アウトドア面接
若宮朱莉が入居してから3日目の朝を迎えた。全国的に有名なアイドルスターでも3日間、部屋から出てこない状態であった。水城涼真はこのアパートの大家でもあるので、入居手続きに関する書類を持ってくるようにと妹の志帆に伝えておいてもらうようにお願いした。
ちょうどお昼前になる11時を過ぎた頃、水城涼真の部屋のチャイムが鳴った。ドアが開くと上下とも黒いジャージ姿でマスクも外してポニーテールの若宮朱莉が目の前に立っていた。そして「涼真さん、書類を持ってきました」と若宮朱莉は笑顔で言った。水城涼真は「書類の確認もしたいし、聞きたいこともあるから、とりあえず中に入ってもらってもええかな?」と言うと、若宮朱莉は二コリとした表情で「はい」と答えた。
丸い木のテーブルに向かい合わせに座って、水城涼真はお茶を用意して運んできた。そして、若宮朱莉が持ってきた入居手続きに関する書類を確認すると、しっかり保証人の蘭には両親の執筆と印鑑が押されていた。これで入居に関する手続きは全く問題がなく入居手続きは完了した。しかし、肝心なのはアウトドア仲間になりたいという若宮朱莉の意気込みであった。そこで水城涼真はアウトドア面接という形で質問していくことにした。
水城涼真「本名は宮野朱莉さんというんやね。わかったけど、ここ数日は全く仕事をしてないように思えるんだけど、それは大丈夫なん?」
若宮朱莉「しばらく休日をいただきたいとマネージャーに伝えていて、了承を得ていますので大丈夫ですよ」
水城涼真「それなら問題なさそうやな。ところで若宮さんのアウトドアに関する経験と知識について聞きたいんやけど、時間は大丈夫?」
若宮朱莉「大丈夫です!」
水城涼真「まず聞きたいのは若宮さんの登山経験なんやけど、どこかの山に登った経験はある?」
若宮朱莉「ガイドさんと一緒でしたが、東京の高尾山に登りました。あとは丹沢山地というところにある大山というところにもガイドさんと一緒に登りました」
水城涼真「高尾山はどのルートで登って、どのルートで下ったん?」
若宮朱莉「たしか6号路という沢や滝のある道から登って4号路という大きな吊り橋のあるところから舗装道に出て下りました」
水城涼真「6号路から新しくできた4号路を経て最後は1号路で下ったわけか。大山はケーブルカーを利用して阿夫利神社から登って下ったんかな?」
若宮朱莉「大山のルートはよくわかりませんが、ケーブルカーに乗って登って、同じ道を下ってケーブルカーで下りました」
水城涼真「山に登った経験ってその二つだけなの?」
若宮朱莉「そうですね。マネージャーや事務所から怪我するようなことはしないようにと強く念を押されていましたので、なかなか山には行けなかったのです。それにしても、どうして関西に住んでる涼真さんが、高尾山のルートや丹沢山地のことを知っているのでしょうか?」
水城涼真「仕事で東京に取材に行くことが何度かあって、高尾山はあらゆるルートで登ったんだよ。あと丹沢に関しては、個人的な趣味で全主峰を登頂したからね」
若宮朱莉「さすがですね・・・」
水城涼真は若宮朱莉が完全な素人だとハッキリ認識することができた。現状、このような素人を仲間に入れて危険なルートに連れていくことはできないと判断した。しかし、自然の中で感じる非日常的な感覚を体験したいという若宮朱莉の願望を叶えてあげたいという気持ちもあった。
水城涼真「登山経験についての話はわかったんやけど、俺らのアウトドア仲間になったら、ガイドなんてもちろんいないし、自分のことは自分でする、協力体制で何かする時は、役割分担をしてそれぞれが自分の出来ることをしていくというスタイルになるんやけど、若宮さんはそうする覚悟はある?もちろん、ガイドより山に詳しくなるための勉強もしないといけない」
若宮朱莉「もちろんあります!そのために、わざわざ大阪に引越してきました」
水城涼真「わかった。じゃあ、若宮さんの持ってる登山道具について教えてもらってもええかな?」
若宮朱莉「わたし、そんなにたくさんの登山道具を持っているわけではありませんが、えっと、30リットルのザックにキャップ型の帽子、指ぬきグローブ、フットが軽いトレッキングシューズを持っています」
水城涼真「なるほど。外見を守るための道具は持ってるみたいだけど、基本的なものは持ってないんやな」
若宮朱莉「基本的なものとは何でしょうか?」
水城涼真「レインジャケットとヘッドライトだよ。この二つは登山道具では必ず携行しておかないといけない。それにその様子だとロールも持って行ってないみたいやね」
若宮朱莉「雨具とヘッドライトですね。ロールって何でしょうか?」
水城涼真「ロールっていうのは、いわゆるトイレットペーパーのことやね。芯を抜いたトイレットペーパーをジップロックに入れて持っていくのも基本なんよ」
若宮朱莉「トイレットペーパーはかさばりませんか?」
水城涼真「芯を抜いておけばかさばらないし、山でトイレに行きたくなったりした時や鼻をかみたい時、クッカーの掃除をするときにかなり使えるんだよ」
若宮朱莉「なるほどです。ロールは部屋にありますが、レインジャケットとヘッドライトはすぐに購入します」
水城涼真「まずはその二つを手に入れないと話にならない。ちなみにレインジャケットはゴアテックスか、それに相当するものじゃないとあかんよ。そうでないと、汗で蒸れた時に困る。ヘッドライトは200ルーメン以上の明るさのものがええね」
