4.観衆のこころ
俺は歓声を浴びる内に引き攣った笑みが消え、懐かしい感覚に頬が緩む。
気づけば、知らず知らずに観客に手を振っていた。
その中には商会の偉い人、今では商会長さんになったらしい。
他にも酒場の店員や酒場で出会った飲み仲間、嘗ての撤退戦で苦難を共にした若い騎士たち、その中でも聞きなれた声が響く。
「極東の男、頑張るっす!」
「極東の男、負けたら一億返して下さいね!」
無人の筈のビップルームからビアンカとロキさまの声が響き、拍子抜けさせてくれる。
俺は自分自身の心を落ち着かせる様に頷きながら、そしてビアンカとロキさまがこれ以上何も言わない様にと手を振ってみせた。
すると、途端に周りが静まり返り、何となく身に覚えのある光景に小首を傾げる俺に対して、ペールセウスは予期せぬ事態に動揺を見せる。
「おい、この卑怯者め! 今度は何を企んでいる!」
『そうだ! この卑怯者!』
ペールセウスの言葉に呼応する様に、ペールセウスの配下らしいサクラたちが観客席から野次を飛ばす。
俺は何もしてないのに罵声を浴びせられ、ホームであるにも関わらずこの仕打ちに俯いてしまう。
しかし、今回はやはりホームであった。
「お前は黙ってろ! 今、極東の男が静かにする様に合図しただろう! お前らも余所者だろう! この街のマナーを守れ!」
「そうだ! この街のマナーだ!」
『おおおおおおおおおおおおおおおお――!』
酒場の店員の言葉に呼応する様に、酒場の常連から周囲の観客に伝わり、大声援に変わる。
ペールセウスとサクラの配下たちは完全に沈黙する。
俺は嘗ての帝国時代の酒場での出来事を思い出し、再び頷きながら手を振った。
再び闘技場は静寂に包まれ、俺は話し始める。
「みんな、久しぶりだな。元気そうで安心したぞ……とは言ったが、こっそり何度か街に戻っていたので、みんなの頑張りは知ってる。これから決闘を始める前に、みんなに話したいことが二つあるんだ」
俺はみんなが自分の話に集中している様子を見て、満足気に頷く。
「み、民衆たちよ! 騙されてはダメだ! アイツは、これから嘘をつくぞ!」
「黙れ! 極東の男が首を振ったのが分からないのか! この余所者め!」
「この街のマナーだと教えただろう! 貴族さまのくせに馬鹿なのか!」
「そうだ! お前は引っ込んでろ!」
『おおおおおおおおおおおおおおおお――!』
いつもは俺が何かする度に叱られるが、今日は何故か何もしてないのにみんなが庇ってくれる。
ペールセウスは、何故罵声を浴びているのか理解出来ないのであろう、奥歯を噛み締め俺を睨んだ。
俺はペールセウスの嫉妬には慣れたのでスルーして、みんなの温かさを感じて目頭が熱くなり、目元を手で押さえながら頷いた。
すると、またもあっという間に観客席が静寂に包まれる。
「みんなに聞いてもらいたいんだ……俺は遠く離れた東の国から来たが、たまたま運良く辿り着いたため帰る事が出来ないんだ。だが、とある賢者さまが弟子として迎えてくれたんだ。生きていくために必死で頑張ったが、俺は賢者さまの弟子の中で一番弱くて、魔法の才能もない落ちこぼれだったんだ。自分の非力さと孤独に押し潰されそうになった事は、両手両足の指の数より多い程あったんだ……でもな、そんな俺に対しても姉弟子たちが一生懸命指導してくれて、弱いながらもそこそこ戦える様になったんだ。弱い自分が成長出来ただけでなく、精神的に支えられて本当に感謝している」
俺はここで一度言葉を切って、周囲を見渡すとペールセウスが俺を睨みつけ、観客席ではペールセウスの配下らしい者たちがそわそわしている。
だが、大半は俺の話に集中している様子であった。
俺はその様子に満足して頷くと、話を続ける。
「しかし、ある日、俺の姉弟子を異国の賊が二度も襲撃して命を狙ったんだ。俺の怒りがどれ程であったか、分かるか? 俺は必ず仕返ししてやろうと思ったが、姉弟子は頷いてくれなかったんだ。俺が危険な目に遭うかもしれないと心配して……本当に優しい人であるのだが……それだけでなかったんだ。自分が嘗て何度も迫害され家族を失い、辛い思いをたくさんしてきた姉弟子は、他者を思いやる自愛に満ちていたんだ。俺は女神さまではないかと思ったね」
俺は再び間を置き、周囲を見渡す。
ペールセウスとその配下たちは変わらないが、観客席が少しざわめいている。
俺は戸惑うのも無理がないと思い頷いた。
