第七章 奇跡の硬球ふたたび 第八章 クロスファイアー
おまたせしました。
生徒B~F、雑魚キャラ先輩たちの熱い期待を担う女子マネージャーの登場です!
谷山、白石、吉永に恵ちゃん。それぞれの想いがクロスしていきます。
もちろん「スポ根」(古!)は、健在です。
どうぞお楽しみください。
第一章 桜の花のあと
第二章 絶対王者
第三章 グランドスラム
第四章 阿部先輩
第五章 三日月の夜
第六章 死闘ふたたび
第七章 奇跡の硬球ふたたび(今回はここと、)
第八章 クロスファイアー(ここです)
第九章 酔いどれ記者
第十章 夏の日々
第十一章 鬼柴田
第十二章 全面戦争
第十三章 池のほとりで
第十四章 決勝へ
第十五章 決 勝
第十六章 まだまだ
第七章 奇跡の硬球ふたたび
月曜日の朝には、もう校内新聞が貼り出され、相変わらず配布用の新聞は無くなっていた。一体誰がこんな朝早くから持っていくのだろう。それとも部数が少ないのか。
ともあれ、一面には「ミラクルボーイズ!野球部雨中の激闘を制す!満身創痍で夢をその手に」とあり、氷山先輩と僕の力投の写真がでかでかと載っていた。
え?ふつうはガリ版でしょう。
写真の印刷はどうしたのだろうと僕は新聞部の予算が心配になった。
昼休み、阿部先輩が訪ねてきた。
「おつかれ~、いい試合だったね。おかげで新聞が飛ぶようにさばけるわ」
先輩は上機嫌そうに笑っていた。
「あの、写真はどうしたんですか?」
「いい写真でしょう。私が撮ったのよ」
「というか、よく印刷できましたね」
「変な事に気づくんだね。顧問の先生を説得して、前もって知り合いの印刷屋さんに格安でお願いしていたのよ。今回は絶対壮絶な戦いになるはずって思っていたからね。印刷の品質は問わないからって、徹夜で印刷させちゃった」
やはり先輩の行動力はすごい。
「とりあえず記念に持ってきたから、あげるね。手に入らなかったでしょう」
「はい」
「氷山君にも、田所君にも渡しておいてね」
「氷山先輩はともかく、田所先輩は同じ3年なんだし阿部先輩から渡したらどうですか」
「だめだめ、あの人は往生際が悪いから」
先輩は、そう言って笑ったが、僕には意味が分からなかった。
「そうそう、写真も今度焼き増ししてあげるから。とにかく新聞部史上初の五百部突破のごほうびね」
五百!そんなにあったのか。
先輩は上機嫌のまま帰っていった。入れ替わりのように、恵ちゃんが来た。その表情は先輩とは対照的に微妙なものだった。僕は、人気のない校舎裏に連れて行かれた。
恵ちゃんは持っていた大きな封筒を、バンと僕に突きつけた。
「何?これ」
僕は中身を見ようとした。
「ファンレターよ。全部」
恵ちゃんは怒っていた。
「何で私が届けないといけないのかなあ」
僕に言われても、僕も困る。おそらくみんな、僕と仲のいい恵ちゃんに頼むのだろうが、それで恵ち ゃんが不機嫌なのはもっと困る。その大きな封筒の中には、いくつもの小さなかわいい封筒が入っていた。
「あー、私も応援にいきたかったな。美咲がね、興奮して語るのよ。ゆうちゃんが打って逆転して最 後は相手の4番を討ちとったってね。新聞もゆうちゃんの活躍を伝えているしバスケ部に入らなきゃよかったよ」
「好きなんだろ?バスケが。あの最後の試合の恵ちゃんは格好よかったよ」
「そうかな」
「そうだよ。だから、バスケ続けるって聞いた時は僕も嬉しかったよ」
「ありがとう。ちょっと勇気がわいたかな」
僕は笑った。やはり前向きな恵ちゃんの方がいい。
「でも、思ったより忙しくて、なかなか会えないね」
「仕方ないさ。でも僕は元気で頑張っていてくれていたら、それでいいと思っている」
「ふ~ん、そうなんだ」
「僕の方も、土日もびっしり練習で埋まっているし」
「そうね」
そう言う恵ちゃんの表情にちょっとだけ陰がさしたように感じたのは気のせいだろうか。
「でね」
恵ちゃんは、ちょっとはにかんだ様子だ。
「かっこ良かったよ。新聞の写真」
その夜。
僕は寝る前に校内新聞をゆっくりと読んだ。
1面記事は経過と結果を客観的に伝えていたが、2面以降「常勝伝説。あきらめない男たち」というタイトルで試合の経過を縦軸に、僕ら東原の三連覇の道のりをつむいであって、ちょっとしたドキュメンタリーのようになっていた。エースふうちゃんとの涙の別れ、0点男の登場、次々現れる強敵。それらは活き活きと、そして情感豊かに描かれていて、読む者をぐいぐいと惹きつけた。僕は先輩の取材力と文章力に改めて感心した。中には、伝説のピッチャーと言われる白石の亡き父親との約束である甲子園の話や、家庭の事情により叔父のバイク店で働かざるを得ないため思うように練習できない氷山先輩の状況も描かれていた。そうだったのか。だから先輩はあまり練習に出てこられないんだ。それなのに、あの投球はすごい。白石にしろ、氷山先輩にしろ、顔には出さないが、みんな苦労しているんだ。最後に、「倒れるまで力投を続けたエース氷山投手はもとより、足を打撲して動かなくなっても、その痛みを乗り越えて投げぬいた期待の新星0点男、そして怪我人続出の中で最後まであきらめなかった不撓不屈の精神が、わが野球部の歴史に常勝伝説を書き加えてくれることだろう」と結んであった。
なんか、かっこ良すぎ?
僕は単純にうれしかった。(で、何で僕だけいつまでも0点男なんだ?)
しかし。
僕は冷静に考えてみた。あの試合を旧東原だけで勝てたのだろうか。いや、無理だ。僕らは8回9回の経験が乏しく、思い通りに事が運ばない焦りに加え、怪我の影響もあってみんな疲れ果てていたから、最後は正直言ってあきらめムードがあった。記事のいう不撓不屈の精神を形にしたのはキャプテンだ。あの1本がなければ負けていた。それに氷山先輩があそこまで投げてくれなかったら、僕の豪速球だけではあの四番を抑え切れなかったように、0点男の称号は返上していただろう。最も怖いのは気持ちのタガが外れ、雪崩をうって負け犬根性がついてしまうことだ。それをぎりぎり支えてくれたキャプテンと氷山先輩には感謝しないといけないし、僕らも鬼監督の言うような今一段のレベルアップを今ふたたび果たさないといけないだろう。では僕はどうするか。やはり変化球しかないかなあと思いながら眠りに落ちていった。
さて、僕は投手に復帰した。約束だったから当然なのだが、ヨッパライは、おかしな条件をつけてきた。
「左投げになれ」
と言うのだ。確かに豪速球だけで抑えることの難しさを実感したから変化球の必要性は感じていたが、全てを吹っ飛ばすようなおかしな条件だ。
まったく、次から次におかしなことばかり言い出す監督だ。
チームメイトの反応は「おかしな話だ」と同調してくれる者もいたが「面白そうだ」と言い出す輩も現れる始末。それはそうと監督の命令なのだからひとまず左投げの練習をしてみた。違和感だらけで、どうにも不格好だ。当然ながら全く投球にならない。僕は右投げの場合を手本にして相違点を探した。やがておかしなところを見つけては修正し、何とか形にはなってきたものの、どうもしっくりこない。部の練習中、はるちゃんの助言も受けていろいろ試したところ、左の場合、右のようなオーバーハンドより、サイド気味のスリークォーターの方がしっくりきた。試しにカーブも投げてみたが、面白いように落差のあるカーブが決まった。ヨッパライに言わせると
「うちのチームには左がいないから、お前がその穴を埋めてくれ。他の者にはできない話だ。お前はたった1年であれほどの投手になったそうだから、左への転換もお前ならできるかも知れん。とにかくやってみてくれ」
そういう事だったが、これだけカーブが決まると、自分でもまんざら悪い気がせず、左でもいいかと思い始めた。何しろ熱血野球漫画の主人公は左と相場が決まっているし。
僕の壁当てメニューに左が加わった。右を五十球にして、左は百球。そして、最近は使っていなかったあの奇跡の硬球を左に限って使った。元々握力は左右同じように鍛えていたし、毎日やっているランニング、腹筋、腕立てその他は左右どちらにも役立った。
やがて梅雨の半ば頃。
置いてくるような感じで投げると、直球もカーブも、うまい具合に決まってくれる。特にカーブは大きく落ちるもの、わずかにスライドするものと、使い分けできた。ただ直球のキレと速さだけは、はるかに右には及ばない。弱小相手には通用しても、中島には無理だろう。僕はそんなこんなで試行錯誤していた。
ある日の夜。
僕はいつものように東原小の校庭で壁当てしていた。
その日は久しぶりに恵ちゃんが遊びに来ていた。恵ちゃんは、バスケ部の内幕をいろいろと僕に話して聞かせ、僕はいちいち「うん、うん」と答えながら投げ込みしていると、突然、恵ちゃんが言い出した。
「ゆうちゃんの左は迫力がないね」
