3.北海
――異世界生活一年と十三日目。
ライン川の河口を抜けて、久しぶりに海に出た。
本来モミジ丸は、広い海洋を航行可能な戦艦である。
ドナウ川やライン川が大きいと言っても、川を航行する船ではない。
ドックで建造中の戦艦クラスの船があるため、時機に巡洋艦クラスの船になってしまう。
それでも、現在では世界で最大クラスの戦闘艦である。
河口手前でネーデルラント王国の巡視船が何度か接触してきたが、モミジ丸はユベントゥス王国の船で、北欧に向けて航行中であると説明した。
巡視船のクルーは、離れた国の大型船が川から現れただけでも驚きなのに。
北欧を目指していると聞くと、返答に困ったのか何も問わずに通過する。
それから巡視船は離れた所からモミジ丸の動向を窺っていたが、ドーバー海峡ではなく北に向かっている事が分かると追従を止めたようだ。
「ブリュンヒルデさん、ネーデルラントの海軍は、なかなか規律が取れているみたいですね。この地域の海軍は、色々とレベルが高いのでしょうか? 俺はこれまでペールセウス将軍やオスマン帝国の海軍しか見てないので、他国の海軍の事が良く分かりません」
「カザマが私を頼ってくれるなんて珍しいわね。そうね……南の方は、アテネリシア王国が、勢力を伸ばして安定していたから、あまり技術的な進歩が必要なかったのかもしれないわ」
俺は北欧に近い場所なので、ブリュンヒルデさんに訊ねた。
だが、ブリュンヒルデさんは何か誤解しているのか頬を染めて、その頬に手を当てて小首を傾げる。
「そ、そうですか……確かに、技術は戦争で大きく発展しますよね」
「ブリタニア王国は、元々強い国ではあったけど、最近更に力をつけている感じだわ……!? でも、カザマの国は凄いわよね。最近は国王が代わっただけなのに、凄い発展をしているわ。カザマも賢者として名前が広まっているし、極東の男も……」
ブリュンヒルデさんの言う通り、最近のユベントゥス王国は急激に文明と文化が発展している。
グラハムさんの政策がきっかけだが、近頃は俺が現実世界の知識を活かして、色々と教えてしまったのが大きく影響していた。
軍事力に関しては、リョウマさんやクロフネに憧れて力が入ってしまった。
それから、極東の男の名前が広まるのは慣れてきたが……念のため、オスマン帝国で極東出身の者が、呼称していると広めておいたのは正解だったかもしれない。
ただ、俺の名前が広まっているというのは初めて聞いた。
「俺の名前が広まっているとは初めて知りましたが、どういう風に広まっていますか?」
「あらっ? 知らないの? カザマは強力な兵器を開発したり、賢者としても有名だけど……それらを元に莫大な財を築いた大商人として知られているわ」
ブリュンヒルデさんは、一瞬口篭った様に見えたが信じられない事を口にする。
俺は顔を真っ赤にしてブルブル震えると、ブリュンヒルデさんの頭を引っ叩いた。
「痛――い!」
ブリュンヒルデさんは、まるでアウラの様に両手で頭を押さえて蹲る。
「あっ!? ス、スミマセン! あまりに不快な言葉を聞いて、思わず……」
俺はブリュンヒルデさんに謝罪しながら、アウラの顔をちらりと見た。
「カザマ、いきなり何てことをするの! それに思わずと言い掛けて、私の顔をちらちら見ているけど、もしかして……」
アウラは、俺が思わずアウラと間違えて仕出かした事に気づいたようだが、
「アウラ、話がややこしくなるから黙っててくれ! ああ、もう……」
俺はとんでもないことをしてしまい、アウラに構っている余裕がない。
「カザマ、何を人事の様にうな垂れているのですか? アウラに対して、いつも注意しているのに……ブリュンヒルデさんにまで暴力を振るうなんて……」
「おい、お前、すぐに癇癪を起こして見っとも無いと思っていたが、見境もなくなってきたな」
「うむ、貴様という男は……」
「ねえ、君、再召喚された初めの内は大人しかったけど……最近、大分以前の様な熱い性格に戻ってきたね。僕としては……」
アウラに始まり、アリーシャ、リヴァイ、コテツ、アレスと甲板にいるビアンカとシェルビー以外の全員から叱られてしまう。
アレスの言葉は話が脱線しているだけでなく、聞き捨てならなかったが、今はそれどころではない。
「あの……ブリュンヒルデさん、すみませんでした……俺も悪気があった訳ではないのですが、事情がありまして……」
「カザマ、私はこんなことをされたのは初めで……どの様に返事をしたら良いのか分からないわ……もしかして、アウラがたまに口にしている様に……」
