7、お出かけの準備
翌朝目が覚めてもこのおかしな夢から覚めることはなかった。
見慣れない天井、新築特有の真新しい木材の香り、そして久しぶりのベッドの感触、そのどれもが今までの雅には感じることのないものばかりだった。
寝返りを打てば、昨日の夜に風呂に入って身綺麗になったキリカがぐっすりと安らかに眠っている。
けれど、体を丸めてできるだけ小さく自分を守るように蹲っている寝姿を見つめ、幼少時代にあまりいい思い出が無かったものの、それでもキリカよりも恵まれていたのだとそう思った。
まあそれでも恵まれていた、なんて言える程いい思いはしていなかったのだけれど。
怒涛の展開からまだ一日、夜が明けた程度の時間しかたっていないが、夜も夜で色々あった。
ますは風呂だ。
風呂如きに何を、と考えるものもいるだろうけれどキリカは風呂自体を貴族しか入れない特別なものだと認識していた。
そのせいで説得するのにも時間が掛かった上に、説得というのも疑問に思うような無言の圧力で無理やり風呂に入れたのだ。
勿論雅が先に入った後にキリカが入ったのだが、使い方の分からないものばかりだったのか悲鳴が何度か上がり、その度に風呂場に乗り込みその都度分からない物を説明するのだ。
これが石鹸、これがシャンプー、これがリンス、これが。一度で理解し、初めての経験からか少し興奮した様子で楽しそうに自分を洗う。
そう、風呂場にも雅がいたころに見てきた家と変わらない。貴族がドレスを着て王が王冠を被っている。
勇者が現れて世界を救うために奔走する。そんな世界に来たはずなのに、この新築の家の中では変わらない生活を送れる。
トイレも下水がどこにあるのか分からないが近くの壁に手をかざせば水が流れた。流さずにいれば離れた時に水が流れた。
この家に不便なものはなかった。ただ一つ、包丁が無いくらいだろうか。
今はどこぞかで見た木製の持ち手がある鞘付きの短刀がそれ代わりだ。
それを使って朝食を作る。
朝食と言っても主食が無い。この世界ではパンが主食だった。どの店も米を売っていない。パンも硬くて食べられたものではなかった
雅の体は自分で思っているよりも燃費がいいらしく、昨日作った塩だけの味気ないお好み焼きを3枚も食べたのにも関わらず、朝早いこの時間には空腹で腹を鳴らしていた。
二階のベッドから起きあがり、そのまま階段を使ってキッチンへ向かう。
寝起きの口の中のべたつきをうがいで洗い流して朝食を作り始めた。
主食はない。硬すぎるパンを食べるつもりは毛頭なかったため、また物足りない野菜炒めと野菜の皮が入ったスープ。
どれも味付けは塩だけで、醤油やソースなどを使って舌が肥えている雅には物足りなさを強く感じさせた。
匂いにつられ、キリカが慌てて二階から駆け下りてきた。
「申し訳ありません!朝食を御作りするつもりだったのですが、」
顔を真っ青に染め上げ、握りしめた拳がふるふると震えている。
それを横目にカウンターのテーブルに大盛りに乗せた皿とスープを2つ、それから冷たい牛乳を2つ置いた。
キリカはそれが自分のものだと思わずに床に正座して座ってうつむいた。
「それ、そこのテーブルに運べ。飯食ったら少しこの山見回ってお前の言ってた包丁、買い行くぞ。」
カウンターテーブルに置かれた物を指さし、自分のスープと野菜炒めが盛られた皿を持ってその近くのテーブルの上に置いた。
「スープ、熱いから気を付けて持てよ、皿の淵持てば熱くないから。」
もう一度カウンターテーブルに戻り、牛乳が注がれているグラスとスープを座ったままのキリカに差し出す。
「え、あ、はい!」
キリカは慌てて立ち上がり、その二つをそっと持った。
これを落とせば死ぬ、そう覚悟しているような面持ちに呆れた表情を向けて残りの牛乳をテーブルに持っていき椅子に座る。
「あ。箸がねぇ。」
そこで食べる時に箸を持って行ってない事に気が付いた。
雅は立ち上がり、再びキッチンで箸を探す。
可愛らしいピンク色の箸と緑色の箸、ピンク色の方が短く、どう見ても子供用の箸だ。
緑とピンクの2膳を持ち、ピンク色の方をキリカに手渡した。
キリカはその2本の棒きれをどう扱うべきかわからず、雅がそれで食事するまでじっと見つめていた。
「・・・まさか、箸、使ったことないのか?」
この家があまりにも今までと変わらない物が多すぎて、キリカにまで気が回っていなかった。
それもそうだ、ここは海外の昔の歴史に出てくるものばかりだ。
主食だってパンだった。
そこまで考えて納得した。キリカには箸じゃなくてフォークやスプーンが良かったのだと。
「悪いな、これで今まで食ってたからお前の生活基準に気が付かなかった、フォークとスプーンでいいか?」
椅子から立ち上がると、キリカは慌てたように首を振った。
「わ、私はミヤビ様の日常に慣れたいのです!!これで食事をされいるのなら、私も、それで食事したいのです!!」
両手で箸を握りしめ、離さない意思を見せた。それから見様見真似で箸を持つ。