何をいきなり言い出すのだろうと思って僕は聞いていた。
「おかしいな、どこが違うんだろうね。ちょっと右で投げてみて」
「いいけど。そりゃあ右の方がいいに決まっているよ」
「うん。でもね、左もきれいなのよ。フォームは。バスケだってきれいなフォームの人はシュートの成功率が高いし。でも何かが足りないような」
僕は言われるまま、右で投げてみた。恵ちゃんは黙ってフォームを観察していた。僕は何球か投げた後、全力投球した。
「あ」
何か気づいたようだ。僕はもう1球全力で投げた。
「わかったよ。ゆうちゃん。リストの違いだよ。たぶんね」
「リスト?」
「そうよ。リストよ。右は鋭くしなっているけど、左は甘いのよ」
「そう?」
「バスケだってフィニッシュは手首の返しが大切なんだからね」
さすがはバスケ部員だ。僕は気づかなかった。確かに握力は鍛えていても手首の返しまではやっていない。利き手である右の方が強いのだろう。
「ね。今度は左で投げてみて」
「ああ。わかった」
僕は左で投げてみた。
「やっぱりそうだよ。何か遠慮しているみたい」
遠慮・・・。
「思いっきりやってみたら?」
でも、そうすると今度はコントロールが心配になるはずで、微妙なトレードオフだ。でも、恵ちゃんの言う通り、思いっきり振りぬかなければ、強豪には通用しないだろう。
その晩。
僕はベッドにもぐり込んで、考えをめぐらせていた。右の場合は体の軸線をぶれないようにして制球力を稼いでいる。でも、左ではそれがしっくりこなかったから、スリークォーターで置いてくるように投げている。しかしそれでは球威が出ない。やはりオーバーハンドに戻すべきなのか。左も右と同じように豪速球を目指すのか。あれだけ決まる変化球を捨てるのか。あれこれ考えていると眠気が襲ってきた。眠りに落ちていきながら、ひとつひらめいた。そうだ。ふうちゃんだ。ふうちゃんほどのアンダースローじゃなくてもサイドから大きな遠心力で振りぬいてみよう。明日、試してみよう。
翌朝、僕はランニングに出る時、奇跡の硬球を持って出かけた。走りながら左の手首を鍛えるウェイト代わりにしようと思った。右もやめないし左も覚えたい。そんな贅沢に挑むなら、わずかなスペースにも努力をつめこむしかないだろう。
放課後。
部の練習で僕ははるちゃんに全てを話し考えを聞いた。
「面白いかも知れないね。手本はふうちゃんか。確かに今のままでは中島には通用しないから、やってみてもいいと思うよ。僕らはまだ1年だし試行錯誤する時間はたくさんあるから」
よし。ではサイドスローに挑戦だ。斜めから中途半端に振るより思い切って横から強力に振りぬいてみるつもりだ。軽く投げてみて、いけそうな気がした。そしてふうちゃんのフォームをイメージして、足腰のばねを使ってみると、よりいい感じになってきた。三十球くらい投げてみて、はるちゃんを座らせた。大きく振りかぶって、右足をけり出し、重心は降ろし、体の軸で、思い切って振りぬいた。ずばん。おそろしくキレのある球が内角いっぱいに決まった。それは外角から対角線上を走って右打者の懐をえぐるように内角へ決まる、
そう、現代で言う「クロスファイアー」だ。はるちゃんが思わず立ち上がって笑顔を見せた。
「今の球いいよ。これなら誰も手が出ない」
僕もそう思って、笑顔がこぼれた。よし。今のだ。忘れないうちにものにするんだ。
2~3日すると、僕のクロスファイアーも、ものになってきた。なかなか順調だから、変化球の練習も始めた。
県大会も近いので、はるちゃんは連携練習をやっているため今日の捕手は2年の佐伯先輩が務めてくれている。ひょうひょうとした先輩で、ときおり合いの手のように「ナイスピー!」とか「よし!」とか言う以外はとりたてて特長がなく、ちょっと前までは僕から生徒D扱いを受けていた人だ。
そう言えば、今日も氷山先輩は来ていない。あれから何回か来たけど、やはりバイク店の方が忙しいのかも。おまけに監督も来ていない。これはまあ、いない方がいいからほっておこう。代わりにキャプテンが気合を入れて指導している。
さあ。いよいよ県大会だ。
「左も随分サマになってきたわね」
ある日。阿部先輩の声が聞こえた。
「その分、苦労しましたよ」
先輩は笑った。
「苦労すればできるなんて、素敵じゃない。苦労してもできない人はいっぱいいるのよ」
「そうですか」
「そうよ。勉強だってそうでしょう。そうそう期末試験は大丈夫?」
確かに来週は期末試験だ。でも不思議なものであまり慌てる必要はなかった。勉強時間がとれない分、僕は授業に集中していた。おかげでなんとかなりそうだと思っていた。これも不思議な話だが、野球の練習をさぼらなくなったあたりから僕の成績はぐんぐん上がった。
「何とか、なりますよ」
「ふ~ん。君が言うと妙に説得力があるわね。まあ、私が見込んだ男の子なんだから、当然か」
僕はちょっとドキッとした。先輩のような美人からそういう風に言われるなんて嬉しくもあるし、恥ずかしくもあった。
「あ、照れてる。かわいいー」
はじけるような笑顔を見せて先輩は僕をからかった。
「照れてなんかないです」
「顔が赤いよ。純情少年。そうだ、試験でベスト五十に入ったら、お祝いにチューしてあげようか」
僕はいよいよ恥ずかしくなった。
「からかわないでください」
先輩はケラケラ笑っていた。
「ところで、君、高校はどうするの?」
いきなりそんな事を先輩は言い出した。
「まあ、中島もほおっておかないだろうけど、やっぱり白石君のお父さんの高校?」
先輩は鋭い。そのことは僕も随分考えた。白石の親父さんの高校。イコール僕の両親の高校だ。同じユニフォームを着て甲子園に行けたら最高だ。でも、その高校は城内高校と言って、県で一番優秀な公立の伝統校だ。現役でT大に何十人もの合格者を出している。そんなところに僕が受かるはずはない。
「どうして、そんなことを聞くんですか」
「私は3年だから志望校を決めないとね」
「それが、どうして?」
「あのね、私城高を受けるの。先ず大丈夫だから君も来てくれたらうれしいなと思って」
そうか。先輩は3年生だから、色々と考えるんだな。僕には遠い先の話だけど。でも、あれ、ちょっと待て。
「先輩は、高校でも僕をからかうつもりですか」
僕が真面目な顔でそう聞くと、先輩は大笑いしていた。
その日の練習後。
六家先生がキャプテンを訪ねて来た。何やら二人で話していたが、話が終わって六家先生が帰った後、キャプテンがその内容をみんなに聞かせた。何と延び延びになっていた女子マネージャーの件が正式に決まったとの事だった。2年1年一人ずつの計2名。こんなオンボロ野球部に2名なんてオーバースペックだ。でも二人とも意思が固いらしく、正式に決まったのだ。生徒BやらJやら、先輩たちが色めきたった。
翌日。
練習時にその2名がやってきた。正式加入は試験後らしいから、今日は顔見せだ。目をらんらんと輝かせる先輩たちの視線を集め、その二人は挨拶した。
先ずは2年生。横川しのぶと言った。想像以上に大声を張り上げた。
「私は小学校でソフトボール部にいました。でもここにはないから残念だったのですが、野球部の活躍を目の当たりにして、どうしても入部して一緒に頑張りたいと思いました。球拾い、トスあげ、何でもやります。どうぞよろしく!」
もう一人は吉永美子という、おとなしそうな子だった。
「あの、私は横川先輩のような経験者ではないのですが、頑張っているみなさんを応援したいと思いました。こないだの試合も見に行きました。すごすぎて涙が止まりませんでした。素人だからわからないことも多いのですが、頑張りますのでよろしくお願いします」
二人の加入は、先輩たちのやる気倍増という結果をもたらした。オンボロ野球部が常勝野球部に生まれ変わるには、良いきっかけなのかも知れないな。
梅雨も終わり、湧き上がる雲とうだる暑さの中。一足飛びに県大会とはいかず、僕らは期末試験を受けていた。
日頃野球漬けの罰を受けるはずの試験だったが、思いのほか簡単に解けたような気がした。試験中毎日、橋本の悲鳴やら八つ当たりやらが聞こえてきたが同感する必要がなかったのは幸いだった。やがて試験も終わり、その結果が出た。
何と。
僕はベスト五十に入ってしまった。三十九位。野球部では、はるちゃんに次ぐ。僕らの学校は1学年に五百人いて、ベスト五十までは壁に貼り出される。さて困った。本当に阿部先輩がチューしに来たらどうしよう。橋本がさかんに0点男のくせに!とわめいていたが、とにかくほとぼりがさめるまで目立たないようにしていよう。
ちなみに3年生の1位は阿部先輩だった。
まったく、底の知れないお方だ。
結局その日、心配された阿部先輩の来襲はなかった。僕の自意識過剰かな。軽い冗談のつもりだったのだろう。もう忘れているに違いない。
