第十章 夏の日々 2
読んでくださる方々に感謝です!
今回は決勝大会なのですが、スポ根(古!)ものとしてはあっけなく優勝してしまいます。
それほど絶対王者は絶対なのでしょう。
で、今回恵ちゃんの妹、美咲ちゃんにやっと出番がきました。
「お人形のような美人」で、谷山の試合には毎回応援に来るいい子なのですが、実は・・・
迷いましたが、ネタ明かししましょう。中学編には、彼女の出番はほぼないため、こまかな描写もなくわかりにくいですから。
実は、お姉ちゃんから谷山の略奪を夢見る小悪魔的美少女なのです。(そういう設定です)
と、いうわけで今回は恋の行方をお楽しみください。
あ、それから新田編を読んでいただいた方はご存じだと思いますが、新聞部期待の新星、田原も初登場です。
よろしくお願いします。
第一章 桜の花のあと
第二章 絶対王者
第三章 グランドスラム
第四章 阿部先輩
第五章 三日月の夜
第六章 死闘ふたたび
第七章 奇跡の硬球ふたたび
第八章 クロスファイアー
第九章 酔いどれ記者
第十章 夏の日々 (今回はここの一部です)
第十一章 鬼柴田
第十二章 全面戦争
第十三章 池のほとりで
第十四章 決勝へ
第十五章 決 勝
第十六章 まだまだ
翌日。
野球部は練習のため登校したが、夏休みなので当然一般生徒はおらず、新聞部もお休みだから、恒例の校内新聞もなかった。予選大会とは言え、せっかく優勝したのに、ちょっと残念だ。
ともあれ、決勝大会は1週間後だから、練習には熱が入った。ピッチャーグループでは、吉岡が伝家の宝刀カーブをマスターしたし、僕は投内連携に明け暮れたし、本田先輩は、まあ、おいといて、氷山先輩は1日に1回必ず顔を出して僕らにいろいろと教えてくれた。それにキャプテンは、サディスティックな笑みとともに相変わらずタイヤ引きやらウサギ跳びやらを命じていて、基礎体力の向上に役立った(と思う)。横川先輩は、近頃バッティングピッチャーすら務めている。心配だった吉永も、相変わらず笑顔を振りまきながら要領を得ない動きを見せている。
そんな毎日が当たり前のように感じ始めた頃。その存在を忘れかけていた阿部先輩が突然現れた。
「おつかれ~」
などと声をかけながらグランドに姿を現すと、1塁側のベンチ辺りまで来て僕の方を見た。僕はマウンドにいたから頭だけ下げて会釈した。後ろにいる人は誰だろう。僕がそう思うと、近くにいた吉岡が声をあげた。
「田原、おまえ何やってんだ」
たはら・・・聞き覚えがあるようなないような。その人は聞き取れないほど小さな声で短く答えた。
「取材」
「あ?何?取材?」
「そう」
阿部先輩が笑いながら言った。
「そうよ吉岡君、よろしくね。私の後継者だから。谷山君もね」
思い出した。阿部先輩が言っていた人だ。
「大丈夫か田原。無口なおまえが」
「大丈夫。たぶん」
「大丈夫よ。思いつめたら突進するタイプだし、的確な質問だってできるし。新聞部の期待の新星なんだからね。私が保証するわ」
遠くからキャプテンが怒鳴った。
「やかましい。今は練習中だ。後にしてくれ!」
「そうね。じゃあまた後で。決勝大会へ向けて抱負を聞かせてね。谷山君」
キャプテンが、また怒鳴った。
「俺のところに来い!」
阿部先輩は笑いながら、無表情のままの田原を連れて帰っていった。
「まあ確かに頭はいいけど、あいつ本当に大丈夫か」
吉岡がそうつぶやいていた。
ショートカットで無表情でメガネをかけた小柄な女の子。僕の田原への第一印象はそんなところだった。はてさて、吉岡との関係は?などと勘ぐりはやめにして、練習練習。
練習後、僕は部室で取材を受けることになった。おまけに(と言ったら失礼だけど)唯一の2年生レギュラーである神崎先輩も呼ばれていた。僕はありきたりに、抱負を述べて終わったのだが、神崎先輩は、オンボロ野球部がなぜ立ち直ったのか、どんな努力をしているのか、具体的に何がきついかなど、思いもよらぬ質問攻めに遭っていて、先輩もついつい語っていた。
優勝できて当たり前と思っていたものの、できなかった小学校時代の悔しさ。夢を掴むことすら忘れていた自分。後輩たちに触発されて、もう一度夢を見る勇気を持ち得た自分。そうした先輩の心情を、田原はあいづちを適度に交えながら引き出していった。今までとは違う切り口の企画だなと思った。それにしても田原はなかなかだ。阿部先輩に見込まれただけはある。ただ、雰囲気が冷たく、無機質で、質問内容もキレ過ぎていて鼻につくような印象を受けた。その辺りが阿部先輩との違いだな。
