6.ユベントゥスの息吹
――異世界生活二年四ヶ月と二十三日目。
第一艦隊は予定通り、スエズ運河要塞に入港した。
一通りの手続きを終え、自室に入った俺はコテツに頭を下げる。
「コテツ、お願いがあります。コテツの力で、俺をオリンポスのヘーベの神殿まで連れていってくれませんか」
最近はあまり話をしていなかったが、
「うむ、何をしに行くか分からぬが、願いを聞いてやろう。最近は大天使が貴様を叱るので、私は大分楽をさせてもらっているからな」
母親の存在が影響していたと知る。
頼みを聞いてくれるのは嬉しいが、複雑な心境である。
「ねえ、君、僕も楽をさせてもらっているよ。君の病気は、いつも周りに迷惑を掛けるからね。専属で叱りつける者がいると、本当に助かるよ」
アレスが余計な事を言いイラっとするが、いつも通り同行するつもりなのだろう。
「もう、そういうのは無しにして下さい。みんなに気づかれると面倒なので、早めにお願いします」
俺はコテツとアレスを急かし、外に移動した。
――甲板。
つい最近要塞に入ったばかりで下船しなかった俺は、甲板の上から元の姿に戻ったコテツの背に乗った。
「コテツ、今の内にお願いします。ただ、お手柔らかにお願いしますね」
念を押したのは、毎回コテツが遠慮もせずに音速を超えるため、失神してしまうからである。
耐久力が最高レベルとはいえ、内臓までドラゴン並みという訳ではなく。
人間という種の限界を感じさせる。
俺が恐る恐るコテツにお願いしていると。
「カザマ、待つっすよ!」
ビアンカがどこで嗅ぎつけたのか、こちらに向かって走って来る。
「ビアンカ……仕方ない。ビアンカも一緒にオリンポスの神殿に行くか?」
頭ごなしに拒絶しても時間の無駄だろうと、俺は敢えてビアンカを誘うことにした。
「アタシも行くっす」
俺の後ろに飛び乗り、右手を挙げて喜びを顕にする。
ビアンカは知らないのだろう。
毎回コテツが音速を超え、酷い目に遭わされることを。
俺はそう思ったが、俺が居ない時は意外と普通に移動している事を知らないだけであった。
コテツが甲板を蹴り、空を駆ける様に加速を始める。
アレスが嬉しそうな笑みを浮かべ、俺を見つめ。
俺はすり込まれた恐怖で顔を歪めるが、ビアンカが浮かれているのを背中から感じる。
周りの景色が物凄い速さで移り変わり、低空で飛行していく。
俺は息を呑んで身を屈めていたが、ビアンカが声を上げる。
「コテツの兄ちゃん、もっと速く飛べないっすか!」
「ば、馬鹿! ビアンカ、余計な事を……」
「うむ、それでは本気を出すとしよう」
俺はコテツを止める事が出来ず。
「……ああああああああああああああああ――!?」
いつもの様に悲鳴を上げた。
後ろでビアンカが何か叫んでいる様だが、声が後ろに流れて聞こえない。
アレスが益々嬉しそうな笑みを浮かべて俺を見つめているが、構っている余裕はなかった――
――ヘーベの神殿。
音速を超える速度で移動したお蔭で、あっという間にオリンポスに着いた。
だが、疲労困憊した俺は、初めの覇気がなくビアンカに手を引かれながら、ヘーベの神殿に入った。
アレスたち十二神の神殿より小ぶりであるが、大理石の様な建材が使われて美しい。
そんな事を考えられる程に回復した俺は、ビアンカの手を離して礼拝堂へ続く回廊を緊張しながら歩いた。
扉は目の前に迫っており、もしかしたら姿を消したヘーベと会えるかもしれない。
淡い期待が、前へ前へと足を速める。
――礼拝堂。
扉を開けると以前目にした光景が広がった。
簡素だが清潔感を漂わせる空間の奥に、ヘーベの姿をした女神像が佇んでいる。
俺はみんなを引き連れる様に、祭壇の前まで足を進め、膝を着いた。
「ヘーベ、ここに居るのですか?」