さて阿部先輩はともかく、その日は氷山先輩が来ていて、僕の左に、いろいろとアドバイスをくれた。例の中島伝家の宝刀カーブの投げ方も教えてくれた。僕は何球か投げてみて、あ、いける。と直感した。右打者の内角をえぐる直球に、高低差のある落ちるカーブ、わずかにスライドするカーブ、そして外れから外角いっぱいに決まる伝家の宝刀カーブがあれば、僕は無敵になるんじゃないのかと思って思わずニンマリしてしまった。そんな僕の内心を見透かしたように、氷山先輩は笑いながら僕の頭をグラブで軽くはたいた。
「まだどれも未完成だぞ。これからだからな」
僕に兄はいないが、兄がいたら、こんな感じなのかなあ。ともかく、その日一日先輩は僕の面倒を見てくれた。ちなみに氷山先輩の成績は九位。何もかも僕の目標になる先輩だ。
部活が終わり、グランドを整備して道具を部室にしまうと、辺りは真っ暗になっていた。みんなは早々と帰宅し、僕は今日氷山先輩から聞いたことを忘れないようにとノートにつけていたため、最後になっていた。時計はもう8時。壁当てもウェイトもあるから急いで帰ろうと思って部室を出て、通学に使う北門に向かうと、わずかな外灯のもと、恵ちゃんがいた。僕に気づくと恵ちゃんは笑顔を見せて手を振った。
「今日は私もちょっと遅くなったから、一緒に帰ろうと思って」
「こんなさびしいところで待っていないで部室に来ればいいじゃないか」
「でも、他の人がいたらいけないし」
「気にすんなって。関係ないよ」
「でも」
「何かおかしいな。今日は」
「あ、ゆうちゃんは、今もつま先立ちしているんだね」
それは、僕の練習の一環だった。日常の生活では常につま先立ちで歩いている。
「それに、ゴムボール。今は左手にしたんだね」
それも一環だった。握力を鍛えるため常にゴムボールを握っている。
「変わらないなあ。ゆうちゃんは。ちょっと安心した」
「何も変わらないよ。何かおかしいよ。今日は」
「うん、でも」
「何かあるなら話せよ」
「だって、ゆうちゃんがどこか遠くにいってしまいそうで、そんな気がして、」
何?それ?僕は転校もしないし、遠くに行く予定もないけどなあ。意味がわからず僕は黙ってしまった。
「だって、ゆうちゃんは成績もいいし、野球でも格好いいし。最近ファンクラブもできたんだよ。だから遠い存在になったような気がして」
僕はあきれた。そんなこと関係ないだろ。僕は僕だから。
「そうかな」
「そうだよ。遠くになんていかない。ただ甲子園に行きたいだけの野球少年のままだよ。何も変わらない」
第八章 クロスファイアー
当時は、クロスファイアーなんていう呼び方はなかった。また、スライダーとも言わなかった。しかし僕はその二つを武器に県大会へ突入した。伝家の宝刀カーブと落差の大きなカーブはあまりに未完成で制球できない。だから見せ球でしか使えない。普通のストレートについてはなんとか間に合って、左右高低への投げ分けも多少はできる。
ともあれ、僕は左投手として中学野球にデビューすることになった。もちろん右をおろそかにはしていなかったが、ヨッパライは「左じゃなきゃ使わん」と明言していたし、僕にもそれなりの自信があった。頼れる氷山先輩もいるし、往生際の悪いキャプテンもいるし、僕は僕らがどこまでいけるか楽しみだった。
県大会は、県を中央、東、西、南、北の5ブロックに分けて予選を行う。県庁所在地のある僕らの中央ブロックは参加校が最も多いから四校が、他ブロックは予選三位までが集まって十六校で決勝トーナメントを行う。ちなみに秋の秋季大会は県ではなく市の大会だから、あの岩松兄弟と戦えるチャンスはこの夏の県大会しかない。
県大会と言っても、その開催は小学校とさほど変わらなかった。予選は市民球場、決勝が県営球場だ。僕らは市民球場での開会式に参加し、それはまるで同窓会のようだった。小学校時代、強敵として僕らの前に立ちはだかった面々がいた。もちろんニヤついた男も、寡黙なピッチャーも、不敵なキャプテンもだ。みんな野球を続けている訳で、それはそれで嬉しかった。
「おう、田所はいるか」
開会式の後、何ともガラの悪い男が僕らのところにやってきてほざいた。いきなり何だこの男は。
「キャプテンなら、今トイレです」
新田が馬鹿正直にそう答えた。
「キャプテンなのか。あの馬鹿は。いきなりトイレだなんて、笑わせてくれるぜ」
「誰が馬鹿だと、この野郎」
ガラの悪い男の背後には、キャプテンがやって来ていた。
「いきなり、しょんべんじゃねえぞ馬鹿大将」
「やる気か?ああ?」
いきなりの対決ムードだ。
「やる気も何も、俺らは1回戦で当たるじゃねえか」
「はぁ?」
「おまえ、そんな事も知らねえのか。本当に馬鹿大将だな」
「本当か?春木」
さすがのはるちゃんも、いかついゴリラ同士の対決にすっかりのまれていて、ひきつったような表情で答えた。
「1回戦は池田中です」
「それみろ!」と、ガラの悪い男は笑った。
僕は氷山先輩に聞いた。先輩は微笑をたたえながら、というかおかしさに堪えながら教えてくれた。
「いとこだよ。キャプテンの」
「えー、そうなんですか!」
「あの二人は、仲がいいような悪いような。まあ、初めて見たらびっくりするだろうな。何回か練習試合をしたけど、いつもあんな調子さ」
ガラの悪い男は言った。
「まあ俺らは手加減してやっから。毎年毎年ボロ負けじゃあ、お前の面子もねえだろう」
あれ?氷山先輩がいたはずなのに、去年はボロ負けだったのか?
「氷山先輩は、去年投げたんでしょう?」
「いや、俺は投げてない」
「どうしてですか?」
先輩はさわやかな笑顔で答えた。
「寝坊したからさ」
僕はズッコケた。先輩でもそんなことがあるんだ。いや、そんな風に言っているが、練習試合もあった訳だから、何か家庭の事情があったのかも知れないな。
「手加減できるものなら、してみやがれ。今年の俺らはつぇーぞ」
「おまえ、毎年そう言っているだろう。小学校の頃から」
キャプテンと、そのいとこのいがみ合いは続いていたが、僕らは馬鹿馬鹿しくなって早々に引き上げた。帰ってから、やることはいっぱいあった。投球の確認。投内連携の確認。それと念のために右でも投げ込みをした。
そうそう。
この夏休みに入る前、マネージャー二人が合流した。
ボール磨きに、草むしり、それから横川先輩はトスあげをリズム良くこなしていたし、何をしていいか良くわからないような吉永は笑顔を振りまきながら飲料水の準備とかしてくれていた。おかげで生徒BからFの先輩達も、目の色を変えて練習していた。確かに去年までは1回戦で消えるようなオンボロ野球部だったかも知れないが、今年は違う。キャプテンの言う通り、僕らは強い。
試合当日朝8時半。
市民球場Cブロック第一試合。泉川中と池田中の1回戦。しかし、信じられないことに氷山先輩がまだ来ていない。「またか」と、キャプテンは苦々しそうにしていたし「まあ、いつものことだな」と、ヨッパライは笑っていた。
「仕方ない。本田、お前が先発だ」
指名された本田先輩はびっくりしていた。
「おまえは2年だろうが」
「でも谷山の方が」
「谷山の左ではまだ商売にならん。しかしまあ、どこかで使うから、それまで投げろ」
本当にこのヨッパライはいちいち腹の立つ監督だなと内心思いつつ、僕はライトに入ることとなった。
僕らは後攻だった。マウンドに向かう本田先輩の姿を見て応援に来ていた氷山親衛隊からブーイングが聞こえた。本田先輩は生真面目だから真っ赤な顔をしてそれに耐えていた。本当にもう。氷山先輩のせいだぞ。さらに3塁側ベンチにいた、いとこの罵声もうるさかった。あんなヤツ、僕の豪速球で黙らせてやるのに。しかし左での登板になるだろうから、えぐる直球を、あとでお見舞いしてやる!そんなこんなで腹の立つことばかりの中、プレイボールがかかった。
緊張と屈辱の中、生真面目な本田先輩は第1球を投げた。「あ」という先輩の悲鳴がライトまで聞こえ、そのすっぽ抜けたボールは死球になってしまった。僕が「あ」と言いたいよ。いやチームメイトみんながそう思ったに違いない。いくらなんでも初球からなんて。
「もうけたもうけた」と、いとこが笑い「うるせーぞ」とキャプテンが怒鳴り返した。親衛隊も「ひやまくんを出してー」とわめく始末で、本田先輩は既にいっぱいいっぱいのようだった。去年までのオンボロ野球部の姿を見たような気がした。はるちゃんが声をかけ、本田先輩を落ち着かせようとした。
2番打者に対して、はるちゃんのリードが冴えた。池田中は、そういうチームなのか、それともまだ1回だからなのか、送りバントの構えも匂いもさせていなかった。だから左右高低でカウントを稼ぎ、高め外し気味のつり球で三振を取った。よし。これで本田先輩も落ち着いてくれるだろうと思った矢先、3番打者にレフト前へ打たれた。ワンアウト1・2塁。