けれど、上手く箸が開かない。開かない事で掴めない。その様子を見つめ、食事を勧めながら箸先を持つキリカの手に向ける。
「違う、そうじゃない。本来は親指と人差し指で上の箸を持つ。・・・が、難しければ中指を添えて3本でやれ。そうすれば安定する。それと、箸先を人に向けるのはマナー違反だ。やるなよ?」
そう言って野菜を掴みそのまま口に入れた。
スープも茶碗に注いだ。箸を持ったまま飲む姿もずっと見ていた。
その視線に耐えることはできない。
「なんだ。」
そう尋ねると、嬉しそうに笑う。
「いえ、所作がとてもお綺麗だなと。他国の貴族様みたいで。もっと知りたいと思いました。子供で、しかも女の私が知ることが好きなんて、おこがましいとは思っているのですが、知ることが楽しいんです。」
笑いながら、どこか悲し気なキリカを驚いた顔をしてみていた。
「なんだ、いい事じゃねぇか。知るってのは大事だ。俺はそういう向上心のある奴は好きだしな。俺はガキはごめんだが、そう言うのは素晴らしいってもんだ。好きこそものの上手なれ。案外お前、将来化けるかもしれん。」
キリカ少し驚いた顔をしていた。それもそうだろう。キリカを取り巻く環境は、何かを知るための勉強をさせる事を許されなかったのだから。
けれど、雅はキリカの何かを知りたいという気持ちがいかに大事かを知っていた。なんでも卒なく熟せる若者はいた。優秀で要領が良かった。けれど、馬鹿でも馬鹿なりに好きな事だけをし続けていた奴程、教え甲斐はあった。
頑張りたい、よりも知りたい奴の方が勉強することを、叱られることを苦に思うことが少なかったのだ。
その点において、雅の中でキリカの評価は高くなった。そして聞き分けのいい子供でもある。
じっと自分が食べているところを見られるのは食べにくくて仕方がないが、それでもその吸収力は素晴らしい。
戸惑いながらも、もう箸の扱いを出来るようになっていた。
「あ、ありがとうございます。私、沢山知識を身に着けます。ミヤビ様のお役に立てるように。ミヤビ様の国の事も知りたいです。・・・この箸の持ち方以外にも、教えていただけますか?」
「ごめんなさい」「私なんか」と常に自分を過剰なまでに過小評価しすぎていたキリカのお願い。
自分の為ではなく雅の為という他人に依存する形なのはどうだろうかと思ったが、子供なんて「親に褒められたい」一心で何かに励む傾向にあるのは自分でもわかっているつもりだ。
まだ幼い子供のキリカにはその褒められる親らしい存在が必要なのだろう。
自分じゃ役不足だと分かっていながらも、引き取った以上はやるしかない。
「俺は優しく教えてやるなんて事はしない。変な期待はするなよ。」
諦めか、それとも覚悟か。ここでため息を見せるわけにもいかず、もう普通に飲めるほどの少し冷めたスープの熱を冷ます様に見せかけて息を吐いた。
食事を一通り終え、皿をキッチンへ置いた。食事を作ることは苦ではない。一番の苦は、この満足しきった気持ちのいい状態で行うこの皿洗いだ。
面倒に思いながら視界にキリカが入る。雅の面倒そうな表情を見て目を輝かせている。自分にまかせてくれ、目がありありと物語っている。
「・・・今後この食べ終わった食器、洗え。」
そう言って水道の水を流してそこから2歩ほど離れる。
「いいか、まずはこのスポンジに洗剤を付ける。そして効率よく洗う為に汚れがひどい物を水にざっとさらしてから他のを洗え。そんである程度大丈夫になったらその大皿を洗って、コップなんかは洗って次に洗う時に水の下に置く。他洗ってる時も同様にすると、すすぐ時楽になる。・・・そうだ。」
皿洗いなんて特別教えるものでもないのだけれど、言われた通りに行動しそれを嬉しそうに聞きながら洗う。それは不快ではなかった。教える手間を手間だと思わないくらいにはキリカに何かを教えようと思った。
「よし、洗ったら出かける支度をする。歯を磨いて顔を洗うぞ。」
普通は起きてからすぐに顔を洗うが、行く前に髭なんかを剃ったりするためいつも食事をして出かける準備に組み込んでいる。
「洗顔はそこだ。泡立てるヤツもそこに掛かってる。歯ブラシは、俺の青以外を使えばいいし、歯磨き粉はまあ、辛いかもしれんから少しだけつけろ。」
鏡を前に改めて自分の顔を見る。髭なんて生えておらず、やることは歯磨きだけで十分だった。
顔を水で洗うだけ洗ってタオルでふき取る。顔がさっぱりとした。
キリカも同様に歯を磨き、口をすすいでから水で顔を洗うだけだった。
「お前、そうか、洗顔も使ったことなかったか。まあ、まだ若いしな。肌も綺麗だしそんな気にすることもないか。」
キリカの濡れた顔にタオルをかぶせ、服を渡す。
「それに着替えたらそろっと出るぞ。」
その場で脱ぎだした雅にキリカは頬を赤らめ洗面所から勢いよく飛び出した。
そこまで恥ずかしがるものでもないと思ったけれど、それをキリカの思春期だと思い、一人納得しながら着替えを済ませた。