一話 神の器は慟哭する
「ーーうぇっ…まってッ…ひぐ…」
暗い樹林の底。
樹々が生い茂り、薄寒い空気の中で、少女は酷く強い、寂寞の思いに囚われていた。
少女はただひたすらに泣いた。
もはや自分が先ほどと違う場所に転移していることすらも、嗚咽の原因に比べてみれば、そんなことなど至極どうでもよかった。
それほどまでに少女の心を深く傷付けたそれ。一言で表すならばーー喪失感。
少女がとてつもない喪失感を感じているのは、少女から主人が抜けたことに起因している。いや、それこそが原因である。
少女の主人は少女を創り、様々なことを教えてくれた。
それは少女にとって、かけがえのない宝物であり、最も失いたくないものでもあった。
しかし、最後の瞬間はいつだって無常にもやってきてしまうものだ。
「はぁ…。8年か。長いようで短かったな。ごめんな、最後まで一緒にいてやれなくて」
主人がそう話を切り出したとき、少女は何も言うことができなかった。
「…っと、こんな時間か…長い間、ありがとう。そうだな。また、次のげーむで会おう。絶対次回作で会おうな」
そんな突然の決別の言葉は少女の心を深く抉った。
少女の存在意義は主人の器として、主人の手と足となり、主人を楽しませる事だった。
「あ…あぁ……」
かつての輝かしい思い出が水面を揺蕩う泡沫のように消えてゆく。
「…つ…うぐっ次っていつなんです、っか…」
これまでは器として主人を宿している時以外でも繋がりを感じられた。
しかし今、その繋がりは完全に潰えた。
そして、なぜか全く再び繋がる気がしないのだ。
ーー謝るくらいなら置いて行かないで。
少女の頭はどれだけ何を考えても結局はその言葉に辿り着かばかりでまともな思考など出来ようはずもなかった。
しかし、それも外部の者によって唐突の終わりを迎える。
薄明るかった周囲が、唐突に影に呑まれる。その光景は、昼夜が急に逆転したようにも見える。
樹々や歯が陽光を遮る樹林の中であっても、その移り変わりはよくわかった。
少女は辺りを見渡す。
知らない場所だ。
少女は上を見上げる。
ーー山が浮かんでいた。
いや、何かの生物なのだろうが、大きすぎて山としか表現のしようがない。実際、少女を取り囲む影を作ったのはその山のような身体のほんの一部に過ぎない。
少女の本能が警鐘を鳴らす。
ーーアレはまずいと。
大きさとは力だ。
山ほど巨大なその質量で踏み潰されれば、どんな生物でも即死級の、最強の攻撃となり得る。
ーー主人の最後の言葉を思い出す。
主人は少女に次また会おうと言った。
主人が次また会うと言ったからには、まだ死ぬわけにいかない。そう。これは主人からの命令だ。
再び会うことができるまで死ぬわけにはいかないのだ。
その思いが少女の脚を強く、速く動かした。
そう時間のかからないうちに、少女は山の見えない位置まで逃げてくることができた。
しかし、いまだに見知らぬ深い樹林から出るには至らない。
少女はひとまず、主人のことを忘れることはできないので、主人のことを考えつつも、自分の状況を整理する。
先ほどーー主人と別れる前までは自分の城にいたはずだ。しかし、主人との最後の時間を終えたと同時かそれ以前、もしくはその後に、全く知らない樹林に転移していた。
「えっと、転移…ということは、人為的なトラップ、でしょうか…?」
涙は走る中で止まっていた。
走ったことによって多少頭の冷えた少女は辺りを見渡す。
深い樹林だ。それも、湿度が高く衣服が肌にまとわりつく感覚を覚える。ーー気温は植物にとっては最適なのだろう。
ーー熱帯雨林。かつて、世界の端に行った際に主人と共に潜ったが、金属よりも硬い樹と永遠に追いかけてくる蔦。
そして何より、透明な毒の霧が厄介だったと記憶している。
しかし、この熱帯雨林にはそんな厄介な要素を感じない。
臨床にあたる部分も苔やキノコが見受けられるが、毒などは発していないように思える。
樹の硬さを確かめるため、素手ーーは汚れるとイヤなので、インベントリから手袋を取り出すーーインベントリを開くことに対して、なんの躊躇も疑問もなかった。
そして、無造作に樹の幹を掴んだ。
手のひらに収まりきらないサイズの樹の幹を掴むその行為は、側から見たら樹に手を添える少女に映るだろうが、その手を添えただけの動作で少女は手のひらいっぱいの樹皮をむしり取った。
