2.母親…
――異世界生活二年四ヶ月と一日目。
ベネチアーノの街には、モミジ丸の出航前のように。
或いはそれ以上に人々が集まっている。
今日はアリーシャの就任式が行われるからだ。
俺はアリーシャと話す事を許されていないが、離れた所から就任式を見守る許可を得ている。
許可というくらいだから、見守るというより人目のない所から観戦する程度であろう。
俺はアリーシャとモーガン先生の弟弟子の関係であり。
婚約者という以外でも親密な関係にある。
以前はモーガン先生の家で一緒に暮らしていたし、関係者でありながら俺に対する仕打ちは酷い。
当然この機会に文句を言うつもりである。
誰も俺に会いに来ないし、俺の不満は爆発寸前であった。
――カザマ大聖堂二階バルコニー。
大聖堂の前には沢山のヒトたちがごった返し、式典が始まるのを待っている。
当然大勢の兵士が警備を行い、厳重な警戒態勢が敷かれていた。
いつもなら俺の仲間たちも警備に参加するが、来賓として招待されている。
そのため、ボスアレスの街でアリーシャが所信表明を行った時よりも兵士の数が多く、警備が厳重だ。
あの時も画期的な演説に命を狙われたが、今回はそれ以上に突拍子のない式典なだけに、警備を行っている兵士たちは緊張した面持ちである。
俺はアレスと共にバルコニーの隅っこで、民衆たちから見えない場所に案内され。
アリーシャが現れるのを民衆たちと同様に、待ちわびていた。
正式に招待を受けた来賓には、ビアンカとブリュンヒルデさんとジャンヌの姿が見え。
モーガン先生やカトレアさんもビアンカたちの近くに居た。
他国ではビアンカの隣にロマリア王国の国王であるラウルさん。
アテネリシア王国の国王代理であるクレア。
クレアは代行というより、この式典が終わればなし崩し的に王位に就くであろう。
オーストディーテ王国からは、王位が不在なので宰相。
スィスティア公国からも領主の姿があった。
同盟国の主要な顔ぶれがならんでおり、中央にはユベントゥス王国の国王であるグラハムさんが居る。
今は、主役であるアリーシャの登場を待つばかり。
少しずつ周りの緊張感が高まり、じきにアリーシャが姿を見せるだろう。
俺は、そんな様子をアレスと共にじっと見つめていた。
「ねえ、君、さっきからそわそわして、落ち着きがないよ。トイレなら早めに済ませるように、いつも言ってるよね」
「アレス、俺もいつも言ってますが、トイレではありません。それより、周辺諸国の主要な人たちが集まっていますが、どうして俺たちはこんな隅っこに追いやられているのですか?」
アレスがいつもの様に意地悪を言ってきたが、我慢出来ずに愚痴を溢した。
「ねえ、君、君は再三国王から貴族にと声を掛けられたのに、断り続けたよね。それなのに、どうして庶民の君が周辺諸国の王族たちが集まる場に、同席出来ると思ったんだい? 幾ら病気でも、図々しいと思うよ」
アレスの言う事はもっともであるが、俺はニンジャという職業柄仕方なくそうしてきたのだ。
それなのにアレスが知っていて意地悪な事を言ったので、
「う、煩い! 俺だって好きで、こんな立場になった訳じゃない! 大体、みんなも俺の事情を知っているくせに、冷たいとは思いませんか?」
腹が立って怒鳴りつけてしまう。
「カザマ、そんなに大声を出しては、みんなに迷惑だわ」
俺がアレスに文句を言ったのを後ろから遮ったのは、アウラであった。
当然俺のターゲットはアレスからアウラに変わる。
「お、お前は……今まで何をしていたんだ! どうして俺を監禁したんだ! 誰も会いに来てくれないし、どれだけ俺が悲しい思いをしたか……」
アウラまで怒鳴りつけたので、流石に周囲の目が俺に向く。
衛兵たちが俺の元に駆け付けるが、アウラが制した。
「カザマ、落ち着いて頂戴。私もカザマに会いに行こうと思ったわ……」
アウラが優しく語り掛け、俺を抱きしめる。
(アウラのヤツ、どういうつもりだ……お、胸が柔らかくて、いい匂いが……)
アウラのぬくもりに緊張が解け、頬が緩んでしまう。
「マー君、鼻の下を伸ばして、どういうつもりかしら?」
だが、いきなりアウラの口調が変わった。
「えっ!? アウラ、急にどうしたんだ? 大体、自分から……」
戸惑う俺は、目と鼻の先にあるアウラの顔を見つめるが、
「カザマ、違うの。私だけど私じゃなくて……カザマに会いに行こうとしても、会えなくて……」
またも口調が変わり、アウラがいつもの調子で話し出す。
(アウラのヤツ、一体どうしたんだ? とうとうメルヘンを拗らせて、可笑しくなったのか?)