さて、季節は夏で、当然のように暑かった。セミの鳴き声もキャプテンの怒鳴り声も、風物詩よろしく存在し、ともにやかましかった。テレビでは甲子園大会が佳境にさしかかる頃、僕らも決勝大会を迎えた。
会場は県営球場。これから5日間に渡って行われる。岩松兄弟は来ているかな?彼らは東ブロックのはずだ。しかし校名は知らないから見つけ出すしかない。開会式前の雑踏の中、僕は彼らを捜したが、とうとう分からなかった。勝ち残れなかったのか?それなら仕方ないけど・・・。
開会式が始まり、入場行進し、知らない人が代表宣誓し、それはつつがなく終わった。
僕らは今日の第4試合。南ブロックの2位とあたるそうだ。時間があるためひとまず学校に戻って軽めの練習と昼食をとる予定だから、一旦県営球場をあとにした。
再び県営球場に来たのは、午後2時くらいだった。場内には入らず、隣接する公園で軽めのストレッチをする。
小学校の秋季大会から10ヶ月。あの時はここで、母さんや恵ちゃんたちと一緒に昼食をとった。僕は昨日のことのように覚えている。これから何回、そうした思い出ができるんだろうな。できれば、いつもいい思い出にしたいから、今日も勝たなきゃ。ひとつずつだ。
しばらくして、はるちゃんが対戦校のことを教えてくれた。精密かつ豊富なデータというわけではなく、知りうる限りのごくアバウトなものだった。それによると、特別意識するほどの相手ではなさそうだ。リラックスして臨めば大丈夫らしい。まあ今更緊張することもないけど。
しかし、その考えはちょっと甘かったかも知れない。というのも対戦校云々ではなく、ギャラリーが半端じゃなかった。親衛隊やファンクラブはもちろん、北峰や中島(なんと1軍!)の選手、それに新聞記者やらスカウトやらと思われるなにやら胡散臭い知らないおじさんたちが大勢来ていた。2軍とはいえ中島相手に危なげなく勝った僕らに注目が集まっているようだ。そんな状況だから、緊張するなという方がおかしい。
「やっぱり谷山君だよ。注目されているのは」
新田はそう言って笑っていた。そうかな。僕は氷山先輩だろうと思った。まあ、いいさ。どっちでも。試合に勝って優勝できればそれでいい。
今日のオーダーが、監督より発表された。
1番センター、ガンちゃん。
2番二塁、まっちゃん。
3番ライト、僕。
4番ピッチャー、氷山先輩。
5番一塁、田所キャプテン。
6番三塁、やまちゃん。
7番ショート、田中。
8番レフト、神崎先輩。
9番キャッチャー、はるちゃん。
結局、奇襲も奇策もないベストメンバーに落ち着いた。4番に氷山先輩が入るということは、早い回から僕との交代もありうる。なりふり構わず勝ちにいく攻撃的なオーダーだ。そして試合前の独特な重苦しい時間から解放される時がやってきた。
プレイボールだ。
僕は欣喜雀躍よろしく、グランドに飛び出した。ベストメンバーの僕らはつぇーぞー。
案の定、先攻の僕らは、1・2番コンビのいつもの攻撃であっという間に1アウト3塁。既に肩で息をしている相手投手にたたみかけるように3・4番コンビの連打で先制。さらにはキャプテンが走者一掃の2塁打を放って、あっという間に3点だ。やまちゃんも、田中も続き、神崎先輩は討ちとられたが、マシンガンのような打線は、1回だけで5点も取った。場内がざわついてきた。初めて見る者は、あまりにも水際だった攻撃に驚いたことだろう。
これは予選ではなく、決勝大会なのだ。そして今日の氷山先輩はできがいい。前回立ち上がりを狙われた経験をいかして、初回からとばしていた。ダッグアウトに引きあげてきた時、先輩はタオルを使いながら話しかけてきた。
「谷山、吉岡、とにかく俺はいけるところまでとばしていくからな。あとは頼むぞ」
任せてください。僕はそのつもりで首をたてに振った。吉岡もだ。
思えば僕と氷山先輩に吉岡がからむことで投手陣の層が厚くなる。例の伝家の宝刀カーブをマスターした吉岡は今、昇り調子だ。そうだ。先発だけじゃない。控えの選手だって吉岡はもちろん、外野なら白石、新田、内野にはユーティリティプレイヤーの上田がいる。いつの間にか僕らはレギュラー1枚看板のチームではなくなっていた。
氷山先輩は、6回まで投げた。7・8回は吉岡がマウンドにあがり、2点は返されたものの、僕らも追加点を取って、6−2。9回には僕がマウンドに、ライトへは白石が入った。僕はぴしゃりと3人でしめ、決勝大会1回戦を突破した。
その日、試合後は早々と解散した。
明日は試合がないし、ちょとだけ休息の意味もあった。明日の午後から軽めの練習をするそうだ。
夏の陽は長いから、まだ明々とした帰り道を僕は白石と連れだって帰っていた。久しぶりに買い食いしようぜと白石が言うので、僕は小学時代のいつもの駄菓子屋に行くのかと思ったら、初めて行くタコ焼き屋に案内された。