「あ、あれ?あ、案外、柔らかいんですね」
少女は少し拍子抜けして、むしった樹皮をくしゃくしゃと握りーーすぐに汚いと思い捨てた。
毒霧も永遠に絡まる蔦もない。そして、樹の硬さも自身が知る中ではかなり柔らかい。
そしてそれは今までの経験上、ここには強いモンスターが出現する可能性が低いだろう、という憶測が立つ。
「ふぅ…」
思わず安堵の息が漏れる。
やっと初めて、少しだけ恐怖や不安から解放されたのだ。
しかし多少、我が身が安全だとしれただけで根本的な問題は解決しない。
「ここ…どこなんでしょうか…」
少女はふと、空を見て違和感に気づく。
「えっ…。太陽が…環状…?」
今まで形の変わることのなかった、絶対の信頼をおける太陽が、まるで中央を大きくくり抜いたような輪の形をしていた。
そんな摩訶不思議に少女の中に先ほど生じた、安堵や安心と言った感情は、急に牙を剥いて再び恐怖なり不安なりへと豹変した。
恐怖と不安は少女を一旦冷静にさせ、幸か不幸か新たな気づきをもたらした。
「え、あ…暗くなっているのに、た、太陽が動いて…いな…い?」
そう。見知った太陽はその見知った形ではなく、更にはその自転さえも止まってしまっていた。
ここに来て初めて、この世界が本当に自分の知らない世界なのだと実感が湧く。
その実感は恐怖と不安を大きく、強大に育て上げた。
ーー黄昏時と呼ぶに等しい赤い光がどこからか降り注ぎ、樹林の至る所に大きな影を作るころ、再びようやく落ち着いた少女は、自身に近寄る存在に気がついた。
少女は急いで自分の手形のある、樹の枝に登り腰掛ける。
夜目は効く。しかし、少女は知っている。
一部の生物には、影や闇に潜み、ただ夜目が効くだけではでは認識できない者も居ると。
逆に、夜目が効き、影や闇に潜む者を認識できる者も。
だから少女は何もしない。ただ、樹の枝に座るだけだ。決して隠れられる方法がないからではない。
もし、相手が知的生物の場合、こちらが不自然に隠れていると、自ら敵だと言っているようなものだからだ。
自分より強い者との戦闘は絶対に避けたいが故、このような思い切った作戦に出たのだった。
少女の頭は不安ではち切れそうだ。
ある程度、このあたりのレベルはわかったが、実際に敵と出会したわけではない。
もし、強いモンスターが出てきて、突進でもされたらこの柔らかい樹では耐えられないかもしれない。
そんなことを考えていると、ガサリ。と、とうとう葉の掠れることが耳に入り、少女の不安は最高潮に達する。
ガサリ、ガサリと確実に何かが近づいてくる音。
「…ひッ」
もはや悲鳴を抑えることすら必死の少女の前に姿を現したのは、5メートルほどの豚だった。数は一匹。
そのあまり強くなさそうな外見に少女は何度目かの安堵を覚える。
しかし、油断してはいけないと必死に豚を見つめる。
ーーもしかしたら、羽が生えて飛んでくるかもしれないし、胴体が伸びるのかもしれない。
無駄な接触は豚の本質が見抜けぬ今、控えるべきであろう。
攻撃を加えることも考えたが、豚の戦力がわからない現状、やるべきではない。
最優先は見ることだと自分に言い聞かせて必死に観察する。
豚は、先ほど少女がむしった樹皮の間に見える白い繊維質の辺材部位を齧り始めた。
この周囲の動物たちはこう言った物を食べているのだろうか、と少女は思う。そして、そうならばあまり樹林に変なことをしない方が賢いと心に誓った。
豚は少女に気がついていないのか、はたまた気付きながらもわざと無視をしているのかわからなかったが、気づいていないように、少女の目には映った。
豚はその後、一度顔を出して、辺りを見渡してから再び食べ始めた。
ーーレベルは高そうには見えない。
隠密もあの巨躯で、そうできるとも思わない。
だからと言って、必ずしもそうとは限らないと少女は知っている。
ここは、バレていないことに賭けて、豚が居なくなるのを待つべきだろう。
結論を言うと、豚はその後すぐにその場から立ち去った。
見たところ、たらふく食べて満足した、と言ったところだろう。
結局、互いに不干渉のまま終わったのだった。
ほんまに使い方がよくわからんのです…。修正箇所等ありましたらどしどしお言い付けくださいまし。