「……………」
「ヘーベ、俺の声が聞こえていますか?」
「……………」
「ねえ、君、前に話したよね。今のヘーベに顕現するだけの力はないよ」
「アレス……!? でも、可笑しくないですか。アレスは俺の力だけで、姿を保っていますよね。ヘーベだって、俺が強く願えば、姿を現してくれる筈ですよね」
アレスの微笑が消え、首を左右に振った。
「ねえ、君、ヘーベはこれまで青春の女神として膨大な力を消費してきたんだ。君の母親が力を貸していたのもあるけど……。最後はタルタロスの結界から逃れるために、契約以上の力を使ったみたいなんだ」
俺はアレスの言葉を聞き、思い出した。
アリーシャはリヴァイの力で脱出したが、ヘーベはどうやって抜け出し。
更にヘーベルタニアの教会まで移動したのか、分からずにいた。
(もしかして母さんが、ヘーベを助けてくれたのかもしれない)
そう思ったが、それなら顕現するだけの力も分け与えて欲しかった。
「カザマ、ヘーベは居ないっすか?」
悲しそうに見つめるビアンカに、
「ビアンカ……大丈夫だ。アレスだって、こうして姿を現しているんだ。俺とビアンカが強く願えば、きっと姿を見せてくれる筈だ」
自分を鼓舞するためにも、敢えて力強く答えた。
「ヘーベ、諦めるなよ! 出来ないと決めつけるな! ヘーベは、青春の女神なんだろう! 熱く、熱く、もっと熱くなれよ!」
突然の俺の叫びに、ビアンカは目を丸めていたが。
「そうっす! カザマの言う通りっす! ヘーベ、頑張るっすよ!」
俺の意図を察したのか、ビアンカも声を上げた。
「ヘーベ、頑張れ!」
「ヘーベ、頑張るっす!」
俺とビアンカは、ヘーベを必死で応援する。
アレスとコテツが困惑した様に、顔を見合わせるが。
コテツの顔は白虎の子供なので表情は分からず、そんな気がしただけである。
俺とビアンカは、尚もヘーベを励ます声を上げ続けた――
しばらくして、アレスがヘーベの女神像を背にする様に、俺たちの前に立った。
「うん、君たちの気持ちは良く分かったよ」
アレスの言葉に、俺とビアンカは頬が緩み、ついでに涙腺も緩んだ。
「それじゃあ、ヘーベは姿を見せてくれるのですか?」
だが、アレスは静かに首を左右に振った。
「ねえ、君、君の気持ちはヘーベに届いているよ。ただ、答える事が出来ないんだ。いい加減、察してあげて欲しい」
「アレス、何ですか、その諦め口調は……。ヘーベは、どの神さまよりも情熱的で、熱い女神さまなんです。きっと頑張れば、姿を見せてくれる筈です」
「そうっす。カザマの言う通りっすよ」
俺とビアンカが、アレスに食って掛かる。
しかし、アレスは小さく笑みを浮かべ、また静かに首を左右に振った。
「ねえ、君、ヘーベはもう十分喜んでいるよ。ただ、これ以上は苦痛だと思うよ。人々の思いや願いに応えられないのは、神として辛い事だからね。だから、この辺で……」
アレスが俺たちを思いとどまらせようしたが、
「我が従者と仲間たちに、青春を……」
女神像から、微かだが聞き覚えのあるフレーズが聞こえた。
「えっ!?」
アレスの微笑が消え、驚いた様に振り返る。
「ヘーベ、ヘーベなのか!」
「ヘーベ、ヘーベっす! 今の声は、ヘーベっすよ!」
俺とビアンカは流れる涙を拭いもせず、笑いながら叫んだ。
ヘーベの復活を期待し、俺たちは昂った。
だが、それからヘーベの声が聞こえる事はなかった。
青春の女神が、俺とビアンカの思いに答えるため、僅かに残った力を振り絞ったのかもしれない。
もし、そうだとすれば俺たちの行為は、無駄にヘーベを疲弊させるだけであった。
それでも俺たちはヘーベの言葉を聞き、悲しみに暮れることなく。
先を見据えて旅立つのであった――。