そのタコ焼き屋は、通学路の道一本向こうにあって、古い木造モルタル2階建てで、その1階が店舗になっていた。入り口の横で五十代くらいのおばちゃんが焼いている。入ってすぐのところにはテーブル席がふたつあり、奥が座敷席になっていた。テーブル席は満員だったので僕らは座敷席にあがった。
「こんな店、よく知っていたな。いつも来るのか」
「ああ。たまにだけどな。クラスメイトに教えてもらったんだ。ここは安いしボリュームあるし」
「そうか」
「一串3玉で十円なんだぜ」
「ほんとか」
僕の顔もおもわずゆるんだ。当時でも、魅力的な値段だった。
「それに、妹が好きなんだ。ここのタコ焼き。おみやげも買って帰る」
あ、そうか。と僕にはわかった。今日は白石の母親が残業の日で、夕食のつなぎに買って帰るつもりなんだ。小学時代も駄菓子屋でパンを買って帰ってたもんな。白石は。ひとまず僕らは3本ずつと、おみやげ用に6本注文した。セルフサービスの水を1杯飲んだ頃に、うまそうなソースの匂いとともにタコ焼きが運ばれてきた。それは、外側はパリパリで、中はとろりとして、中くらいのタコとたくあんが入っていた。
「うまい」僕が思わずそう言うと、
「だろ?」と白石が言った。
甘辛ソースに加え、青のりと魚粉のかかり具合もうまさを引き立てていた。僕はあっという間にたいらげ、「あと何本かいくか?」と聞いたが、白石は首を横に振った。
「妹が待っているから」
「あ、そうか。じゃあ、急いで帰らないと」
「悪いな、つきあわせておいて」
「いや、いいさ。うまいタコ焼きだったし」
そうこうしているうちにおみやげの包みもでき、僕らは早々に店を出た。
白石の妹、なおちゃんはまだ小学3年生だ。ひとりで留守番はさびしいだろう。白石が大事そうに抱えているその小さな包みが、なおちゃんを笑顔にしてくれるのだろう。そう思うと、僕は少しでも早く白石が帰れるように「よし、競走だ!」と叫んで走り出した。
「あ、ちょっと待て。荷物があるじゃねえか」
白石はそう言いながらもタコ焼きの包みをしっかり持ってついてきた。辺りは、あかね色に染まっていた。
2回戦は西ブロックの代表とあたる。
僕らは彼らの練習を見ていたが、彼らも僕らの敵じゃないことくらいわかった。
「今日も楽勝のようだね」と新田が言った。
新田もずいぶん言うようになったなあと思う。でも確かに僕らはそう言えるだけの練習をしてきたつもりだ。今やオンボロ野球部の面影はない。不思議と僕には1回戦の時のあの重苦しさはなく、試合前からリラックスできていた。やはり緒戦の段階ではいろいろと無意識のうちにプレッシャーを感じていたようだ。
試合が始まった。
4回までに僕らは3点とって主導権を握った。今日も先発は氷山先輩だ。次々と力でねじ伏せていくその姿は、遠くから見ていても身震いするほど格好良かった。親衛隊のボルテージが上がるのも納得できる。そして前回と同じように7回から吉岡がマウンドに上がった。氷山先輩ほど鮮やかではなかったが、変化球主体に丁寧に組み立て、今日はとうとう9回まで無失点で投げ抜いた。
さあ、次の準決勝は北峰だ。次は先発しろと、僕はヨッパライから指示された。
夜、いつもの壁あてをやった。
先発前夜だから右はせず、左だけ。それに奇跡の硬球を使っている。このボールと毎日欠かさないウェイトのおかげで、初めはあんなにぎこちなかった僕の左も、ずいぶんさまになってきた。制球力も右ほどじゃないけど、いい感じだ。明日はまた「のらりくらり」の投球になるだろうから、制球力に自信があるのはいいことだ。僕は五十球目から普通の軟式球に持ち替え、全力投球した。その十球目。会心のクロスファイアーが決まった。
「よし!」
僕は思わず声を出した。さあ、今日はこれくらいでいいだろう。
満足感の中、仰向けに寝転んだ。
夏の生あたたかな空気の向こうに星がまたたいていた。そして、鈴虫の鳴き声も聞こえた。ああ、もう鳴いているんだ。季節は早いな。ふと、僕がここでこうしているのは何年目で、何回目なんだろうと思った。大雨の日以外は大体いるから、年に三百日はいるのかなあ。すごい数だな。そういえば、中学になってから恵ちゃんはここにあまり来なくなった。二人でここにいる時は結構楽しかったのに。恵ちゃんも忙しいのだろうから、仕方ないな。
さて、じゃあもう帰ろう。ちょっとだけでも勉強しないと母さんがうるさいし。いつものようにうさぎ跳びしながら家に帰った。
翌日。準決勝の日。