その時、泉川応援団から歓声があがった。
氷山先輩がやって来たのだ。
何やら監督と話していて、監督がピッチャー交代を告げた。ばかか、ヨッパライは。僕はもう、腹が立って仕方なかった。今、替えたら本田先輩は負け犬じゃないか。そんなことも配慮しないのか。しかし笑顔を見せながら本田先輩はマウンドを降りた。残念。もう少し悔しがるとか根性を見せて欲しかった。
やがて投球練習を終え、プレイ再開。氷山親衛隊の黄色い声援があがった。遅刻はしたけれど、今日の氷山先輩はすごい。球がいつも以上に走っている。「さあこい!」とわめいていたキャプテンのいとこを3球三振に討ちとった。続く5番もセカンドゴロに討ちとり、チェンジとなった。
初回の攻撃は結論から言うと、ガンちゃんの神業セーフティに始まり、僕らは好き勝手に暴れた。まさにやりたい放題で、8点とった。1点も与えなければ7回コールドとなる。いとこが目を白黒させていて、キャプテンは「見たか!」と叫んだ。僕らのすさまじい攻撃だった。
2回の表も難なく氷山先輩が抑え、裏の攻撃では追加点を4点とった。池田中の選手たちは、既にやる気をなくしたようで、僕らは4回までに十七点を取った。もう完全なワンサイドゲームだ。池田中が弱すぎたのだ。あんな投手では僕らには通用しない。
「谷山くん、麦茶をどうぞ」
そう言って、コップを持った白い腕が伸びてきた。5回の攻撃中、ベンチに座っていた僕がふと見上げると吉永が麦茶を差し出していた。吉永はニコッと笑って言った。
「谷山くんもがんばったね。のど渇いたでしょう」
当時、どんなにのどが渇いても試合中何かを飲むなんて考えられなかった。バテるから、うがいだけにするようにと指導されていた。
「氷を入れて冷やしているから、おいしいよ。それに私のお父さんが言っていたけど、暑い日は、やはり水分補給しないと脱水症状になるかも知れないって。お父さん医者だから信じていいと思うよ」
吉永は笑っていた。思えば小学校時代、試合の度に父母会のお母さん達が、飲み物やら差し入れのお菓子やら、色々と気を配ってくれていた。中学ではそうした活動はないようで、飲み物は今回吉永が一人で準備した。横川先輩は道具の手入れやらスコアブックを書いたりしていて、二人の間には既に役割分担があるようだ。断ると吉永に悪いから、僕はコップをとって一気に飲んだ。確かに冷たくておいしかった。現代のようにパックやペット入り麦茶なんてなかったから、煮出しも冷やしも、吉永はたぶん昨日の晩から頑張ったんだろうな。
「うまい。ありがとう」
僕がそう言うと、吉永はうれしそうにしながら、次の部員に麦茶をすすめていた。それからしばらくして、5回の攻撃が終わった。得点は二十点を超えた。
「もう、よかろう。6回から谷山が投げろ」
とヨッパライが言った。
いきなり言うな。何の準備もしてねぇぞ。いちいち腹の立つ監督だ。
僕は氷山先輩と交替した。
コールドは間違いないので、2回を投げる事になる。左での初めての登板なのだし、ちょうどいいかも知れないな。僕がマウンドに向かうと、応援団から黄色い声援が起こった。あれが恵ちゃんの言う、ファンクラブなのか?ひとつ深呼吸をして、投球練習を始めた。ズバンと、いい球が決まった。よし。問題ない。
6回表。
池田中は3番から。僕は大きく振りかぶった。右足を蹴り出し、重心を落とし、腕を思いっきり振りぬいた。
しゅう。
右と同じように空気を切り裂きながら、ボールが飛んでいった。
ズバン。と、内角高めに浮き上がるようなクロスファイアーが決まった。いい感じだ。やはり右ほどの威力はないが、十分いける。
それから僕らバッテリーは、左右高低に投げ分けてみたり、カーブを試したりして予定の2回を投げきった。思う通りばかりではなかったが、相手が弱かった事もあり、上々の左デビューだ。結局7回コールドとなり、両チームが整列した時、キャプテンは満面の笑みを浮かべていた。いとこは顔面蒼白で、しかも言葉を失っていた。
帰りのバスの中で新田が話しかけてきた。
「やっぱり谷山君はすごいね。始めてまだ2ヶ月なのに、もう左をマスターしてる」
「マスターってほどじゃないよ。まだまだいけるさ」
僕がそう答えると隣にいた吉永が話に入ってきた。
「左って何ですか?」
「今日の投球さ。左手で投げていただろう。僕はつい最近まで、右で投げていたからね。右利きだし」
「え?もともと左利きじゃないの?」
横川先輩も入ってきた。
「谷山君は元々本格派右腕のピッチャーなのよね。それを監督の指示で左に替えちゃったのよ」
「えー、そんなに簡単なんですか?」
「簡単じゃないわよ。谷山君じゃなきゃできない」
「そうだよ。僕には無理だと思う。でも谷山君はいつも努力して克服してきたんだ」
なんか、こそばい。ホメすぎだ。
「かっこいいね。谷山君。私は努力して勝利を掴む姿に憧れているんだ。やっぱり野球部に入って良かった」
そう言って吉永は笑っていた。
ふと見ると、先輩たちが僕らの会話に聞き耳を立てていた。吉永は未完成な美人といった感じで、たぶんあと何年かすれば美人になりそうだ。それに要領は得ないがいつも笑顔で駆け回っている。だから気に入っている先輩達も多数いるようで、僕は僕に向けられた殺気を感じていた。
僕らは学校に戻って軽く練習しておくつもりだった。でも、ヨッパライも氷山先輩も既に姿が見えない。
その日の練習は、試合後のクールダウンというか、軽めに流しておくものだと思っていたが、去年までなら考えられなかった大勝に、妙に調子に乗ってしまったキャプテンが、「よし、千本ノックだ!」などと言い出して、それはもう地獄の消耗戦みたいになってしまった。
基本的にはシートノックで、マウンドには僕が立ち、投内連携を兼ねていたのだが、僕は集中的に狙われた。息つく暇もないくらいの連打で、僕はひっくり返ってしまった。目がチカチカする。
「ばかやろう!きついのは俺も一緒だ。これくらいでへばるな!」
キャプテンがわめいていたが、僕はもう動けなかった。ピッチャーグループの練習に付き添っていたはるちゃんの代わりに、キャッチャー役を横川先輩が務めていたのだが、倒れた僕を心配して駆け寄ってきた。
「大丈夫?谷山君」
僕は息を切らしながら答えた。
「大丈夫じゃないっす。左は慣れていないし」
横川先輩は笑った。
「そうなのよ。だから一夜漬けでもやっておかないと。次からきついわよ」
「どういう事っスか?」
「監督から指示があったの。氷山君はもうしばらく来られないそうだから、君も先発をする事になるの。それでね、投球は大丈夫だが、フィールディングがなってないから叩き込んでおけって」
僕は息を切らしながら仰向けになって空を見上げた。なるほど、そういう事か。今日打たせてとる 時、体は思わず右投げの時の反応をしていた。頭が動作を間違えて混乱したから1テンポ遅れた。そのことをヨッパライは言っているのだ。あんなヤツに指摘されるなんて気に食わないが、確かに反復練習して体に叩き込まないとな。捕球、ステップ、送球という3リズムの形を、右と同じようにできないと僕は内野で最大の穴になるだろう。それに牽制球も覚えないと、とっさの時に体が混乱するだろう。しかし、さっき吉永にほめられていい気になっていたが、実はお寒い限りの綱渡りだったんだな。
チッ。やるしかねえなと思ったがキャプテンのあのサディスティックな微笑みだけは気に入らなかった。
夕暮れ時。家に帰り着いたとき僕は疲れ果てボロボロだった。それでも、いつもの通り腹筋腕立て背筋をやっていると、部屋に父さんが入ってきた。
「おう、がんばっているな」
あれ、ふだんより帰りが早い。そう思って僕は怪訝な顔をしていたようだ。
「ああ。今日はお前に話があって早く帰ったんだ。そんな顔をするな」
父さんは何やら話しにくそうで、咳払いをした。
「いや、あれだ。今日ももちろん勝ったんだろうな?」
「当然だよ。僕らは常勝伝説をつくるんだ。この前言っただろう」
「そうだな。確かにお前たちは強い」
「だから何?そんな話なら出て行けよ。ただでさえ左のために苦労しているんだから」
「お前も言うようになったなあ。もう中学生だからな」
「だから、何?」
「いや、まあ。年は離れているが・・・」
「何の話?父さんと僕なら当たり前じゃないか」
「いや、そうじゃない。お前の弟か、妹だ」
「はあ?」
父さんは頭をかいていた。僕は事態が飲み込めなかった。
「だから、あれだ。お前に弟か妹ができるんだ」
僕はぶっ飛んだ。悪い話ではないけれど、「いまさら?」というのが第一の感想だ。
「父さんも母さんももう若くはないが、それでも授かったんだ」