俺の謝罪に対して、ブリュンヒルデさんは先程と変わらず頬を染めて口篭る。
その様子に、先程黙らせたアウラが柳眉を顰めて声を上げた。
「ちょっと待って頂戴! カザマはさっきも誤魔化したけど、事情があってとはどういう意味かしら? それから、ブリュンヒルデは誤解しているだけだと思うの」
ふたりして趣旨に反したことで睨み合っているが、お互いのアイデンティティに関わる問題なのだろうか。
「ふたりとも、その辺で……」
俺がふたりを止めようとすると、アウラとブリュンヒルデさんから睨まれる。
更にアリーシャとリヴァイからも、コテツとアレスは冷ややかな視線を向けた。
険悪な雰囲気の中、艦長たちブリッジのクルーは、冷や汗を流しつつも業務をこなしている。
日頃からこんな環境の中で過ごして慣れたのか、色々と鍛えられているようだ。
そこへ、甲板にいるビアンカが気の抜けた声を漏らした。
「あっ!? 船が……近づいてくるっす」
「!? ビアンカ……どこから、何隻くらいだ?」
俺は、当然必要性があってだが、この険悪な雰囲気を打開するために乗っかる。
「後ろからっすよ……数は大きいのがひとつで、それより小さいのが四つっす」
「後ろというのは、モミジ丸の向かっている方角とは反対という意味か? 大きいというのは、モミジ丸と同じくらいか?」
「自分でも見ればいいっすよ……向きはそうっす。でも、大きさまでは遠くてはっきり分からないっす」
「悪い、つい興奮してしまった。俺では、まだ見えないから……ビアンカだけが頼りなんだよ。悪く思わないでくれ……」
ビアンカはそもそも悪くなくて、ただ遊んでいる最中に偶然見つけただけである。
周辺を監視するクルーがいても、ビアンカの視力・聴力・嗅覚などの感覚には到底及ばない。
そういう意味では、相手も気づいていない可能性が高いので有利だ。
俺はビアンカに謝ったが、隣で俺を見つめる強い視線を感じて振り向く。
アウラとブリュンヒルデさんが、まだ怒っているのかと思ったが違った。
アレスが微笑みを湛え、俺を熱い視線で見つめている。
俺は、まだ痛い目に遭ったり、酷い目にも遭っていないのにと首を傾げた。
だが、ふと思い出してしまう……。
(確か、さっきアレスは、ヘーベの加護の事を言ったのだろうが……大分以前の様な、熱い性格に戻ってきたと言っていたな……)
俺は顔を引き攣らせて、周囲の警戒を強めた。
――フリースラント諸島沖。
ネーデルランド王国からゲルマニア帝国の北海沿岸の地方は、フリースラントと呼ばれている。
更にフリースラントからデンマルク王国にかけて、本土から少し離れた海域に島々が連なっており。
これらの美しい島々をフリースラント諸島と呼ぶそうだが、西フリースラント諸島の沖合を航行中のモミジ丸に、ブリタニアの艦隊が迫る。
本当はビアンカが敵の艦隊を発見した後、そのまま逃げれば良かった。
でも、敵の船の情報や動きが気になり、離れた場所から観察していたのがばれてしまったのだ。
ちなみに、この事実は俺以外に艦長しか知らない。
そもそもモミジ丸とブリタニア王国の艦隊は、ネーデルランド王国の領海であるため、領海侵犯で攻撃されても可笑しくない筈である。
しかし、ライン川の河口から離れていったネーデルランドの巡視艇が、再度現れないのはブリタニア王国と何かしらの公約があるかもしれない。
だが、あまり良い条件ではないのだろう。
取り敢えず、ゲルマニア帝国の領海に入れば、流石にブリタニア王国の艦隊も諦めて引き返すに違いない。
数ではこちらが不利、しかも相手の力が未知数となれば、出来る限り戦闘は控えたいところだ。
「ブリュンヒルデさん、先程も少し伺いましたが……ブリタニアの戦艦は、どの程度の強さでしょうか?」
「あらっ!? また私を頼ってくれるのかしら……どの程度と言われても、この辺りはでは、大陸の西にあるヒスパニア王国やポルドン王国の海軍が一番強かったのだけど……最近では、ブリタニア王国も力をつけているし、カザマの影響でユベントゥス王国も強力だと言えるわ」
俺は大陸の西にある二つの国について、何となく聞き覚えのある名前からすぐにどの国なのか理解した。
そして、以前エリカが修行していた国が、それらの国のどちらかであると気づく。
(今頃、エリカはまたどちらかの国に行って修行しているのだろうか……どうやら、この辺りの時代設定は、大航海時代みたいだから……もしかしたら先に日本へ向かっているかもしれないな……)