朝学校に集合してから意外な話を聞いた。てっきり北峰が相手だと思っていたのに、どうも違うらしい。激しい打ち合いのすえ、8−7で東ブロックのチームが勝ったそうだ。一体どうしたらあの投手から8点もとれるのか。誰彼となく聞きたがった。六家先生も詳しくは知らず、僕らは狐につままれたような気持ちだった。ある意味拍子抜けしたし、ある意味ではそんなに打線がいいチームなのかと緊張もした。
僕らが球場に着くと、中島中が同じ中央ブロックの代表と戦っていた。そうだよな。順当にいけば、ベスト4は全て激戦区を勝ち抜いた中央ブロックになるはずなんだ。過去もそうだったらしいし、北峰は弱いチームじゃない。
僕らがスタンドから見学していると、新田が中島応援団の連中から情報を仕入れてきた。先ず、あのナンバー1ピッチャーは投げなかったそうだ。どうやら怪我をしたらしい。東ブロックのチームは、その地区大会準決勝で、ぽっと出のやたら強いチームとの死闘を制して勢いに乗っているということだった。とにかくその試合で開眼したような打線が売り物らしい。
「なんか、面白そうだな」
やまやまちゃんがそう言うと、みんなも口を開いた。
「勢いだけで俺らはとめられない」
「でも勢いは大切だよ」
「不思議な話もあるんだね」
みんな思い思いにとりとめも無いような話に興じていた。「とにかくね、」と新田が言った。
「一度火を点けると止まらないようなノリのいい打線らしいよ」
「そう言えば、北峰のあのニヤついた男たちも小学時代、そんなチームだったよな」
「あの時は、はるちゃんが試合中に冷静に分析してあいつらの弱点を突き止めたんだ」
横川先輩が口をはさんだ。
「へぇ~、あんたたち、小学校でそんなことまでしていたの」
やまちゃんがむきになって言い返した。
「だから、先輩は俺らの激闘の数々を知らねぇだろうって。簡単に横綱相撲はできねえよ。みんな必死でやってたんだ」
横川先輩は笑った。
「じゃあ、合宿でその辺りの話、よろしくね。楽しみにしてるわ」
吉永も口をはさんだ。
「いい話ですね。憧れます。かっこいいです」
その時、反対側のスタンドに東ブロックの連中らしき一団が現れた。こいつらか。僕がそう思った連中は、どいつもこいつもワルそうな顔をしていた。
第一試合も終盤となり、僕らは隣接する公園でウォームアップを始めた。
何本かダッシュした頃、私服姿のニヤついた男がやってきた。何か言いたそうだったが、言い出せないでいるような感じだった。
「残念だったな」
僕がそう声をかけると、やっとその重い口を開いた。
「負け惜しみに聞こえるかもしれないが、」
ニヤついた男はそこまで言って悔しそうに唇をかみしめた。
「あのエースが投げられなかったんだろう?仕方ないさ」
「いや、そうじゃない。きっとわざとだ。あいつらわざとビーンボールで葛城先輩をつぶしたんだ」
にわかには信じられない話だった。
「初回の表にやられて、それから他のラフプレイもひどかったさ」
ニヤついた男によると、走者に当てるなんて当たり前で、打者も打席の一番後ろでバットを振り回し、捕手を威嚇するらしい。
「よく、そんなのを審判が何も言わないな」
「証拠はないさ」
「しかしな」
「信じるかどうかは、お前にまかせる。ただ、注意しろよ」
そう言って、ニヤついた男は帰って行った。はたして、本当にそんなチームが存在するのか。僕には半信半疑だった。しかし念のためみんなに伝え、注意することにした。
第一試合は予想通り中島中の勝利で終わり、僕らはグランドに出て練習を始めた。東ブロックの奴らは余田中学といい、確かにワルそうなヤツも多いが、半分くらいは普通の選手だ。練習にしても、声が出ていて動作も機敏だ。ニヤついた男が気にしすぎだったのではないだろうか。
そして、試合開始となったが、特に何もなく、普通に始まった。
1回表。僕らは先攻だ。
1番ガンちゃんが、セーフティに行こうとした瞬間、体を大きくよじってボールをよけた。それは、よけなければ顔面直撃となるような危ない球だった。投手は帽子をとって謝っていたが、その口元は妙にニヤついていて、「あれがそうかも知れない」と僕に疑念を抱かせるには充分だった。
