五話 炎の怪人
燃え上がる建物を見た仁座の反応は早かった。
瞬時に「自身を構成する気の流れ」を強める。
全身に力がみなぎると同時に、世界の速度が緩やかになったかのような錯覚を覚えるほど感覚が鋭くなる。
身体の強度と能力を爆発的にあげる効果がある【魄鎧】という術だ。
仁座は、一階、二階と屋根の上に飛び移ると、部屋から吹き出る炎を物ともせず窓格子を蹴破り室内へと侵入した。
「クラモチさん! いるか!? ――ックソ!」
室内の状況を確認して顔を歪める。
蔵の中は広々とした板間になっており、左右の壁面には棚が並んでいた。
どこもかしこも炎に包まれており、部屋の中央には一際赤々と燃える黒い塊がある。その正体が、自分がほんの数時間前に言葉を交わしたばかりの相手であることを察した仁座は、怒りを籠めて炎を挟んだ向かい側を睨みつけた。
黒い影がこちらを見つめていた。
炎が翻り影の中から金の瞳が光る。
影の正体は、黒服を着た仮面の怪人だった。赤い文様の走った黒塗りの鳥顔――赤の霊獣朱雀を擬人化した姿、『釈問天』の仮面だ。
「――夜盗か」
仁座は相手の背中にある物を見てそう判断する。
仮面の男の背中には錫杖が背負われていた。昼に蔵持が買い取った祭具『転輪杖』だ。腰には二本の刀が刺さっており、一本は普通の刀だが、もう一本は風呂敷に包まれてる。もしかすると、こちらも盗品なのかもしれない。
「殺す必要まであったのかよ!」
仮面の男に向かって、仁座は吼えた。
彼の怒りに触発されたかのように炎が勢いを増す。
轟々と燃え盛る炎を挟んで二人はしばらく睨み合う。
先に動いたのは、仁座だった。一瞬翻った炎が互いの姿を隠した瞬間、彼は真っ直ぐに炎の壁を突き破り、仮面の男に肉薄する。相手が腰の剣を振り抜くよりも早く、懐に滑り込むと右腕を力いっぱい振りぬいた。
仮面の男は、弾かれたボールのような勢いで後方の壁へと叩き付けられる。そのまま壁を木っ端微塵にふき飛ばしながら、部屋の外に放り出された。
仁座は、相手が取りこぼした刀を掴むと、追い打ちをかけるように、続いて夜の中へと飛び出した。
仮面の男は、壁を突き破ってなおも勢いは止まらず、隣の連なった蔵の屋根上を何度も弾んだ。瓦の上をニ転三転しながら四つんばいに体勢を立て直すと、吹き飛ばされた勢いを殺すために両手で瓦をひっかくように撫でた。すると触れた屋根瓦が次々に泡のようにふわりと浮かび上がり、仁座の追撃を阻止しようとするかのように男との間を隔てる。
昼間に見た『虚戯』の術。だが練度は桁違いだ。
仁座はひるむことなく、身体で瓦礫を弾き飛ばしながら敵へと突進する。相手が刀の間合いに入ったと判断した瞬間、仁座は屋根にヒビが入るほどの強い踏込で、身体を急制動させると同時に横なぎの斬撃を叩き付けた。
身体を胴から上下に一刀両断すると思われた斬撃を、仮面の男は紙一重で跳躍して躱した。
仁座は仰ぐように相手を目で追う。
仮面の男は、仁座の身体を大きく飛び越えると、燃え盛る屋敷の屋根に音もなく着地した。
「見ろ! あそこ――屋根の上に何かいるぞ!」
下から誰かが叫ぶ声がした。川向うの飲み屋街からやじ馬が集まってきたのだろう。
ちらりと屋根の下を見やり、人が集まってきたことを確認した仮面の男は、ようやく腰に差していた風呂敷に包まれたもう一本の剣らしきものを抜きとる。体前に横一文字に突き出すと、風呂敷は男の手の中で一気に燃え上がった。
炎が散り姿を現したのは、一本の剣だった。
真っ黒な鞘に納められた無骨な直剣を見て、仁座は驚きのあまり目を剥いた。
「それは――『鳳旋歌』!?」
間違いない、師より託された〈鍛心流〉の証ともいえる祭具。
仮面の男は、鞘から剣を抜く。
長い尾を引いた鳳凰が刻印された諸刃の剣が、炎に照らされて赤く煌めいた。
その瞬間、まるで熱狂したかのように炎の勢いが強くなる。
仁座は声にもならない怒号をあげて、砲弾のような速度で走りだした。
仮面の男はそれを見て、懐から折り紙で作った人形を取り出し仁座と自分の間に放り投げると、ぼそぼそと早口で何かを呟いた。
途端に紙人形達がみるみると膨れ上がり、大人ほどの大きさの紙の兵隊となった。
紙兵士は炎で身を焼きながらぎこちない動作で仁座に襲い掛かる。
立ちはだかるそれらを仁座は歯牙にもかけず斬り飛ばしながら、まるで巌間を抜ける流水のように前進する。