「女神さまは言い過ぎかもしれないが、寛大な女神さまは思ったくらいではお怒りにならないから誤解しないで欲しい」
俺はちょっとだけ場を和ませようとしたが誰も笑ってくれず、苦笑を浮かべて頷く。
「――えーっ……話を戻すと、俺は姉弟子を襲撃した賊の仕返しは二の次にして、せめて今後襲撃を受けない様に、賊の正体を探る事と襲撃の目的を調べるために、この街にやって来たんだ。酒場で会ったみんなは、当時の俺の事を覚えているだろう」
「おう! あの時は極東の男から、為になる話をたくさん聞かせてもらったぜ!」
「諸君! 騙されてはダメだ! ヤツはどうでもいい話をして諸君を混乱させている!」
俺の話に酒場の店員が声を上げて周りにいた酒場の常連も頷いているが、ペールセウスが堪らず声を上げる。
「黙れ! 酒場のヤツラが頷いているのが分からないのか! 何度同じ事を言わせるつもりだ! 街のマナーを守れよ!」
「そうだ! お前は引っ込んでろ!」
『おおおおおおおおおおおおおおおお――!』
またもペールセウスは観客から説教と罵声を浴び、悔しさを抑えるかの様に奥歯を噛み俺を睨みつけた。
「――ありがとう。街にやってきた俺は、すぐに賊を探す事が出来たが、皇帝が雇っていた傭兵だったんだ……その後の事は、街で噂になっている通りだ。俺は酒場や商会の人たちとたくさん話したし、若い騎士たちとも死線を越えたからな……」
俺が以前を懐かしみ感慨に耽っていると、
「だから、なんだというのだ! 先程から決闘とは関係のない話ばかりではないか! 民衆を惑わす様な事ばかり……諸君、騙されてはいけない! この男の話は嘘ばかりだ! この男はペテン師だ!」
ペールセウスが耐え切れなくなったのか、観客に向かって声を荒げる。
「黙れ! 極東の男は嘘をついてないぞ! 嘘つきはお前だ!」
「そうだ! この卑怯者め! 街の英雄を貶める事ばかり言って、いい加減にしろ!」
あちこちから、ペールセウスに対する野次が飛び交う。
ペールセウスは想定外の出来事であったのか、顔から汗を噴き出している。
俺はペールセウスの言う様に、決闘とは関係のない話ばかりをしていた。
だが、生活に不自由なく育った貴族さまは、生きるために必死な庶民たちを理解していないようだ。
特に、長く悪政に苦しんだ民衆の気持ちを理解出来なかったのだ。
しかも俺の話は、初めの方は些細な事であったが、酒場の常連たちは何となく察しがついたであろう。
次第にみんなが良く知る話へと繋いだのである。
それに対してペールセウスは、俺の話と周囲の反応で怒りを抑えきれずに冷静さを欠いてしまった。
俺の話は嘘でないと知る観客たちに、声を荒れげて嘘だと叫んでしまっては、最早誰もペールセウスの話を信じる者はいない。
「おのれ、計ったな! 極東の男、いつもいつも姑息な手を……」
ペールセウスは余程悔しいのか、もう今では毎度の様に怒りで震えているが、俺は構わず観客に手を振り、頷いてみせる。
「俺は罵られたり、蔑まされたりするのに慣れている。貴族さまと違って、庶民の俺は見た目が貧相に見えるのか侮られてしまう。……だけど、自分が罵られたり、蔑まれているからといって、他人に同じ様な事をしたくない。俺は人の弱みに付け込む様な事をするのは嫌いなんだ。どうせなら、相手の良いところを探して褒めてあげる様な人でいたいと思う。みんなにもそういう人でいてもらいたいんだ。ペールセウスが何を考えて、俺を蔑む事ばかり口走っていたか分からない。もしかしたら何かしら理由があるかもしれないし、英雄と呼ばれている男だから、或いは偽者なのかもしれない……」
俺はペールセウスをちらりと身ながら、観客に両掌を上げて見せた。
「き、貴様! 私を侮辱するのも大概にしろ!」
再びペールセウスが声を上げるが。
「黙れ! さっきから極東の男を侮辱しているのは、お前だろう! 恥を知れ!」
「そうだ! それに、極東の男の話している最中だ! いい加減、マナーを守れ!」
再び観客席から野次が飛び交う。
「みんなの憤りは分かるが、さっき言った様に相手を悪く言うのは止めよう。他人を罵っていると自分の心が荒んでいく様な気持ちにならないか? それよりも、初めに言ったけど、話はもうひとつあるんだ」
ペールセウスは相貌を歪めて俺を睨みつけているが、何か話す度に野次が飛ぶので、俺の悪口を言うのを我慢している様子。
観客が何事かとざわめいてきたのを見渡すと、俺は手を振り頷く。