俺は現状の心配よりも、エリカの冒険の事を思い浮かべ目を閉じて頷く。
「ちょっと、カザマ……それが人に訊ねている最中の態度なのかしら? 急にニヤニヤして挙動不審に顔を揺すって……昨日も似た様な事をしていたけど、気持ち悪いわ」
「ええ、確かにその通りだわ。カザマはたまに不可解な言動を取ることがあるの。私も正直、気持ちが悪いと思うわ……でも、私は大丈夫だから、ブリュンヒルデは無理をしなくても良いのよ……」
「ふたりとも、今はカザマの礼儀に対して注意している最中ですよ。幾ら言動が気持ち悪いとはいえ、個人的な感情を話すのは後にして下さい。カザマはこういう僅かな隙を突いて、すぐに誤魔化してきますから注意が必要なんです。カザマ、反省してますか?」
「おい、お前、昨日叱られたばかりだろう。お前は本当に懲りないヤツだな……気持ち悪い……」
「うむ、貴様は……もう何度も口にしたが、学習出来ないのか……!? もしかして、貴様の国に……『馬鹿と天才は紙一重』という言葉があったが、貴様のことか……」
「ねえ、君、今は結構非常時だと思うけど、余裕があるみたいじゃないか……もしかして、久しぶりに決死の覚悟で戦うつもりなのかい?」
ブリュンヒルデさん、アウラ、アリーシャ、リヴァイ、コテツ、アレスの順にみんながそれぞれの思いを口にしたが、昨日と同様に酷い言葉ばかりである。
「や、喧しい! ちょっと、考え事をしていただけでしょう! 何で、考え事をしているだけで、そこまで言われなければならないんですか! 大体、みんなの態度はいつもいつも……」
俺が昨日の興奮を思い出し、再び声を荒げていると……いい加減慣れたのか、艦長が口を挟む。
「あの……お取り込み中すみませんが、敵の艦隊が近づいています。敵の大砲の性能は分かりませんが、モミジ丸でしたら攻撃可能な距離です……」
「はあーっ! どういうことだ! 発見されてから、一時間も経っていないだろう! こちらを捕捉されただけでも、驚きなのに……モミジ丸は、第三戦速で進んでいるのではなかったか? まさか、こちらも最大船速でないにしても、あちらも同等以上に足の速い船なのか……軽船なら兎も角、モミジ丸と同程度の大型もいるんだぞ」
俺は艦長の進言に、みんなからの悪口も忘れ、動揺を顕にする。
戦闘艦は大型になると速度を出し難くなるため、艦隊行動を取る場合は、大型艦に速度を合わせるのだ。
俺が敵の戦艦を、モミジ丸と同レベルではないかと警戒したのも、そういった理由があったのである。
「カザマ、落ち着いて下さい。我々は、この海域を知りません。敵の艦隊は、風や潮の流れを利用してモミジ丸より速度を出したと思われます」
「うーん……確かにそうだな。こちらは、北海は初めてだからな。モミジ丸と同レベルとは言い難いが……!? クロフネじゃないか!」
俺は艦長の説明を聞き落ち着きを取り戻しつつあったが、敵の船から黒煙が上がっているのに気づいて声を上げた。
「カザマ、落ち着いて下さい。我々もクロフネは、既に実戦配備されています。他国が開発していても可笑しくありません。情報はどうやっても漏れてしまいますし……それに動力伝達は、水車方式で従来型のようです。我々のスクリュープロペラ方式は採用されていないと思われます」
俺は艦長の言葉を聞き、再び気持ちを落ち着かせると左掌に顎を載せ、瞳を閉じて静かに頷く。
確かに、艦長の言う通りで蒸気機関は他国も採用している様だが、そもそも歴史通りであれば当たり前だと言える。
寧ろ、艦長が指摘したスクリュープロペラは、もう少し後の時代に開発されるものだから、他国も簡単には発明出来ないようだ。
「カザマ、私たちが話している最中だったけど……また気持ち悪い仕草をしているわ。イヤラシイ……」
「ええ、確かにその通りだわ。カザマは何度言われても治らないの……でも、気持ちが悪いとは思っていたけど、卑猥なことを考えているとは知らなかったわ。私のことかしら……」
「もう! ふたりとも、ちょっと黙ってろ!」
俺は、またも我慢出来ずに、今度はブリュンヒルデさんとアウラさんの両方の頭を引っ叩いた。
「「痛――い!」」
ブリュンヒルデさんとアウラは、ふたり仲良く同じ様に両手で頭を押さえて蹲る。
「カザマ、あなたという人は、何度も何度も……」
アリーシャが眉を寄せて顔を真っ赤にして怒っているようだが、途中でリヴァイが俺の前に現れたと思ったら、意識を失くしてしまう――。