父さんは笑っていた。運動をやめ、僕はしばらく呆然としていたが、兄弟ができるうれしさがこみ上げてきた。
「父さん、頑張ったね」
父さんは照れ笑いしながら言った。
「ませた口利くんじゃない。中1のくせに」
僕は弟がいいと思った。僕の子分にしてやろうなんて、子供のような無邪気な気持ちがあふれ出てきた。
翌日。
僕らの試合はなく、朝から部の練習だ。昨日に続き、捕球から送球までのリズムを体に叩き込む。明日の試合は吉岡が先発だと決まり、彼は緊張した顔ではるちゃんと投球練習していた。
吉岡は決して悪い投手ではない。少なくとも本田先輩よりは落ち着いていて、キレのいいカーブを持っている。これもヨッパライの指示だった。どうも、あまり一人だけに負担をかけないよう配慮しているように思える。小学校時代の中島小がそんな形だった。僕の先発がないのは気に入らなかったが、まあ明日も弱小相手だし、先も長いし、僕は今、僕がやるべきことをやればいい。
「おらぁ!気合をいれろぉ!」
キャプテンの怒号が聞こえる。そう。僕は今、キャプテンからマンツーマンでノックを受けていた。グランドの隅っこを専有し、僕とキャプテン、横川先輩、それに1塁手に見立てた新田がその特別メニューの参加者だ。朝からぶっ通しでやっている。みんながいないとできない練習だから、僕は素直に有難かった。おかしな先輩だと思っていたキャプテンは、実はいい先輩なんじゃないかと思い始めた。しかし。
「横川、いま何本だ」
「ちょうど百です」
「よし。俺は疲れた。お前代われ」
と、言わなければの話だ。いくらソフト出身だといっても、マネージャーにノックさせるなんて。
「新田ぁ!1塁の位置はもういいから、横川に代わり、ここに来い。谷山、バックホームと思って送球しろ。わかったな!」
タオルで汗を拭きながらひきあげるキャプテンの後姿に僕はあきれた。でも本当に意外だったのは、横川先輩がうれしそうだった事だ。先輩はニヤリと笑って叫んだ。
「谷山君!私はキャプテンのように優しくないわよ。覚悟しなさい!」
まったく。みんなおかしくないか、この野球部は。そうは言っても横川先輩のノックは見事だった。左右にきれいに打ちわけ、しかも速い!確かにキャプテンの方が優しく感じる。僕はマシンガンのような横川先輩のノックに1時間もやられてしまった。そうこうしている間にキャプテンが戻ってきた。
「谷山!きついか!」
そんなこと言われたら、口が裂けても「きつい」なんて言うものか。
「きつくないです!」
などと言ったものだから、休憩なしで牽制練習に移った。新田が1塁手の役。キャプテンが走者の役。横川先輩は新田後方のカバー兼塁審役だ。僕はボークを何度も宣告された。キャプテンからクセも指摘された。本当に一夜漬けだが、徹底的にしごかれた。
短い昼食休憩をはさんで、やっと投球練習だ。キャッチャーは佐伯先輩。先輩には僕を指導できる力なんてないから、横川先輩がおまけについてきた。主審の役で、僕の投球を見極めると意気込んでいた。生徒BやらCやらの先輩よりも、よほど頼りになる先輩だった。
夕方。
部の練習が終わり、みんな家路についた。僕はキャプテンや横川先輩の話をノートにつけておこうと思って、一人で部室に残っていた。するとドアの開く音がして、見ると吉永がいた。
「ああ。吉永か。どうした?」
「忘れ物しちゃった。今日の練習メニューをメモった紙」
「なんだそりゃ」
「うん。キャプテンに言われたの。忘れないようにメモっておいて、今後の練習に活かすんだって」
「意外と細かいんだな。キャプテンは」
「そうよう。清書するノートを今は私が預かっているけど、私が来る前の内容もきちんと書いてあったわ」
そう言いながら吉永は、その辺りを探していた。
「あ、あった。こんなところに。今日中に清書しないと忘れたら大変だから」
「どんな感じなんだ?ちょっと見せろよ」
「いいわよ」
そう言って吉永は僕に近寄り、僕の前の机にメモ紙を置いた。そして僕の隣に座って、その内容を教えてくれた。
「ほら、内野の人達の内容に時間、悪いクセ、外野もピッチャーもね。もちろん、谷山君の特別メニューもあるし、打撃練習もね」
僕は感心した。よくまあこんなに細かく記録したもんだ。
「吉永も頑張ってるんだな」
僕がそう言うと、ちょっと照れたように吉永は笑った。
「そうよう。私もね、頑張るんだ。だって、常勝伝説をつくるんでしょう?私たち」
僕は吉永を見直した。要領が悪いだけの人だと思っていたが、みんなと戦う覚悟はあるようだ。
「そうだな」
二人は顔を見合わせて笑った。
不思議なものだ。
神様が、もしいたずらをする事があるのなら、まさにこの時だったのかも知れない。なぜなら、ちょうどこの時初めて恵ちゃんが部室に来たからだ。
恵ちゃんは、ドアを開け、楽しそうに笑う二人を発見した。なんとなく気まずかったようで、その場に立ちつくしていた。
「あ、恵ちゃん」
僕の声にひとテンポ遅れて恵ちゃんは反応した。
「あれ?打ち合わせ中?」
僕は別にやましいことはなかったから、平然として答えた。
「いや、ちよっと今日の練習内容の記録を見せてもらっていたんだ」
「ふ~ん、そうなんだ」
吉永が僕に聞いた。
「誰?」
「あ、吉永は知らないのか」
恵ちゃんが答えた。
「1組の高浜恵です。谷山君のガールフレンドです」
吉永は妙な笑顔を見せて言った。
「マネージャーの吉永です。へぇー、谷山君は彼女いるんだ」
「まあ。その。で、恵ちゃん、どうした?」
恵ちゃんはムッとした顔で答えた。
「私も今バスケの練習が終わったから一緒に帰ろうと思って。だってこの前ゆうちゃんが言ったでしょう。部室に来いって」
「あ、そうだったな」
「じゃあ私は忘れ物も見つかったし帰るね。谷山君、また明日。高浜さん、さようなら」
「さようなら」
僕は何だか妙な気分で、別にやましくないのに、生きた心地がしなかった。その帰り道、恵ちゃんは最後まで不機嫌だった。
翌朝。
僕らは午後からの試合だったが、朝から学校で軽く練習することになっていた。
「おはよう」と、僕が吉永に挨拶すると、いつもはニコニコしている吉永がそっけなく「おはよ」とだけ言って、さっさとどこかに行ってしまった。もう。勝手にしてくれ。恵ちゃんも。吉永も。
「ふ~ん。何かあったの?谷山君」
横川先輩が、唐突に登場した。
「いいえ、別に」
「う~ん、まあいいけど。谷山君はもてるから気をつけなさいよ」
そう言って横川先輩もどこかへ行ってしまった。こんな坊主頭で野球しか知らない僕がもてるなんて、あまり実感はないけどなあ。とにかく、今日は試合なのだから集中しなければ。
学校で手早く練習を済ませ、僕らは例によって、六家先生に引率されて電車とバスで市民球場に向かった。僕らの出番は第3試合、午後一番だ。到着とともに、その辺を軽くランニングし、アップした。ひと汗流してから休憩に入り、早めの昼食をとった。第2試合が長引いていたので僕らはやや時間をもてあましていると、突然聞き覚えのある声が聞こえた。
「久しぶりだな」
それは、あのニヤついた男だった。
「ああ。久しぶり」
僕はそう答えた。
「お前ら、今日は絶対勝てよ。そのあと俺たちとあたるんだからな」
「そうか。わかったよ。また俺たちの勝ちだけどな」
「言ってろ。俺たちだって強くなってるから驚くなよ。それより、お前左に転向したんだってな。みんな驚いていたぜ。中島の連中もな。何かあったのか?」
「別に。ただ面白そうだから左で投げてみる事にしたんだ」
「ふん、とぼけやがって。まあ、お前ほどの男なら左でも俺たちを楽しませてくれるんだろうな」
「覚悟しとけよ」
「お前らもな」
そう言うと、ニヤついた男はくるりと踵を返し、左手を軽く挙げて去っていった。
そうか。今日勝てば明日はニヤついた男のチームと当たるのか。僕はどの小学校が何中に行くのか知らなかったし、左転向に夢中で大会の動向などあまり頭に入っていなかった。今日の相手が弱小なのは知っていたから、先ず大丈夫。よし。明日が楽しみだ。
その日の試合は、予想通り僕らの勝ちだった。吉岡は2点取られたが、ガンちゃんの神業セーフティや、僕とキャプテンの3・4番コンビによるアベックホームランなどで危なげなく勝った。ちなみに僕も8・9回に登板し、1点も与えなかった。左転向は順調だ。
試合後、学校に戻って軽く練習をしたあと、終礼のようなミーティングでキャプテンが言った。
「明日は強豪の北峰中だ。しかし氷山は来ないから谷山、お前が先発だ。監督の指示通り左で投げろ。吉岡も気を抜くな。今日の疲れもあるかも知れんが何かあったら即交替だからな。それから、白石。明日は先発だ。ライトに入れ。以上だ」
そうか。ニヤついた男は北峰中なのか。よーし、任せろ俺に。左だってあいつらを討ちとってやる!
