若宮朱莉、はじめてのナイトハイク
山行の決行日の日曜日、水城涼真は父親が残してくれた遺産の一つである紺色のコンパクトカーを出して、登山道具をトランクに積み込んでいた。登る山は滋賀県の琵琶湖に面した標高300メートルの山だが、調べても登山口がよくわからなかった。そこへ若宮朱莉がやってきて「いよいよ今日ですね」と言った。水城涼真は「今日の天候はちゃんと調べてきたか?」と質問すると、若宮朱莉は「今日は全国的に高気圧覆われていて、登山指数も問題ありませんでした。衛星画像からも夕立の危険性などはなさそうです」と答えた。それを聞いた水城涼真はさすがによく調べていると内心では関心していた。
水城涼真「わかった、若宮さんの荷物も車のトランクに積み込んでおいて」
若宮朱莉「はい!では失礼して荷物をお願いします」
水城涼真「そういえば若宮さんって今年で20歳になるんよね?今日、一緒に来る山仲間は若宮さんと同じ年の大学生なんよ」
若宮朱莉「へえーわたしと同じ年齢の方がいらっしゃるのですね」
水城涼真「それでも、俺が命を預けてもええと思ってる山仲間なんよ。長い付き合いになるかもしれんから仲良くしてな」
若宮朱莉「命を預けてもいいと思っている山仲間ですか・・・わかりました」
荷物を積み込むと時間的には少し早かったが、若宮朱莉を助手席に乗せて出発した。まずは1時間ほど先にある樫田祐の家の近くにあるコンビニエンスストアまで車を走らせた。若宮朱莉ははじめてのナイトハイクを体験できるということから、かなりテンションが上がっていた。ところが水城涼真はこれから迎えにいく樫田祐に全国的に有名なアイドルスターを連れていくことになった経緯をどのように説明すればいいのかわからず途方に暮れていた。そんな状態が車内で続いているとあっという間に待ち合わせ場所となっているコンビニエンスストアに到着した。
若宮朱莉「わたし、ちょっと飲み物を買ってきます。涼真さんは何がいいですか?」
水城涼真「若宮さん、あのね、あんたは有名なアイドルスターなんやから、無防備にこんなところで買い物なんてせんほうがええんとちゃうの?」
若宮朱莉「大丈夫ですよ。外を歩いていても、意外と気づかれることはありません。よく似ている人がいると思われることがあるくらいです」
水城涼真「だったら、俺はほうじ茶でいいよ。さっさと戻って車の中にいてほしいんよ」
若宮朱莉「わかりました。さっさと行ってきますね」
それからしばらくして、若宮朱莉は車に戻ってきた。樫田祐にはライムチャットで到着したと報告したのだが「しばらく待ってください」というメッセージが送られてきてから、数分が立った。そして黒髪で短髪のツーブロックに色白で切れ長の瞳のシャープな顔立ちをした身長は165cm未満で少しぷっくり体型、灰色のジャケットに少し濃い目の茶色のズボンを履いて緑色のザックを背負った男性が車の前までやってきた。これこそまさに樫田祐で、トランクを開けると「失礼します」といって荷物を積み込んだ。
樫田祐「涼真さん、お久しぶりです!今日は軽いナイトハイクだと聞きましたが、もう一人はもしかして彼女さんやったりします?」
水城涼真「樫田君、先日の山スキー以来やね。本当にお久しぶり!もう一人は彼女というよりわけありで連れていくことになったんよ」
樫田祐「わけありですか?とりあえず、車に乗ってから詳しい話を聞かせてもらいますわ」
樫田祐が後部座席に座って車を走らせた。助手席に座っていた若宮朱莉は「こんにちは」と挨拶した後に硬直状態になったかのように黙り込んでしまった。しばらく車内では沈黙が続いていたのだが、樫田祐が話を切り出した。
樫田祐「ところで、助手席に座ってる人ってどっかで見たことあるような気がするんですが、涼真さんのお知り合いですか?」
水城涼真「それについてなんやけど、樫田君を信用して話すけど、実は全国的に有名な女優の若宮朱莉さんなんよ」
樫田祐「あの有名な若宮朱莉さんですか!ちょっとびっくりしましたけど、どういうことなんですか?」
水城涼真「これにはちょっとした理由があるんよ・・・」
水城涼真は樫田祐に若宮朱莉がアウトドア仲間に入れてほしいために、わざわざ大阪へ引越ししたことや、その意気込みや経緯を説明した。樫田祐は一貫した姿勢でずっと話を聞いていた。そして、若宮朱莉が全くのアウトドアや登山素人であるという話もした上で、樫田祐は口を開いた。
樫田祐「涼真さん、別に構わんと思いますよ。ぼくらのようなことをしてる人ってごく少数じゃないですか?その仲間に入りたいという人は歓迎するべきやと思いますよ」
水城涼真「そうなんやけど、俺らは命がけでしてることもあるからな。その命がけでしてるって意味を理解してもらう必要があるんよね」
樫田祐「そこはこれから涼真さんが教えていけばええんとちゃいます?僕は仲間が増えることに賛成しますよ」
そこで黙っていた若宮朱莉が後部座席のほうに顔を向けた。
若宮朱莉「樫田祐さん、ありがとうございます!わたし、覚悟はできていますので今後ともよろしくお願いします」
樫田祐「若宮朱莉さんって同じ年齢やし、敬語使わなくてもええよ。これからもよろしくね」
