、勝手に事務所を通して大阪の仕事を引き受けていたでしょ」
若宮朱莉「わたしの独断で大阪に引っ越しましたが、マネージャーに相談しても許してもらえないと判断したからそうしました」
井野口晃「朱莉ちゃん、今の立場を改めて考えてね。君は全国的には売れっ子のアイドルなんだよ。だから君は東京でたくさんの仕事をするべきなんだ」
そんな二人の会話をずっと聞いていた水城涼真は「お二人とも、そういう話をここでするのはよくないと思いますので、続きは私の部屋に入って話してくれますか?」と言った。二人とも納得した表情で水城涼真の部屋へ入った。水城涼真の部屋に入った二人は丸いテーブルに向かい合って座った。水城涼真は三人分のお茶を用意して、テーブルの間に座った。
若宮朱莉「わたしがどこに住むかは、わたしの意思で決めます。マネージャーは単に世間体を気にされているだけですよね?」
井野口晃「朱莉ちゃんには厳しいことを言うかもしれないけど、芸能界はそんなに甘い世界じゃないんだよ。東京でたくさんのオファーを受けている間に仕事をしておかないとこの業界では生きていけなくなるんだよ」
若宮朱莉「たとえ、芸能界で生きていけなったとしても、わたしはそれでもいいと思っています」
井野口晃「芸能界を引退することになったら困るのは朱莉ちゃんだよ。それに、そんなことになると事務所も困るんだよ」
若宮朱莉「やはり、マネージャーは世間体のことしか考えていないのですね。わたしは芸能活動が嫌になったわけではありませんが、もう自分の生きがいを見つけたのでその道に進んでいきたいと思っています」
井野口晃「それは朱莉ちゃんの一時の感情だと思う。だからね、今の立場をもう少し考えて東京に戻ってきてほしい」
若宮朱莉「マネージャーが言っているわたしの今の立場なんて、どうでもいいことだと思っています。それで業界にいられなくなっても構いません」
井野口晃「朱莉ちゃんは一時の気の迷いで頑固になっているとしか思えないんだよ。もう少し考えて東京に戻ってきてもらえないかな?」
この二人の話をずっと隣で聞き続けていた水城涼真はお茶を飲み干すと、湯呑をテーブルに叩きつけた。そして「ふぅー」とため息をつくと口を開いた。
水城涼真「こんなくだらない話をいつまで続けるつもりなん?」
若宮朱莉「涼真さん・・・」
水城涼真「マネージャーの井野口さんだっけ?そもそもあんたの目的って何なんですか?」
井野口晃「あの・・・わたくしの目的は朱莉ちゃんに東京に戻ってもらって、全国的な売れっ子アイドルという立場を維持させるために、仕事のオファーをたくさん受けてもらいたいのです」
水城涼真「全国的に売れっ子のアイドルかもしれんけど、本人がそんなもんに興味がないって言ってて、別の生きがいを見つけたって言ってんのに、それを否定する権利があんたにあるんですか?」
井野口晃「そうはいいましても、朱莉ちゃんは芸能界で光り輝かせられることができる可能性を秘めています。わたくしどもはその可能性を実現させたいと思っているだけです」
水城涼真「俺には芸能界がどんなもんかは知しませんけど、そんな可能性が秘められていたとしても、それは別に東京でなくてもできるやろうし、彼女は自分の生きがいを見つけてその道に進みたいといってる以上、そんなことはどうでもええこととちゃいますか?」
井野口晃「それは一理あるとしても、やはり東京で仕事をしていただきたいです」
水城涼真「東京で仕事をしてほしいっていうのはあくまでにあんたの希望でしょ。一理あるとかいいながら、所詮は金儲けのための道具にしかみてないとしか思えん」
井野口晃「水城さんといいましたか?あなた朱莉ちゃんに何かあって芸能活動ができなくなった時に責任を取っていただけるのですか?」
水城涼真「どうして俺が責任を取らないといけないんよ?彼女はもう未成年やないし、自分でやったことは自分で責任を取るべきなんとちゃうか?」
井野口晃「どうも水城さんは芸能界のことを理解されていないように思います。朱莉ちゃんが芸能活動が続けられなくなると私や事務所がどれほどの責任を負うことになるか考えてみてください」
水城涼真「あんたの本音はやっぱりそれなんやな。それやったら、彼女が今の芸能事務所を辞めたらそんな問題もなくなるやろ?若宮さん、それについてどう思う?」
若宮朱莉は少し難しい表情をしながら黙り込んでいた。芸能界の仕事に関しては好きでやっていることだが、今の事務所を辞めるということは全く考えていなかった。
若宮朱莉「涼真さん、わたしは芸能界の仕事はとても気に入っています。しかし、わたしが涼真さんのアウトドア仲間になろうとしたことはこういう人生を生きていこうと思って決心したことです。無理強いされて東京に戻れと言われるなら、今の事務所を辞めて、改めて大阪にある事務所に所属します」
井野口晃「朱莉ちゃん、それは本当に言ってるの?」
若宮朱莉「井野口マネージャーには申し訳ありませんが、そのようにさせていただきます」
井野口晃「ちょっと待ってほしい。だったら事務所と話し合って、今後の方針について話し合うから辞めるなんて言わないでほしい」
若宮朱莉「必要であれば東京まで行ってお仕事させていただきますので、わたしが決心したことについては、好きなようにさせてください」
井野口晃「わかったよ。とりあえず、今日のところは失礼させていただきます。大阪での仕事をする場合でも、必ず私を通すようにしてください。マネージャーを通していないと色々と問題がおきやすいからね」
若宮朱莉「それはすみません。今後はマネージャーを通すようにします」
そういう話をして落ち着いたところでマネージャーの井野口晃は部屋を出て行った。話が終わって身体の力が完全に抜けていた若宮朱莉は小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。水城涼真は「ふぅー」とため息をつきながら湯呑を集めて片付けをしていた。
若宮朱莉「涼真さん、わたしってやはり重荷になっているのでしょうか?」
水城涼真「重荷になってるとは思ってないけど、芸能界って面倒なことが多いんやなとは思ったよ」
若宮朱莉「ごめんなさい。わたしが芸能界で活動していることが問題であれば、引退することも考えるようにします」
水城涼真「まあ、そこまで考えんでもええけど、芸能界とアウトドア活動をうまく両立させれるようにちゃんと考えていくべきやとは思う」
若宮朱莉「はい。わかりました」
水城涼真「それで、次の土曜日に近くの山にロッククライミングに行きたいと思ってるんやけど、予定は空いてる?」
若宮朱莉「次の土曜日なら大丈夫です!ロッククライミングも楽しみです」
水城涼真「この前購入したロッククライミングの道具は忘れずに持ってきてほしい。最終的には奥立山という山に登って岩場を下っていく予定なんよ」
若宮朱莉「ヘルメットも必須ですよね?わかりました」
水城涼真「俺がロッククライミングするのは岩登りそのものに興味があるわけやないんよ。沢登りをするための訓練の一つやと思ってくれればええかな。あと新しい登山仲間を連れていくのでよろしく」
若宮朱莉「新しい登山仲間を紹介していただけるのですね。楽しみにしています!」
ロッククライミングとなれば、命を預ける行為になってしまう。今の水城涼真は全く若宮朱莉を信用しているとは言い難いだろう。そういう関係でありながら、若宮朱莉を連れていこうとしたのはどのような理由があるのだろうか。もう一人の登山仲間と連携しながら若宮朱莉の登山技術の向上を目的としているのか、今の段階では全くわからないことであった。