その夜も僕は一人で部室に残っていくつか気がついたことをノートにつけていた。相手投手がどう攻めてきたのか。何が嫌で、何が打ちやすかったのか。そんなとりとめもない事だったが、僕の配球の参考にしたい。何しろ相手は一応3年生のバッテリーだから僕より経験は上のはずだ。
「よし、これくらいでいいか」
僕はそう思い、ノートを閉じた。そして荷物をしまって部室の電気を消し、外に出た。すると、外には吉永が部室の壁にもたれるようにして立っていた。
「あれ?吉永。どうしたんだ?」
「待ってたんだ。谷山君を」
「俺を?こんな時間まで?暗くて危ないから早く帰れよ」
吉永は何やらまごついているように見えた。
「どうした?」
「あの、谷山君今日はごめんね。冷たくして」
「何だそんな事か。俺は気にしてないよ」
吉永は、一瞬言葉につまったようだった。
「気にしてないんだ。谷山君は」
「ああ。気にしてないよ。だから謝らなくていいよ」
「そっか」
「ああ、そうだよ。それより早く帰れよ」
吉永はうつむいていたが、はっきりと言った。
「でもね。私はやっぱり谷山君が好きなの」
え?告白?僕の頭は真っ白になった。スキトカキライトカ。そんなの僕にはまだ早くはないですか。吉永は両手で顔を隠し、すごい勢いで走って行った。好きとか嫌いとか、そんなことはともかく、このまま吉永を一人にするのはまずいと思った。だから3テンポくらい遅れたが、僕は吉永を追いかけようと思った。
「ばかやろう!何やってんだよ!」
白石の声が聞こえた。見ると、どこからともなく白石が現れて吉永の後を追い走っていた。何故白石?僕の頭はいよいよ混乱した。
「吉永は俺にまかせろ。お前は帰れ。北門に恵ちゃんが待ってるぞ!」
そう言われても、あの吉永の様子じゃ・・・。
「いいから、まかせろ!」
ほおっておけないだろ。迷いに迷った末、何度も真剣に「まかせろ」という白石に任せた。
正門を出てしばらく走った辺りで白石は吉永に追いつき、大声で言った。
「俺は、吉永が好きだ!」
吉永は立ち止まった。
「4月に同じクラスになった時から好きだ」
吉永は白石に背中を見せたままだった。白石はその背に歩み寄り穏やかに言った。
「だからマネージャーになってくれた時はうれしかった。おまえがあいつを好きなのは何となく知っていたさ。でも俺は吉永が好きだ。いつも笑っている吉永が好きだ」
吉永は、両手で顔を隠して、肩を小さく震わせていた。
「俺じゃ、だめなのか」
吉永は震える声で小さく言った。
「ごめんね。白石君。ごめんね」
二人はわずかな外灯のあかりの下で、それ以上の言葉を交わす事もなかった。
僕にはファンレターやらたくさん来ている。でもそれはただのシャレでしかなく、誰も本気じゃないんだと思っていた。僕は野球に夢中で他の事はあまり考えた事もないし、ましてや、あんなむきだしに「好き」と言われても、僕はどう受け止めたらいいのか分からない少年だった。
「白石君の声が聞こえたけど、何かあったの?」
北門でおちあい、一緒に帰っている恵ちゃんは、そう聞いてきた。
「わからないんだ」
「わからない?」
その先の言葉も僕にはわからない。だから黙り込んでしまった。
「ふ~ん、まあ、いいか。でも明日は先発なんでしょう。さっき白石君が言ってたよ。頑張ってね」
そう励まされても、ひょっとすると僕は吉永に相当ひどい仕打ちをしたのかと思い、その事が気になって仕方ない。心が重かった。
翌日。
吉永と顔を合わせるのに気後れしていたが、彼女は何事もなかったかのように、いつもの笑顔で「おはよー」と言った。そのあざやかな変わりように僕は驚いたが、それでも、吉永が元気になって良かったと思った。その時の僕はそう単純にしか考えが回らなかった。吉永がどれだけつらい思いをし、その先の笑顔を見せていたのか、想像すらできなかった。
ともあれ、時間は止まってくれない。僕は気持ちを切り替えないといけない。淡々と僕らはスケジュールをこなしていった。
市民球場第2試合。
あのニヤついた男とあたる、予選準決勝だ。さて、彼らはどんなチームになっているのか。見知らぬ顔が多いから、やはり中学進学とともに変動があったのだ。
「北峰中は今大会ナンバーワンのピッチャーだってよ」
まっちゃんが、顔見知りの他校選手に聞いてきた。それによると力のある速球に、切れのいい変化球を持っている3年生で、中島2軍ピッチャーもはるかに及ばないらしい。だから大会関係者の注目はもちろん、隣県の高校スカウトたちも何人か来ているという。
「谷山君と、どっちがすごいのかな」
新田がそう言うと、横川先輩が笑って答えた。
「比較にはならないわよ」
「どうしてですか?」
「先ず実績が違うわ。中学生としての経験の差ね」
やまちゃんが口をはさんだ。
「先輩は俺らの激闘の数々を知らねぇだろう」
新田も言った。
「それに、先輩は谷山君が本気で投げる右を知らないでしょう」
「知らないわよ。でも、そこが2番目ね。今日は慣れない左なんだから」
「谷山君は左でもきっと何とかしてくれるはずです」
「希望と現実をごっちゃにしたらだめよ。現実的に中学1年と3年では体格も体力も運動能力も、それにスキルも大きな差があるからね」
やまちゃんが苛立たしそうに言った。
「先輩は、俺らが負けるとでも言うのか」
「違うわよ。気持ちを引き締めて行きなさいってことよ」
新田がキャプテンに聞いた。
「キャプテンは知っているんでしょう?北峰のピッチャーを」
キャプテンは真顔で、しかも即答。
「うむ。知らん」
本田先輩が口をはさんだ。
「俺らの去年は想像できるだろ?他校の事なんて知らないよ。ただ北峰は伝統的に強いチームなんだ」
他の先輩たちも異論はないようだった。もう何を聞いても無駄だ。とにかくやってみて、自分らで判断していくしかない。しかし、そんなピッチャーがいるチームに、ニヤついた男がいるなんて、ちょっと厄介な敵だ。
試合が始まった。
先に決勝進出を決めた中島2軍選手達や氷山親衛隊などでそこそこ観客がいた。
僕らは先攻だ。
マウンドには、そのナンバーワンピッチャーがいた。体が大きく、目つきの鋭い男だった。投球練習でパーン、パーンと、いい捕球音を響かせていた。
プレイ!という号令とともに、ガンちゃんがセーフティバントの構えを見せた1球目。3塁手が猛ダッシュしてきた。僕らのスタイルは、ニヤついた男から伝わっていると見ていい。
ボールは外角低めへ外れた。
ガンちゃんはバットを引いて1ボール。
2球目。ズバンと内角を攻めてきた。ストライクだ。
3球目。高めの球だったので、ガンちゃんは大根切りを試みたが空振りとなった。思った以上にキレがいい。
4球目。外いっぱいに決まるカーブがきた。ガンちゃんはおよがされながらも、何とかカットした。まだ4球しか見ていないが、やはりかなりいい投手だ。
5球目。外角低めに外してきた。という事は、次は内角高め速球でフィニッシュするつもりなんだなと考えていると、何とその球はストライクと判定され、ガンちゃんは三振となってしまった。今日の主審はあそこをとるのか?それともあまりのキレの良さに誤審したのか。
続くまっちゃんはいつものように「よっしゃー」をと叫びながらバットを3回まわして打席に入った。ランナーがいる時は「3球目、バントするぞ」の合図だが、ランナーがいない時はただのカモフラージュだ。
1球目。まっちゃんはバントした。しかし、あまりの球威にバット上面に当たったボールはそのまま勢いよくバックネットに当たった。恐ろしいキレだ。中島1軍のピッチャーよりすごい。あんなのを、どうやって打ち崩すのか。
2球目。またバントの構えを見せたが、外角に外れた。ここで、まっちゃんはバントをやめた。しかし3球目はストライクからボールになる球で、大きく空振りした。まっちゃんは、一度打席を外し何か考えていた。「何か」と言っても僕にはわかる。2ストライクになったから、3塁手が定位置に戻ったのだ。そこにバントする。まっちゃんは勝負に出た。
4球目。ガコンという大きな音とともに、案の定バントした。しかし、勢いを殺しきれておらず、ただの3塁ゴロのようになってしまった。難なく捌かれアウトになった。まっちゃんは、「あ~!くそ!」と珍しく悔しがりながら戻ってきた。それほど勢いのあるボールなんだ。
僕の番だ。
相手は確かにナンバーワンピッチャーだ。さて、どう攻めるか。ニヤついた男から僕らの話を聞いているのなら、先ずは外角低めから様子を見てくるだろうと思ったが、ズバンと、内角高めを速球でつかれた。いいボールだ。速さは僕の豪速球には及ばないが、その力はさすがに中学3年生だ。横川先輩の言うこともあながち間違いじゃない。2球目も内角高め速球で、2ストライク。さて、そろそろ外角低めかと思ったが、3球目も僕の苦手な内角速球で攻められ、僕は慌ててバットを振ったが、3球三振。おもしれぇ。力と力の勝負を挑まれ、そして僕を力でねじ伏せたんだ。三振はしたものの、僕は闘志が湧いてきた。
1回裏。
僕がマウンドに向かうと「ひやまくんを出して~」という例のブーイングに、「きゃぁ~」という黄色い声援が混じった妙な反応があった。どっちでもいいさ。僕は僕の仕事をする。
さて、プレイがかかる直前に僕はいつものように天を見上げた。この空はアメリカまで続いているんだな。ふうちゃんは今どうしているんだろう。ふうちゃんのおかげで僕の左も形になってきた。よし。やってやる。実績なんて関係ない。僕は僕の力を出し切るんだ。
「プレイ!」
主審の号令のあと、僕は大きく振りかぶった。何回もくりかえし練習した左のフォームで、第1球を投げた。その球は、パーンとはるちゃんのミットを響かせた。外角低目ストライク。
2球目。
大きく振りかぶって、足を蹴り出し、勢いと下半身のバネをいかして、サイドから鋭く振り切った。僕は何とか間に合った横スライダーで空振りを取った。
そして3球目。はるちゃんの要求は未完成の落ちるカーブ(縦スライダー)だった。投球はワンバウンドするような結果になったが、打者は見事にひっかかり空振り三振。やはり変化球があると幅が広がる。