訳の分からない俺は言葉が出ず、困惑するが。
「マー君、心の声が駄々洩れよ。大体、マー君はアリーシャと婚約していたのに、アウラにヘラヘラして破廉恥だわ……!? もしかして、私にかしら?」
俺の心の声を読んだのか、アウラに突っ込まれるが。
アウラはひとりで二役を演じているのか。
幾らメルヘンで変わっているとはいえ、その変貌ぶりについていけない。
戸惑う俺を見かねたのか、アレスが口を開く。
「ねえ、君、いい加減気づくだろうと思っていたけど……わざとかい? 君はアウラに嵌っている指輪に気づいているんだよね? そもそもアウラは大天使の依り代なんだよ。もうそろそろ君の演技にも飽きてきたよ」
アレスが溜息を吐くが、演技をしているのはアウラの筈。
それなのに俺が責められて釈然としないが、薄々気づいていた。
しかし、どうしても認める事が出来ず、気づかない振りをしていたのかもしれない。
俺は母親に会った事がない。
物心つく前から母親の姿はおろか、痕跡すらなかった。
父親に聞いてもはぐらかされ、最近やっと形見の指輪を渡されたのだ。
「そんな事、アレスに言われなくても分かっています。ただ、今までずっと会えずにいたんですよ。それなのに、寄りによっても召喚された異世界で……」
「マー君、そんなに悲しそうな顔をしないの! アウラが心配しているわ。破廉恥なのは青春の女神の従者になって、色々と成長しただけでなく、変な事を覚えたのかしら?」
アウラではないアウラが眉を寄せて首を傾げている。
俺を叱りつけた上、俺を馬鹿にする様な口振りは、俺が召喚した仲間たちと同じに聞こえてしまう。
苛立つ気持ちを抑えるように、
「はあ……」
溜息にも似た深呼吸を一度して、目の前に居るアウラ。
いや、もうひとりのアウラと言った方が良いだろうか。
その正体が、一度も会った事がなかった母親だと認めた。
「い、いやー、初めまして……母さん……。アウラの姿をしてるから照れ臭いけど、本当はもう少し年上で大人な姿だよね」
照れ臭いのは本当だが、アウラの名前を出したのは建前である。
本当は単に一度も会った事がない身内で、どう接したら良いか分からなかっただけ。
ニンジャであろうとも、人の心まで変える事が出来ないのだ。
そんな思春期の俺の心が分からないのか、アウラの表情が険しく変わる。
「マー君、お母さんの事を気づいてくれて嬉しいわ。……でも、マー君はお父さんに教わらなかったのかしら? 常識を……」
身体をプルプル震わせて、俯いていたアウラが顔を上げると。
俺の胸倉を掴んで宙に浮かせた。
「ヒィイイイイ――!? 落ち着いて! 折角の綺麗な顔が……」
懸命に訴えるが、アウラは歯を食い縛り、左手でビンタを浴びせた。
強烈な一撃に頭がくらくらして、意識を失くしそうになる。
「マー君、この前は左だったから、今度は右のほっぺにしたわ。あまりお母さんを怒らせないことね。それに、そのセリフは何度も聞いているわ。大体、マー君は本当の私の顔を見た事がないわよね。言いたいことは、他にもあるけど……後は、今度にするわ」
「えっ!? 何で、母さん……」
俺は意識を失くしそうになりながらも、懸命に堪えたが。
アウラが手を離し、そのまま床に崩れ落ちた――。