結局ガンちゃんはセーフティを決めて出塁し、2番まっちゃんへの2球目にいつものように盗塁した。スタートが良く、スライディングセーフと思われたその時。やや不自然なタッチプレイがあった。足から入って手でベースをおさえたガンちゃんの頭目がけてショートが腕を大きく振り回しタッチした。タッチプレイか暴力か紙一重の感じだ。いや。普通ならもう間に合っていないからタッチしないはずだ。やはりこいつらは危ないプレイをするようだと僕は思ったが、ガンちゃんは何食わぬ顔をしていた。しかしガンちゃんは静かな闘志を燃やしていたんだ。いつもならあまりやらない三盗を、しかも直後の1球目に試みた。確かに相手ピッチャーの投球動作は隙だらけで、ガンちゃんでなくても僕ですら盗めそうだが、ガンちゃんは勇気を持って実行した。焦った捕手が暴投し、送球がレフト線へ抜けると、ガンちゃんはすかさずホームを狙った。レフトが追いつきバックホームし、捕手は立ちはだかるようにブロックした。うまい。僕が思わずうなるようなスライディングをガンちゃんは見せた。ブロックを回り込んでかわし、スライディングしながら左手でホームにタッチした。捕手のタッチプレイは一歩及ばず大きな空振りとなった。
すごい。
ガンちゃん一人で1点とった。泉川の応援席から歓声があがり、僕はネクストバッターズサークルでガンちゃんをハイタッチで迎えた。すれちがいざまガンちゃんは、「あんな汚い奴らには負けないぞ」と言っていた。
残念ながらまっちゃんは三振に倒れた。僕が打席に入ると捕手が話しかけてきた。
「お前が谷山か」
何だこいつ。何で僕の名前を知っているのだろう。
「お前のことは、岩松から聞いている」
その消息を一番知りたかった名前が思わぬ場面で出てきた。
「あ?」
「俺らに負けてよほど悔しかったんだろうよ。泣きながらわめいていたぜ。お前らなんかが谷山に勝てるもんか!ってな。みっともねえ話だ」
捕手は鼻で笑っていた。それは、悔しかったに違いないさ。こんな卑怯な相手ならな。僕はそう思ったから無視した。ふん何とでも言え。僕らは何があっても正々堂々と勝つ。
1球目。
僕の背中を抜けるようなとんでもないボールがきた。挨拶がわりだな。ならば、僕も挨拶しなきゃ。4球目の甘い球を、僕はフェンスの向こうに叩き込んだ。
応援団の歓声を受けながらホームに戻ると、捕手が僕をにらみつけていた。
次の氷山先輩にも、荒れ球に見せかけた危ない球が何球かきたものの、先輩は冷静にかわし、いい球を弾き返した。しかしキャプテンはよけ方が下手だからデッドボールを食らい、ワンアウト1・2塁。一気に畳みかけたいところだったが、やまちゃんは見せかけなのか本当なのかわからない荒れ球に翻弄されて三振に倒れ、職人田中もランナーを返すことができずにチェンジとなった。
まあいい。2点もあれば充分だ。今度は僕の投球であいつらを黙らせてやる。
その裏。
僕が左で投球練習していると、余田中ベンチからヤジが聞こえた。
「右じゃねぇぞ。楽勝だ」
「勝手に故障してやがる」
そんな感じだった。岩松兄弟から聞いたのか、それなりに情報はあるようだ。
ふん。好きにしろ。
やがてプレイがかかり、1球目。はるちゃんはの要求はストライクカーブだ。僕は首を縦に振った。悔しいけれど、右の超豪速球のように相手を圧倒できる球は左にはない。でもそれに近い決め球はクロスだ。だから僕は決め球に使いたかった。カーブや外角遅い球、大きなカーブなどでカウントを2−1とし、次が決め球クロスの出番だ。しかしはるちゃんの要求は外角低めいっぱいストライク速球だった。意味がわからない。しかし強硬に要求してくるから、その通りに投げた。結局、何とかいっぱいに決まってくれたから打者は手を出せずに見送り三振。まあ、あのコースなら当たってもファウルか凡打にしかならない。その時はわからなかったが、はるちゃんはカッカしている僕に気づいていたのだろう。だから、なだめるかのような配球を選択したんだ。乱暴な相手につきあう必要はないんだよと、はるちゃんはたぶんそう言いたかったのだと思う。
その後、余田中のヤジは相変わらずだったが、そうそうラフプレイも仕掛けてこれず、8回を終わった。得点は3対0。
9回表、ランナーが出たのでダメ押し点の欲しいところだったが、残念ながら無得点に終わった。最後まで投げたかったが、吉岡がマウンドにあがり、僕は氷山先輩に代わりライトに入った。
感想として、余田中は普通にやっても強いチームだ。それなのに何故あんなラフプレイに走ったのかわからない。荒れ模様のゲームを普通のペースに戻したのはやはりはるちゃんだろう。僕らは事前の情報で、彼らはノリのいいチームだと知っていた。おかしな話だが、荒れ具合がエスカレートするほど燃える連中なのだろう。その流れをはるちゃんが断ち切ったんだ。途中から急に淡々とプレイした僕らに戸惑い、そのままゲームセットとなった。もし、僕が内角をえぐるクロスを多投していたら、彼らのケンカ野球のペースに巻き込まれていたのかも知れない。
もし岩松兄弟のチームと僕らのチームを比べるならば、はるちゃんが彼らのチームにはいなかったと言うことだ。
さあ。明日は決勝だ。
その朝。