2番打者にも、力勝負ではなく、変化球でかわす投球をした。今回、序盤はかわす投球、次は打たせる投球、そして最後は力勝負と決めていた。僕は僕なりに成長していたが、はるちゃんもまた、氷山先輩と組むことで、さらにクレイバーな投球術を学んでいたようだ。力勝負だけでは9回までもたない。だから力の入れどころと抜きどころを考えつつ進めていくのだ。序盤は相手が打つ気満々だからひらひらとかわせるものならそうすればいい。それがはるちゃんの作戦だ。正しいのかどうかはまだわからない。でも、いろんなパターンで僕らは経験を積むべきだ。とにかく2番打者も三振にとれた。
そして3番。あのニヤついた男だ。彼にローボールは通じない。でもはるちゃんの要求は、落ちるカーブだった。案の定、落ちるカーブに食いついてきて空振りだ。その球は後ろに逸れたが走者がいないので問題ない。僕の落ちるカーブは、全くの未完成で悪く言えば荒れ球だ。どこにいくのか僕にもわからない。でもこうして役に立っている。要は使い方なんだと、はるちゃんは言った。
2球目。外角高め。速球で空振り。
そして3球目に高めの横スライダーを投げ、3球三振。三者連続だ。豪速球ほどの力を入れずに、こんな結果が得られるなんて。僕は自分で自分に驚いた。いや、はるちゃんと、はるちゃんを導いてくれた氷山先輩のおかげなんだろうと思い直した。
試合は投手戦になってきた。力のある球で僕らを討ちとっていくナンバーワンピッチャーに対して、僕はまさに“のらりくらり”の投球で、お互い3回まで1人のランナーも出していない。
4回表。ふた回り目だ。ガンちゃんは最初からバントの構えを見せていた。そうすることで相手の球種を減らせるから、的を絞りやすいと考えたのだろう。おそらく内角高めを誘って、一転、大根切りを狙っているのだ。しかし相手は乗ってこなかった。内角ではあっても低めに正確に投げてきた。ガンちゃんは、見せかけを悟られまいと無理やりバントしたが、どうにもならずに足元へのファールチップ。相手もなかなかだが、ガンちゃんもバントの構えをやめなかった。
2球目は、一旦外角へ外したボール球だった。
3球目。外角高めに外された。カウント1-2。という事は、次には内角低めにくるだろうと考えたのか、ガンちゃんはようやくバントの構えをやめた。しかし、ど真ん中へおそろしく切れのある球を放りこまれ、ただ見送るしかなかった。そして4球目。落ちるカーブであえなく三振。続くまっちゃんも、いろいろと試みたが、何をやっても通じなかった。
ベンチを重い空気が支配していた。一体、どうすればいいのか。よし。わかった。確かに相手はナンバーワンだ。僕らがあれこれ考えても通じる相手ではない。ならば。あれこれ考えるのはやめようと思いながら打席に入った。そしてとにかく粘って粘って喰らいつき、いい球が来たら落ち着いて呼び込み、はじき返すんだ。
かけひきも技も何もなく、ただ夢中になっていたあの頃。そう、白石の親父さんと過ごした僕の野球の原風景に戻るんだ。
結果で言うと、僕は7球粘ったものの、やや振り遅れのライトフライに終わった。でも、いい感触だった。次はいける。そう信じた。
この回から僕らは打たせてとるピッチングに変えた。かわす投球に自信がついたから、予定通りの作戦だ。狙って投げて打たせてとる。昔、ふうちゃんがやっていたことだから、僕にもできるさ。そう言い聞かせてなんとか予定回数の6回までいくことができた。
これは途中で気づいたことだが、こんなに順調にいけたのは、実はナンバーワンピッチャーのおかげだ。彼が淡々と、しかも大胆にうまいピッチングをしていたから、その空気が僕にも伝染したというか、あまりうまくは言えないけれども、ちょうど張り合うように、引っ張られるように僕も何とかなったんだ。そう。彼のおかげなんだ。ならば。お礼をしなくちゃ。僕は7回の打席に賭けた。
7回表。
ガンちゃんも、まっちゃんも倒れ、僕の打席になった。この打席も、僕は粘った。彼は、ちょっと苦しそうに見えた。どこでフィニッシュしたらいいのか考えているようだった。どこに来たって同じさ。僕は喰らいついてやる。さらに2球粘った後。とうとう彼はミスを犯した。彼の指先から、すっぽ抜けるボールが見えた。打てるかも。そう思ってギリギリまで見ていた僕は、よけるのが遅れた。こともあろうに左肩を直撃。
泉川のベンチが息を呑んだ。
思ったより痛くて僕は打席を外した。僕は右打者だ。でも左投手なんだから、こんな時はさっさとよけないといけなかった。そんな当たり前のことをすっかり失念していた。新田がエアー湿布剤を持って走ってきた。
「だいじょうぶ?谷山君」
「ああ。いつも悪いな」
「そうだよ。いつも無理して心配かけるんだ。さっさとよければよかったのに」
僕は苦笑いした。新田は丁寧に吹付けながら聞いてきた。
「どう?今日はちゃんと動く?」
僕は左腕をぐるぐる回してみた。痛みはあっても、それは表面上の事で、問題なさそうだ。
「ああ。ほら、大丈夫さ」
「よかった。でも無理しないでよ。僕らはもうベスト4なんだし、決勝大会には行けるんだからね」
彼が帽子をとって謝っていた。確かにこの後の投球を考えると問題ではあったが、あんなすっぽ抜けを投げさせるほどナンバーワンを追い詰めたのだ。
僕は1塁に立った。
次はキャプテンだ。キャプテンの打力なら僕が2塁にいれば、ひょっとすると得点できるかも知れない。よし。盗塁を決めてやろう。そんな気持ちばかりが先行して、気づいた時には牽制球がこっちを目指して飛んできた。まずい!僕は頭から帰塁しようと、左手を伸ばした。1塁手の猛烈なタッチが、僕の左手を襲った。痛て。あざが残りそうなくらい激しいタッチだった。判定は。アウトだ。おまけに中指を塁でつっついてしまったようで、また爪が剥げかかったかのような紫色になった。何やってんだ。僕はアウトになった恥ずかしさと指の痛みで悔しかった。僕は左投手なんだから、左手を差し入れたらまずいだろ。反射的にいつものように左手を使ってしまったのだ。その辺りも改善しないとな。
ともあれ。攻守交替だ。
僕はベンチに戻り、効くかな?と思って消毒液を指と爪の間に流し込んだ。
「谷山、大丈夫か?」
はるちゃんがそう聞いた。
「これくらい、いつものことさ」
僕はそう言ってさっさとマウンドへ向かった。タッチされた手の甲も痛む。ちょっと冷やせば治まりそうだったが、そのうち痛みもひくだろうと思って気にしない事にした。
さて、この回からの予定は力勝負だ。
1球目。
僕は例のクロスファイアーを投げ、それは小気味よく決まった。よし。死球やタッチの影響はない。見た事もない軌跡を描くストレートに打者は驚き逃げ腰になった。
2球目は横スライダーでストライク。やはり徹底的に練習したこの2球はうまくいく。
3球目には高めボールのつり球を投げたが、そう簡単にはひっかかってくれなかった。やはり小学校とは違うし、左投げの場合、右ほどの威力がないのだ。
4球目。はるちゃんの要求は横スライダーだ。なるほど。さっきの球はスライダーで決めるための布石だったのだ。さっきと同じ軌跡から、わずかにスライドした球は、見事に三振を奪った。2番打者は、スライダーから入り、クロスファイアーで決めた。この2種類で何とかなりそうな気もしたが、油断は禁物。次はニヤついた男だ。
はるちゃんのリードは僕ですら読めないほどに進化していたと思う。何球も続けて落ちるカーブを要求してきた。確かに荒れ球だから、ローボールヒッターでもなかなか前には飛ばず、カウントは2-2になっていた。そしてはるちゃんは、クロスファイアーの高めボールをフィニッシュに要求してきた。何もストライクで三振を狙わなくてもいい。何にでも食いついてくるほど必死な今のニヤついた男なら、必ず三振するだろう。僕もそう思った。よし。では、せめて全力で投げよう。ニヤついた男のプライドのために。
狙い通りニヤついた男を討ちとり、8回へと進んだ。僕らの攻撃はキャプテンの仕切り直しからだ。
僕はベンチに戻ると、湿布剤を左の肩と手に吹付けた。やはり投球をするとあったまってくるので、ズキズキと痛む。いつも怪我ばかりだな。僕は自嘲気味に笑った。心配そうに吉永が覗き込んでいた。市民球場にダッグアウトはなく、簡素なつくりのベンチがあるだけだから、女子マネージャーもみんなと一緒にいる。打席に備えヘルメットを被ってバットを握った白石が僕の隣に座った。
「大丈夫か?」
僕は苦笑いした。
「おまえは、怪我が多すぎる」
「そうだな」
「昔、親父が言っていただろう。いい選手とは、欠場しない選手だって」
「欠場はしないけど」
「怪我が増えれば欠場もありえる。いい選手とは、怪我をしないでコンスタントにチームに貢献できる選手の事なんだ。おまえ、忘れたのか」
「いや、憶えている」
「なら考えろ。怪我をしないうまいプレイをな」
その言葉も遠い昔、親父さんから聞かされたような気がする。でも怪我を恐れて踏み込めなかったら、勝てるものも勝てない。
「そこを、うまくやろうな。俺たちは行けるところまで行くんだからな」
白石は笑った。
そうこうしている間に、打者はいつの間にかやまちゃんに代わっていて、カキンという快音を発して1塁目がけて走っていた。歓声がチームメイトから上がった。初めてのヒットだ。
白石はネクストバッターズサークルに行くため立ち上がった。
「よし!俺が決めてやる。いつもおまえにばかりいいかっこはさせない」
白石は笑顔でそう言ったが、真剣な眼差しを僕に向けていた。
「おまえには、負けねぇからな」
踵を返してグランドに出て行った。僕は不思議な気分だ。白石は何かいつもと違う。吉永が、白石の背中を見つめていたのを、僕は気づかなかった。
ヨッパライのバントのサインを田中は実行した。さすがのナンバーワン投手も8回でランナー有りだと勝手が違うのか、田中は1球で決めた。いや。田中がうまいのか。もともと僕らは徹底的にバント練習をしてきた自信がある。
ツーアウト2塁。
打席には白石。三振も多いが、当たればでかい。頑張れ白石。お前だって人一倍努力してきたんだ。夜中、百スイングを日課にしているのを俺は知っているぞ。さっき言った事本当にやってみろ!