若宮朱莉「あ、あの・・・よろしければ、登山道具の買い物、一緒に来ていただけないでしょうか?」
水城涼真「今は仕事もそんなに追い込まれている状態でもないから、別にええけど、登山道具って思ってるより高いよ?金銭的には大丈夫なん?」
若宮朱莉「貯金なら200万円以上ありますので、その範囲内であれば大丈夫です!」
貯金が200万円以上と聞いた水城涼真は心の中でかなり驚いた。全国的に売れっ子のアイドルスターとはそういうものなのかと感じながらも、芸能界のことにあまり詳しくないということもあって、金銭的なことについてはよくわからなかった。
その日、お互いに暇だったということもあって、水城涼真と若宮朱莉の二人は近くの登山ショップへ足を運んだ。ここの登山ショップはアウトレット商品も扱っていて、商品によっては格安で手に入れることができる。アウトレット商品を見ていると若宮朱莉はピンク色とグレーの柄が入ったレインジャケットが気に入ったようで、サイズを確認して買い物かごに入れた。続いて、ヘッドライトに関しては黒色で200ルーメンのヘッドライトが3割引きになっていたので、買い物かごに入れた。
若宮朱莉「予想よりずっと格安で手に入れることができました。他に必要なものってありますか?」
水城涼真「若宮さんは本当に俺らの仲間になって命をかける覚悟はあるの?」
若宮朱莉「もちろん、その覚悟はあります!」
水城涼真「だったら、クライミング道具も買っておこうか」
若宮朱莉「クライミング道具ですか?」
登山ショップに入ると水城涼真のテンションは上がってしまう。今後、どうなるかわからないが若宮朱莉にクライミング道具を買わせようと思った理由は、自然の中で感じる非日常的な感覚を体験したいという言葉を本気で受けとめていたからだ。水城涼真は登山ショップで詳しそうな店員を呼び出した。そして、「この子のサイズに合うハーネスをさがしているんですが、ハーネスによってサイズって違いますよね?」と聞いてみると店員は「そうですね。結構細身の体型をしていますので、こちらのハーネスなどいかがでしょうか?」と白に少しピンク柄のついたハーネスを持ってきた。
水城涼真「その恰好のままでいいから、これを履いてみて」
若宮朱莉「こうでしょうか?」
店員はハーネスのベルトを少し閉めて「サイズ的にはぴったりですね」と言った。
水城涼真「よし!ハーネスはそれでいいので、これも買っておいて」
若宮朱莉「これ、何に使うものなのでしょうか?」
水城涼真「これは岩登りや沢登りの時に使う安全器具といえばいいんかな」
若宮朱莉「なるほど!わかりました」
水城涼真「あとは適切なカラビナ2つ、ATCとスリングやね」
若宮朱莉「よくわかりませんので、涼真さんにお願いします」
水城涼真「ATCというのはビレイという人を確保したり、岩を下降するときに使う道具で、それに必要なのがカラビナ。スリングというのは強度のあるテープ状になった紐のことで岩登りや沢、登山などいろんな場所で使われてるんよ」
若宮朱莉「こういう道具を購入するということは、岩登りに連れていっていただけるのでしょうか?」
水城涼真「それはまだ約束できない。とりあえず、買うものはあとヘルメットだけやね。ヘルメットは好きなのを選んでくればええよ」
若宮朱莉「わかりました。ヘルメットを選んで早速レジに行ってきます!」
水城涼真は面倒な表情をしながら「これからど素人に教えるなんて面倒だ」と心の中で感じていた。自分達は明らかに普通の登山者が行っているようなことはあまりすることがない。取材に応じてすることがあったとしても、それは仕事と割り切っている。夏がくれば沢登りを中心に行っていくが、生命の危機を感じさせるようなところにも行くことがあり、ダイビングも人のいない場所まで移動して酸素ボンベなど使わないスキンダイビングをする。客観的に見れば過酷なことをしているのだ。そういうことを素人に教えて仲間にすることはできるのか、正直不安である。
若宮朱莉「涼真さん、買い物が終わりました」
水城涼真「お疲れさん。ところで若宮さんは泳いだりスキーやスノーボードはできるん?」
若宮朱莉「ずっと水泳を習っていましたので泳ぎには自信がありますが、スキーは学生の頃に林間学習で少し学んで、少しは滑れるようになりましたが、スノーボードの経験はありません」
水城涼真「わかった。だったら若宮さんにはスキーを教えるよ」
若宮朱莉「ありがとうございます」
水城涼真「早速だけど、次の日曜日に新しく発見した夜景スポットがあるんやけど、一緒に行ってみる?」
若宮朱莉「是非、ご一緒させてください!」
水城涼真「それまでにヘッドライトの使い方を覚えておくことと、予備の電池を買って携行しておくことを忘れんといて!」
若宮朱莉「それってナイトハイクをすることになるわけですね」
水城涼真「登りは明るいうちに登って、下山はナイトハイクになるね」
若宮朱莉「楽しみにしています!」
水城涼真「その日の天候状況もちゃんと把握しておかんといかんで!」
若宮朱莉「わかりました」
以前から予定していたナイトハイクだが、あらかじめ調べておいた情報では、そこまで難易度の高い山でもなく素人を連れていけるレベルなのだ。しかし、その日の山行は水城涼真の友達である大学生の樫田祐と一緒に行くことになっていた。一応、樫田祐にはもう一人連れていくという連絡をしておいたが、全国的に有名なアイドルで登山は素人の若宮朱莉を一緒に連れて行くとなれば樫田祐はどう思うのか、水城涼真はそれだけが心配だった。