僕はいつものようにランニングに出かけた。先発の日は三キロくらいに抑えるが、決勝は氷山先輩が先発だったので、いつものように十キロ走った。そしてそれもいつもの習慣だったが、ランニングの締めに東原小のグランドで軽いストレッチしていた。
背後から「ゆうちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、美咲ちゃんがいた。僕は珍しいお客さんに驚いた。
「あれ、どうした?こんな早くに」
「別に。ちょっと散歩していただけ。早くに目が覚めちゃったから」
恵ちゃん、美咲ちゃん姉妹の家は学校のすぐ近くだ。
「ああ、そう」
僕はそう言ってストレッチを続けた。美咲ちゃんはしゃがみこみ、黙って僕の様子を見ていたが、しばらくして口を開いた。
「ゆうちゃん、最近うちにこないね」
え?と僕は思ってストレッチを止めた。
そう言えば、以前は恵ちゃんが僕の壁あてを見に来ていたから、夜送っていってお菓子とか、ご馳走になったことはある。
「去年はうちの家族と一緒に海に行ったじゃない?今年は行かないの?」
ああ、その事か。
「今年は行けないと思う。恵ちゃんも忙しいみたいだし」
「お姉ちゃん?」
「ああ」
「お姉ちゃんが忙しいのは、たぶんバスケ部の先輩にいつも誘われているからだよ」
「ふーん、つきあいも大変だな」
「それがね、男の先輩だよ。いいの?ゆうちゃん」
僕の心にさざなみが立った。僕は美咲ちゃんの目を見つめた。
「何?それ」
「何って、その通りだよ」
僕は美咲ちゃんを見つめて動けなくなった。美咲ちゃんは小学5年生だが、同級生の子たちよりはるかに大人びていて、お人形のような美人だ。
その子が、今何て言った?
言いようもない重たい気分のまま、僕は決勝戦に突入した。整列の時、チームメイトは何やらざわついていたが、僕はうわの空で、何も入ってこなかった。そのことに気づいたのは、1回表の攻撃、打席に入った時だった。どうも先日の予選決勝の時と投手が違うなあなんて薄ぼんやりと思っていたら、恐ろしい速球が懐をえぐるように決まった。あ。それは、中島中の1軍投手だった。このキレの良さは忘れない。何人もバントすらさせてもらえなかった速球だ。何とかしなきゃ。そう思ったが、僕はどうにも力が入らず三振した。中島中は今日こそ勝つつもりなんだな。
1回裏。
やはり、氷山先輩の立ち上がりは悪い。1番打者こそ抑えたが2番にヒットされ、盗塁すら簡単に許してしまった。内野陣がマウンドに集まっていたが、僕にはどうにも他人事のようにしか感じられず、それよりも、スタンドに恵ちゃんの姿を捜していた。来ていないのか。そんなにギャラリーは多くない。来ていれば分かりそうなのに、そしていつも僕の近くの席にいてくれたのに、その姿はどこにも見えなかった。
「谷山ぁ!」
キャプテンの絶叫で我に返った時、猛烈なゴロがまっすぐ僕に襲いかかってきた。慌てて捕球しようとしたが間に合わなかった。僕はトンネルした。振り返り、ボールを追いかけようとすると、カバーに走ってきていたガンちゃんが先に捕球し、バックホーム。しかしもう間に合うタイミングではなかった。まっちゃんがカットし、生還した2塁ランナーはベンチ前でハイタッチしていた。
「らしくないな」
ガンちゃんが僕にそう言った。僕はガンちゃんに顔もあわせず黙っていた。分かっているさ。カッコ悪いよな。でもこの気持ちはどうしようもないんだ。
それから、氷山先輩は何とか踏ん張って、追加点を許さずチェンジとなった。ベンチに戻った僕に、はるちゃんが「どんまい」と声をかけてきた。やまちゃんが不服そうな表情で僕を見つめながら言った。
「体調でも悪いのか」
僕はベンチに腰をおろし、帽子を深くかぶって、やまちゃんの顔も見ず、「別に」とだけ言った。やまちゃんはカチンときたようで、僕の胸ぐらをつかんで叫んだ。
「しけた真似してんじゃねぇ、じゃ何だあのざまは!」
やまちゃんと視線が合いそうになったので、僕は慌ててそらした。
「何とか言えよ、わかってんのか、これは決勝で、相手は中島なんだぞ」
好きにしてくれ。僕はそう思った。離れた席にいた新田がやってきて割って入った。
「山村君、やめようよ。試合中なんだよ」
「チッ」と舌打ちしてやまちゃんは僕を放した。
「たった1回エラーしたくらいで谷山君を責めるのはやめようよ。僕らはチームなんだよ」
「だったら、チームのためにあんなエラーなんかすんじゃねぇ」
「暑いから、たぶん谷山君もちょっと集中力が切れただけだよ。ね、もう大丈夫だよね、谷山君」
僕をかばってくれる新田の声も、今の僕にはうざく感じた。はっ、もうどうだっていいじゃないか。ほっといてくれ。