若宮朱莉「わかりました。だったら樫田君と呼びますね。これからよろしくお願いします」
そういう話を聞いて水城涼真は心の中でほっとしていた。若宮朱莉という有名アイドルを目前とした樫田祐が全く動揺せずに、仲間に入りたいという人を灌漑するべきだと言ったことについて自分と同じ考え方でいるという安心感もあった。そんなことを考えているうちに、目的地の場所へたどり着いた。車のトランクから各自の荷物を下して登山の準備が整い、目的の夜景スポットに向かって歩き始めた。ところが、若宮朱莉はテンションが上がっていることもあり、歩くペースがかなり早い。
水城涼真「若宮さん、そんなペースで歩くとすぐに息切れしてしまうよ」
若宮朱莉「ワクワクしてついついはしゃいでしまいました。このペースで歩くのはよくありませんか?」
水城涼真「今日は、短い山行だけど、これが長い山行工程だと、そのペースで歩いたら息切れして、すぐバテてしまうんよ」
若宮朱莉「なるほど。息切れするとまずいですか?」
水城涼真「登山で息切れさせてしまったら、その先が続かなくなるんよ。だから息切れしないようにスローペースで歩くことが基本なんよ」
若宮朱莉「そうなんですね。わかしました。息切れしないペース配分で歩くようにします」
水城涼真「とにかく、今回は俺と樫田君の真ん中を歩いて、ついてくるようにして!」
若宮朱莉「わかりました」
水城涼真は厳しいことを言っているようだが、素人同然の若宮朱莉には一つ一つ教えていかないといけないということを意識していた。そして、よくわからなかった登山口に関しては、樫田祐が地図を確認して正確な位置を掴んだ。そこから登山道をひたすら歩き続けて、標高300メートル地点にさしかかったところで展望地を発見した。今回の夜景スポットはここで間違いないと確信した水城涼真は、ザックの中から一眼レフカメラを取り出して三脚に取り付けた。その展望台からは琵琶湖の南側から湖西までの広い視界、湖岸沿いに沿った景色が市街地の景色が一望できる場所であり、その周辺にそびえたつホテルや高層マンションが一望できる素晴らしい場所であった。そんな光景を眼下にした若宮朱莉は「すごい!こんな景色が見れる場所が存在していたことに驚きました」と呟きながらテンションが上がっていた。
水城涼真「これは新発見の場所やね!まだまだ探せば関西にもこんな場所があるかもしれんね」
樫田祐「たしかに未開拓の場所といってもいいですね。こんなところがあったとは関西もまだまだ捨てたもんじゃないですね」
若宮朱莉「ここは未だに誰も目にしたことない夜景というわけですね」
水城涼真「そうだよ。誰も見たことのない夜景なんよ。若宮さん、俺らはこういう場所を常に求めてアウトドア活動してるんよ」
若宮朱莉「わたし、ここの夜景を見て改めて思いました。やはり涼真さん達の仲間に入れてほしいです!」
水城涼真「若宮さんの意気込みはわかった。ただ、今回は単なるナイトハイクだったけど、もっと過酷なことをするから、そのことは頭に入れておいてほしい」
若宮朱莉「はい。覚悟はしています」
その後、水城涼真は夜景撮影を終了して、暗くなった登山道を下山することになった。各自がヘッドライトを装着して、ナイトハイクしていくことになったのだが、若宮朱莉の歩き方を見ていた水城涼真は「若宮さん、ナイトハイクでは常に自分の足元に注意しながらゆっくり歩くことが基本なんよ。今、木の根っこに引っかかって転びそうになったでしょ?」と言った。若宮朱莉は「ごめんなさい。木の根っこがあることはわかっていましたが、それを見落とすとは思いもしませんでした」といった。それを聞いた水城涼真は「ナイトハイクは足元を見落としによって、転倒してしまうのが一番危険だから、常に自分の足元に注意しながら歩いていく意識をしておかんといかんのよ」と厳しく言った。若宮朱莉は「ありがとうございます。その意識をしながらゆっくり歩いていくようします」と素直に答えた。
樫田祐「涼真さん、いつにも増して厳しい態度をとっていますが、若宮さんのこと、結構気に入ってるんじゃないですか?」
水城涼真「いや、彼女の意気込みは気に入ってるけど、ちゃんと教えていかなあかんっていう気持ちもあるんよ」
樫田祐「でも、売れっ子のアイドルらしいですから、芸能事務所からうるさく言われるんとちゃいますか?」
水城涼真「そうかもしれんけど、それは俺には関係ない話やし、それに彼女がこうしたいって決めた人生なんやったら、それは誰にも止められへんのとちゃうかな。そのつもりで俺はアパートの入居を許したんよ」
樫田祐「涼真さんの考えはわかりますが、芸能界は強引なことを平気でするような感じがしますけどね」
そういう話をしていると山を下って駐車場所へ辿り着いた。若宮朱莉は「今日はわたしにとって重要な経験をさせていただけました。本当にありがとうございました」と言って助手席に乗り、樫田祐はこっそりと「若宮さんにとって刺激的なナイトハイクになったみたいですね」と水城涼真の耳元で囁いた。たしかに水城涼真も今回のような夜景を目にしてかなりの刺激を受けたことは間違いなかった。しかし、樫田祐と話して心配事が増えてしまったのである。