しかし、燃え盛る屋根の上にたどり着いたそのとき、突如、仁座は何かに足をとられた。足元を見ると、いつの間にかそこにいた紙人形の腕が彼の足首を掴んでいる。
紙人形は仁座の足首を掴んだまま、瞬く間に巨人のように大きく膨れ上がると、三階の屋根の上からはるか下の大地に叩き付けるように投げつけた。
仁座は錐もみながらも、地面に叩き付けられる寸でのところで体勢を直し猫のように大地へ着地した。
「何だ!?」「人が降ってきたぞ!」「刀持ってる! 殺されるぞ!」「助けてえ!」
すぐそばで騒ぎ声がした。
恐怖したやじ馬たちが悲鳴を上げのだ。
あっという間に辺りは恐慌状態に陥った。
「落ち着け、危ないぞ――」
仁座は声を張り上げるが、場は一向に治まらない。
ふいに熱気と光が差し迫るのを感じ、空を見上げる。
つられるように夜空を見上げた誰もが言葉を失った。
燃え上がる紙の巨人が、ぐらりと倒れ伏すように落下し、ゆっくりと眼前に迫ろうとしていた。
「くそっ」
仁座は悪態をつく。
自分は耐火の術が使えるからこの程度の炎は問題ない。
だが、周りにいるやじ馬達はそうはいかない。
群衆が思わず頭を抱えた。
その瞬間、凍えるように冷たい風が吹いた。
仁座の眼前に大地から一筋の稲妻が現れ夜空を衝いた。
稲妻の正体は氷で象られた冬枯れの木だった。節くれだった鋭い枝が次々に紙巨人を貫くと、巨人は炎と共に掻き消え視界に夜空が広がった。
皆が狐につままれたような顔で空を見上げる中、仁座は視界の端にひらりひらりと舞う、小さな紙片へと戻った燃える紙人形を見つけた。
その紙片を目で追うように振り返ると――、
「間一髪だったな」
抜身の刀を持った一人の男が立っていた。
端正な顔に鋭い目つき、青い飾紐をつけた黒色の軍服を着ており、腰にはきらびやかな銀の細工が施された青鞘と無骨な黒い軍刀を帯びている。
抜刀された刀の並々ならぬ気配を感じ取った仁座はすぐにそれが祭具だと悟り、同時にさきほどの氷樹はこの男の陰陽術だと理解する。
男は冷たい視線で燃え盛る屋敷を見上げると、
「『冷渋し、凝絶せよ』」
短く告げて、手に持った刀を素早く一閃させた。
途端、凍り付くような冷たい突風が炎を撫で、まるでろうそくの火を吹き消したかのように火災が収まった。
男が使った陰陽術のあまりの鮮やかさに、仁座は一瞬目を奪われる。
「――そうだ、『鳳旋歌』!」
すぐに我に返り、視線を巡らせる。
仮面の男は、既に遠くの屋根の上を駆けていた。
「くそっ! 誰だか知らんが、ここは任せたぞ!」
仁座は、慌てた様子で男に声をかけ、追いかけようと足に力を込める。
しかし、どういったわけか自分の足が持ちあがらない。
不思議に思った仁座は足元に視線を落とした。
自分の足が氷漬けにされて、固定されていた。
「ちょっと!? お巡りさん! これ、凍っちゃってるよ?」
仁座は男に向かって叫び声をあげた。
男はそんな仁座を冷めた目で見つめると、
「凍らせたんだ。――私闘罪および放火の容疑でお前を逮捕する」
遅れて男の背後から複数の警官が次々と駆け付けた。
男たちは走りながら氷漬けにされた仁座を確認すると、そのままの勢いで彼に殺到した。
「犯人確保ー!」「確保ー!」「確保オオオ!」
「うわあー! ちょっと待て、違う違う違う!!」
悲鳴を上げる仁座。
刺又を持った警察が、足をとられ動けないその身体を次々と突き立てる。
ウェッ、と仁座は潰れた蛙のような呻き声をあげた。
あざやかな捕り物に、やじ馬たちがわっと喝采をあげた。
駆け寄った警官の一人が、男を称賛する。
「お疲れ様です。天城巡察官。さすがですね」
「いや、たぶんこっちは放火犯じゃない。逃げだした方は、ソウスケが追っている」
「茶賀巡察官がですか?」
「あいつは足が速いし腕もいい。よっぽどのことがない限りは、逃げられないだろうが……」
そう言って、軍服の男は燃えた建物を見上げた。
炎は綺麗に三階部分だけを燃やしていた。不思議なことに二階部分や、隣接する建物には一切火は移った痕跡はない。
「術の対象を限定させているのか……」
いい腕をしている、男は憎々しげに呟いた。
これだけの能力がある相手だ、ただの盗人ではないだろう。
「面倒なことになりそうだ」
喧噪のなか男の声は誰にも拾われることなく闇に消えた。