カキンと甲高い金属音が聞こえた。氷山先輩がヒットを放った。客席が「わぁ」っとわいた。まっちゃんが言った。
「終わったことは、もういい。でもな谷山。やる気のないプレイは困る」
みんながグランドではなく、僕を見つめていた。もうほっといてくれ、それより、今チャンスじゃないか。僕はそう思ったが何も言わずに黙ったままだった。キャプテンが、何とか送りバントを決めていた。中島中が慌てていた。客席は沸いていた。空の青さが目に痛かった。現実感のない空虚な時間だった。
試合は0−1のまま6回まで進んでいた。
僕は2塁上にいた。気がついたら四球で出塁し、氷山先輩の送りバントで進塁した。
「戻れぇ!」
ベンチからの大声に、僕は気がついた。投手の様子がスローモーションの様に見えた。牽制だ、やばい。ぼんやりとはしていたが、そんなにリードしていなかったので戻ることができた。頭から戻った後、砂埃の舞う中で、これは現実なのか、いや、現実だと自覚した。またやらかすところだった。せっかく氷山先輩がバントまでしてくれたのに。それまでの焦点があわなかった心に、ようやくピントが合ってきた。負けるな。俺。そう思うと、目の前の現実に闘志が湧いてきた。恵ちゃんのことは、きっと間違いだ。会って話せば簡単に解決だ。一緒にいた俺が信じなくてどうする。うん。きっとそうだ。だから今は、目の前の試合に集中するんだ。
「よし!」
キャプテンが目の覚めるような打球を放った。僕は一気にホームを狙った。ランナーコーチの先輩(誰だっけ?)が、必死になって腕を回している。ボールの位置が気になったが、中島は最短距離の中継プレイをする。振り返っていては、そのわずかな減速が命取りになる。僕はホームしか見なかった。ホームに突入時、捕手が捕球姿勢への動きを始めた。ボールが近くに来ている。ブロックをかわしながらのスライディングだ。あとちょっと。僕の左手がホームに届くまで。時間が異様に長く感じた。よし!ホームを叩く確かな感触があった。その直後、捕手のミットが僕の左手を叩いた。痛て。でも、それは今、どうでも良かった。主審が、その両腕を大きく横に水平に開いた。スライディングからそのまま起き上がり、ずれたヘルメットを戻し、ベンチに向かうと、客席もベンチも沸いていた。
やっぱり、僕の居場所は“あっち”じゃない。ここなんだ。
6回裏。同点。
氷山先輩の投球練習が終わると、はるちゃんは2塁へ送らず、ボールを持ってマウンドに行った。内野陣も集まり何やら相談していた。そしてみんな人差し指を天にかざして気合いを入れていた。何だろう。珍しい光景だ。後で聞いた話だと、その時はるちゃんはこう言ったらしい。「谷山の調子が悪い。だから、俺たちでカバーしよう。たまにはあいつに頼らず、俺たちだけで勝とう。絶対優勝しよう」もちろん、その時の僕はそんな話だったなんて思いもしなかった。
氷山先輩の力投。
それは本当にカッコ良かった。中島はこの辺りから例のいやらしい見せかけバント作戦をとって先輩を揺さぶったが、今日の先輩は冷静だった。いや、先輩だけじゃない。バントの構えの度にやまちゃんとキャプテンが猛ダッシュして、氷山先輩の負担を減らそうとした。連動してまっちゃんも1塁方向へ動く。みんなが、できることをきちんと丁寧にやっていた。バスターを食らったらひとたまりもないなとも思うが、氷山先輩の球の威力にそんな芸当はできないだろうし、何が何でも何とかしてやるという気迫の伝わる守備だった。それが、逆に中島へのプレッシャーとなっていた。中島の野手は2軍選手だ。次第に僕らに押され、そして僕らは今まで以上の強さを見せた。みんなでつないで8回には2アウトから2点をとった。9回には吉岡がマウンドにあがり、伝家の宝刀カーブを武器に力投し、ランナーを出したものの何とかリードを守りきった。
僕らは勝った。優勝だ。
結局今日の僕は、“お客さん”のようなものだった。
それから、閉会式があり優勝旗やメダルを受け取ったが、僕にはそんなものどうでも良かった。一刻も早く恵ちゃんのところに行きたかった。
学校に戻り、解散した時はまだ夕日の時間にもなっていなかった。これなら多分バスケ部はまだ体育館で練習しているはずだ。僕は一目散に体育館へ駆けだした。
体育館からはボールの弾む音が聞こえた。暑いから、扉は全て開けられていてバレー部とバスケ部の人影が見えた。恵ちゃんは?僕はその姿を捜したが、急に何だか怖くなってきた。見つけない方が幸せのままかも知れない。特に捜す訳でもなく、僕はしばらくそのままぼんやりとしていた。部員たちのかけ声、先輩らしき怒声、キュッキュッという靴擦れの音、バムバムッというボールの音。思えばこれが、僕の知らない恵ちゃんの世界なんだ。僕は一体、どれだけ恵ちゃんの事を理解していたんだろう。一緒にいるのが当たり前だと思っていたのに、失うかもしれないと気づいた時の喪失感は、思いもよらない大きなものだった。僕は深呼吸した。試合中でもこれをやって気持ちを落ち着けている。僕はひとまずその場を離れた。