8球粘ったあと。白石の渾身のスイングは見事にボールを捉えた。僕らの期待をのせた打球は、速く、力強く飛んでいった。
みんなが固唾を呑んでゆくえを見守った。そして左中間に着地した瞬間、わぁっと歓声が上がった。重苦しい投手戦がついに動いた。やまちゃんが満面の笑顔でホームインしてきた。白石はスライディングセーフの2塁打だ。さかんに右手を突き上げ、笑顔を見せている。僕らのベンチもおまつりさわぎ。
それほどナンバーワン投手は手ごわい相手だった。いや。過去形ではなく現在進行形だ。彼はひとつ大きな深呼吸をして気分を落ち着かせると、次の神崎先輩を冷静に討ちとった。
8回裏。
北峰中も4番打者からだ。やはり怪我の影響なのか。キレのないボールしか投げられず、僕は4番、5番と連打を許した。6番はなんとかスリーバント失敗に追い込み、7番は三振にとったが、8番には四球を与えた。
怪我のせいにはしたくない。でも指も肩もズキズキと痛みが激しくなり、慣れない左の緊張感が疲労感へと変わり、いつもと違うリズムの悪さに戸惑いを感じた。北峰中サイドは、押せ押せムードに沸いていた。
僕はマウンドで深呼吸し、天を見上げた。三連覇した時の強い気持ちを思い出せ。すまん。白石。せっかく忠告してくれたが、僕にはそんなスマートさはないようだ。指が、腕が、たとえちぎれても目の前の敵を全力で倒すことしか頭に浮かばない。
渾身のクロスファイアーで2ストライクを取った後。はるちゃんは大胆な要求をしてきた。未完成の落ちるカーブだ。後ろにそらせば同点だ。絶対止める自信があるというのか。僕は一度プレートを外した。
確かにキレのない今の球ではフィニッシュは決められない。ならば。これは奇襲だ。後ろにそらすリスクがあるから、打者も想定外だろう。三振とるには、これしかない。
勝負だ。
満塁だから僕は大きく振りかぶった。速球でいくと見せかけるためでもある。そして、足を蹴り出し、大きくテイクバックし、腰を入れて腕を振り切った。
結果は。
よし!三振だ。
しかし、はるちゃんはボールを落としたので、慌てて拾い上げタッチにいった。勝負の気迫が僕の自信に変わった瞬間だった。氷山親衛隊やら何やらの歓声を受けながら僕らはベンチへ引き上げた。
9回表の攻撃中。
僕はヨッパライに呼ばれた。
「谷山、左手を見せろ」
僕は弱みを見せたくなくてまごついていた。
「いいから、見せろ」
仕方なく僕は左手を差し出した。中指のはがれかかった爪を調べながら、ヨッパライは続けて聞いた。
「肩も痛むんだな」
「痛くないです」
僕は意地を張ってそう答えた。
「わかった」
ヨッパライは短くそう言った後で、驚くべきことを言った。
「右でいけ。9回は」
「はぁ?」
「今日だけ特別に許す。いいか。今日が最後の右投げだ。中学ではな」
僕が驚いて無言でいると、ヨッパライは言葉をつないだ。
「おまえが右の準備もしていたのは知っている。今日が最後だ。思う存分暴れてこい」
僕が「はい」と、ヨッパライに答えたのはこれが初めてだった。左でも頑張ってきたつもりだったので多少の心残りは感じたが、そんな事、今はどうでもいいと自分に強く言い聞かせた。左の面白さはこれからだし、とにかく目の前の敵を全力で倒すんだ。
9回表の攻撃終了時、僕はネクストバッターズサークルにいた。だから右でのキャッチボールすらしないまま登板することになった。グラブは控え選手のを借りた。あまりフィットしなかったが仕方ない。いや、そんなことよりも、思ってもいなかった右で投げられる事が、意外とうれしく、はやく投げたくて投げたくてうずうずしていた。マウンドに登り、軽く投げてみた。軽い。肩が。でもそれは軽すぎず、ちょうどいい。
いける。
右投げをおろそかにせず、筋トレやシャドウピッチングを続けてきた成果だ。北峰ベンチがざわついた。見物していた中島中もだ。彼らが何を思ったのかは知らないが、今日の右はベストだ。打てるものなら打ってみろ。投球練習を終え、僕はいつものように天を見上げ、大きくひとつ、深呼吸をした。
「よし」。
プレイがかかり僕は大きく振りかぶった。
左足をあげ、大きくテイクバックし、腰をいれ、全体重を乗せて振り切った。
ズバン。
ど真ん中豪速球が決まった。辺りが静まった。僕自身も驚くような威力と速さを持った球だった。はるちゃんが立ち上がり、タイムをとった。そして、久しぶりにイテテを見せた。
さすがのはるちゃんも、まさか右投げがあるなんて予測していなかったようで、今日は軍手を持ってきていない。北峰ベンチがざわめきだしたが、ニヤついた男は真剣に僕を見つめていた。ベンチからは新田の声援が聞こえた。
「すごいよ!谷山君。豪速球を超えているよ。超豪速球だ!」
僕は思わず笑った。よくもそんなこと思いつくもんだ。
2球目。はるちゃんの要求は外角低め、遅い球だった。ボールは正確に飛んだ。やはり右の精度はすごいなと自分で感心するくらいのところに行ってくれた。打者は完全にタイミングを外されたようで、引っ掛けただけのボテボテゴロ。まっちゃんが軽くさばいて1アウト。ボールをまわすみんなも躍動していた。
次の打者には外角低め遅い球から入り、2球目は同じ球でストライクを取った。
3球目。高め速球のつり球にまんまとひっかかってくれて空振り。
そして4球目に新田の言う超豪速球をど真ん中に決めると、バッターは身じろぎもできずに見送り三振となった。勝利に向けて泉川サイドのボルテージがあがった。「あと1人!」のコールもちらほら聞こえた。しかし3番打者は、僕にとってライバルと呼べる、あのニヤついた男だ。はるちゃんの要求は完全勝負のど真ん中豪速球。おもしろい。僕は逃げも隠れもしない。力と力の勝負だ。
1球目。
さっき以上の超豪速球が決まった。
2球目。
さすがはニヤついた男だ。ど真ん中超豪速球にかすり、ファールとなった。ふん、打てるものなら打ってみろ。全く負ける気がしなかった。
「次で終わりだ」
僕はそう思い、全力で超豪速球を投げた。わずかに力みすぎ、高めにいった超豪速球に、ニヤついた男のバットは空を切った。
三振だ。
ニヤついた男は何も言わず、ベンチへひきあげた。僕は、勢いで飛んでしまった帽子を拾った。そして起き上がろうとすると、マウンドに集まってきたナインにもみくちゃにされた。
そう。僕らの勝利だ。
ナンバーワン投手のチームに勝った。
整列し、挨拶を終えると、ニヤついた男が声をかけてきた。
「すげぇな。おまえは」
「あたりまえだ」
「ふん。しかしまあ、それでこそ俺のライバルだ。決勝大会では負けないからな」
「死ぬほど練習してこい」
「右も故障ではなかったようだな。温存しているのか?」
「温存?」
「違うのか?」
「さあ。左は監督の指示だから」
「不思議なことを言う監督だな。まあいいさ。右でも左でも、最後には俺が勝つ」
「いや、最後まで俺が勝つ」
ニヤついた男は初めて笑顔を見せた。
「言ってろ。じゃあ、またな」
左手をあげてニヤついた男が帰っていったので、僕も帰ろうと思い、ベンチの方へ振り向くと、チームメイトやギャラリーから、大きな歓声があがった。「0点おとこ~!」や「たにやまく~ん」などと言った声も聞こえた。
何かすげぇな。俺。みんながこんなに喜んでくれるなんて。
完読御礼!
いつも熱心に読んでくださる方々には感謝です!
次章以降もよろしくお願いします。