やがて陽も落ち、街灯に明かりが灯った。鈴虫の鳴き声が聞こえた。僕は北門に突っ立って恵ちゃんの帰りを待っていた。いつだったか、恵ちゃんがここで僕を待っていてくれたことがあった。今日は逆だな。何人かの生徒が僕を珍しそうに見ながら帰って行った。ずいぶん長い間、僕はここにいた。そして。
「ゆうちゃん・・・」という恵ちゃんの声が聞こえた。
外灯のあかりの下に、夏のセーラー服を着た恵ちゃんが驚いたような顔で立っていた。
その日、僕はちょっと遠回りな公園ルートで恵ちゃんと一緒に帰った。公園にはちょっとした池があって、その水面には遠くの街あかりが映り込んでいる。ウシガエルの鳴き声も聞こえた。夏草のにおいがして、湿った空気にはやや蒸し暑さを感じた。僕は「男の先輩」について聞きたかったが、どうにも聞き出せなくて黙っていた。そんな僕のおかしな様子を察したのか恵ちゃんも黙ってついてきていた。やがて沈黙を破ったのは恵ちゃんだった。
「はじめて、校門で待っていてくれたね」
僕はそれには答えず黙っていた。恵ちゃんは、話題を変えるかのように試合の話をした。
「今日は決勝だったんでしょう。ごめんね応援に行けなくて。でも優勝だよね。野球部は強いし、ゆうちゃんがいるんだし」
「恵ちゃん・・・」
僕は立ち止まって恵ちゃんに声をかけた。でもこわかったから、その顔を見ることはできなかった。
「何?」
次の言葉をひねり出すのに、僕は時間がかかった。
「どうしたの?ゆうちゃん」
野球なら、どんなに強い相手でもこんなにこわいとは思わない。おかしいな、俺。右手を握りしめているじゃないか。俺って、こんなに臆病だったか?このまま何も言わずにいたほうが、何事もなく幸せなんじゃないか。でも、それは嫌だ。恵ちゃんの声が聞きたい。「男の先輩」なんてきっぱりと否定する声を。
「あの、さ」
その時、風が舞った。そのおさまりを待たず、恵ちゃんはすぐに答えた。
「うん」
「あの、仲がいいっていうか、そういう先輩っているのか」
「バスケ部の?みんな悪い人じゃないよ」
「いや、特に優しいっていうか、」
「中村先輩?」
「男?」
「女子だよ」
そう答えて、恵ちゃんは気がついたようだ。
「もしかして、二宮先輩のこと?」
僕は振り返って恵ちゃんを見た。
恵ちゃんはうつむいて真っ赤な顔をしていた。まんざらでもなさそうなのはその様子で分かる。僕は次にかける言葉を探した。さっきより強い突風が吹き抜けた。
「どんな人?」
「やさしい、よ、」
「いいやつなんだ」
「うん」
僕は天を仰いだ。星空が広がっている。思えば僕は、恵ちゃんがいるのはあたりまえで、こまめに電話したりデートしたり、していない。小学校の時は交換日記していたが、中学になってからは恥ずかしくってやってない。やさしいことなんて、言葉だって何一つ恵ちゃんにしてやっていないんだ。でも、でも、それって裏切りなんじゃないのか。そうも思ったが、先輩の方がいいって恵ちゃんが言うのなら、それはそれで仕方がないのかも知れない。
「わかった」
僕はそう言った。恵ちゃんはうつむいたままだった。僕の心は重くなった。やっぱり、こんな話なんてしなきゃよかった。うわべだけでも、みせかけだけでもその方がうまくやれたはずなんだ。終わったんだと思った。
「わかったって何よ」
うつむいたまま、恵ちゃんは言った。
「何がわかったの?私は、ゆうちゃんが遠くに行ったようで、さびしかったんだよ。野球ができて勉強ができて、ファンクラブまであって、私は・・・」
恵ちゃんは僕の胸に顔をおしつけた。
「新聞部の部長さんだって、マネージャーさんだって、みんなゆうちゃんのこと、好きなんでしょう。私は一体何なの?ゆうちゃんはいつも何も言ってくれないじゃない」
思いがけない恵ちゃんの反撃だった。僕は恵ちゃんの肩に手をかけて、黙って聞いていた。
「お願いだから、私のこと放さないでよ」
僕は思わず恵ちゃんを抱きしめた。
「放さないから。だから一緒にいてくれ」
恵ちゃんは、肩を震わせ僕の胸で泣いた。
やがて小さな声で「うん」と言った。
完読御礼!
ありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。
*本作品は「エブリスタ」にも掲載しています。