1.美の女神さまからの報酬
――異世界生活七ヶ月と四日目。
デンマルク王国軍合流から三日目の朝、当初の目的を果たした俺たちは王国軍の兵士たちの歓声を浴びつつ飛び立った。
まだ早朝にもかかわらず休戦した事が軍の中に広まり、俺たちの功績は英雄の様に称えられている。
まだ話が決まって僅かな時間しか経っていないのに楽観的な気がするが、これまでのワルキューレたちの圧倒的な進撃を考えると分からなくもない。
普通の人間のアリーシャは兎も角、俺はみんなの中で一番弱いので弱者の気持ちが良く理解出来た。
コテツは小さい姿のままアーラに乗っていたが、野営地から遠ざかると元の大きさに戻り、同じくアーラに乗っていたアリーシャとリヴァイを背中に乗せる。
正体がばれて騒ぎになるのを防ぐためであったが、途中までアーラは完全に定員オーバーで飛んでおり。
俺とアリーシャにアレスとリヴァイとコテツが跨り、普通に考えれば異様な光景であったが、最早誰も気に留めなかった。
行きと同じ様に、アレスに誘導されるが航路は異なっている。
ゲルマニア帝国から警戒されないための配慮だと思い、アレスに従い景色を楽しみながら大人しく進む。
平原地帯から次第に山々が見えてくると、しばらくしてオーストディーテ王国領内に入る。
俺はデンマルク王国の寒さが嘘の様にガタガタと震え出す。
みんな何も言わないが、旅立つ前の防寒着だけで苦にならないか心配した。
ビアンカとアウラは、寒いのは慣れていると以前聞いたが事がある。
だが、普通の人間であるアリーシャは、凍死しそうな寒さに耐えられる筈がない。
俺の心配を余所に、アリーシャとリヴァイはコテツの力で寒さを感じていない。
デンマルク王国を出発してから、今回も数時間の飛行で王都であるディーンの街に到着した。
――ディーンの街。
俺たちは二日前に特使として街の門を通過して、今回も美少女と子供とペットを連れた俺は目立っており、門で足止めされる事はない。
そのまま王宮の奥の神殿に向かうが、衛兵たちも俺たちを咎める事なく案内してくれる。
神殿に入った俺たちの案内は、途中から神官に代わり礼拝堂に入った。
――礼拝堂。
神官は俺たちを案内すると、名残惜しそうにしつつも部屋を後にする。
俺たちは、祭壇の前に並んで膝を着く。
勿論アレスとリヴァイとコテツはいつも通りであるが。
しばらくして祭壇の前が眩く輝き、アフロディーテさまが現れた。
俺たちは視線を落として、アフロディーテさまの声を待つ。
「良くぞ、戻りました。我が従者とそのお友達のみなさん」
「へっ!? 俺は、従者ではないですよ。そもそもヘーベの従者でもないですし……」
本来は勝手に声を上げては非礼なのだが、俺はヘーベの真似をするかの様なアフロディーテさまの言葉に思わず突っ込んでしまう。
いつもならアリーシャに叱られるところだが、アリーシャも驚いているのか反応がない。
「うふふふふ……私もヘーベーの様に言ってみたかっただけです」
アフロディーテさまは、小さく笑い声を出すと頬を染めて呟く様に答えた。
俺は絶世の美女が恥らう姿に目を丸めるが、アリーシャとアウラが俺を睨んでいる。
「そ、そうですか……俺の国ではないですが、『隣の芝生は青い』ということわざがあります。アフロディーテさまの周りにも、大切に思っている人がいると思いますが……」
俺は隣に並ぶふたりの視線を気にしながら、アフロディーテさまの話を無難に逸らそうとした。
アフロディーテさまは左手を頬に添えて小首を傾げると、俺を見つめる。
俺はその視線に耐え切れず、顔を熱らせ俯いてしまう。
(ブリュンヒルデさんも女神さまと同じくらい綺麗だったが……美の女神さまの美しさというか視線は堪らん……もしかして、魅了という女神さまの力なのか……)
俺が戸惑っていると、アフロディーテさまは祭壇から降りて、俺に向かって足を進める。
俺は狼狽しつつも、このままではダメだと先手を打つ。
「あ、あのー……お借りしていたペンダントをお返しします」
俺は首に掛けていたペンダントを差し出し、頭を下げた。
アフロディーテさまは俺の目の前で腰を落とすと、膝を着ける様にして俺の間近に迫る。
そして、ペンダントを受け取ると思いきや、そのまま俺の手を握ってきた。
「ヒ、ヒィイイイイイイ――っ!? お、畏れ多いですよ……」
「お、畏れながら、アフロディーテさま。カザマはヘーベーさまの従者ですよ。他の女神の従者を相手に……い、いけないと思うんですけど! いけないと思うんですけど!」
完全に萎縮してしまい声を上げるのがやっとの俺に対し、アリーシャが恐る恐るもアフロディーテさまを諌める。
二度も声を上げたのはどの様な意図があったか分からないが、俺は危険な流れが遮られ安堵した。
アフロディーテさまは邪魔をされて気分を害したのか、一瞬美しい相貌を顰めたかに見えたが、すぐに微笑を湛えアリーシャに視線を移す。
「アリーシャ殿、貴方は私が見込んだ通りのようですね」
「えっ!? お、仰ることが分からないのですが……」
アリーシャは女神であるアフロディーテさまを諌めて、怒りを買うと思ったのか。
逆に好感を持たれた様な反応をされ、困惑した様子である。
「アリーシャ殿、そのままの意味です。稀に人間と対話をすることがあるのですが、私を畏怖するばかりなのです。本心が聞けないばかりか、思っている事と逆の事を平然と口にされると落胆してしまいます。しかも、それがずっと……嫌になってしまうわ。それに引き換え、カザマは本当に素直です。口では畏れ多いと言っても……うふふふふ……」
アフロディーテさまは女神さまらしく、迷えるアリーシャの疑問に答えると。
俺の顔を見つめながら微笑を湛え、小さく声を漏らす。
俺はどの様に返答すれば良いのか分からず、強張った笑みを返すが。
アリーシャは女神さま相手にも怯まない。
「分かりました……ですが、畏れながらカザマを甘やかすのは止めて頂きたい。先の戦いの最中もワルキューレの方々を相手に破廉恥な事をして、罰を与えて頂いたのに反省する様子が見られません。カザマの態度はアフロディーテさまを軽んじていると思いますが」
「お、お前……!? アリーシャ、畏れ多いぞ。あまり余計な事を言っては……」
俺はアリーシャの物言いを心配しつつも、自分の事を悪く言われ興奮する。
しかし、すぐに恐怖で竦んでしまい、アリーシャを諌める声が小さくなった。
目の前に立っているアフロディーテさまの微笑が引き攣る。
俺はアフロディーテさまが怒った事をすぐに察して、本当の事を言って誤解を解こうと声を上げるが、
「ヒ、ヒィイイイイイイ――っ!? 悪気はなかったんです! 俺はただ友好的に接しようとしただけなんです! でも、何故か上手く行かずに誤解を受けて……違いますよ……!?」
アフロディーテさまは右手を振り被り、ビンタの体勢に入る。
そして俺の訴えにも似た最後の言葉も届かず、アフロディーテさまは右手から手首のスナップを利かせてビンタを往復で浴びせた。
尚も怒りが収まらないのか、何時の間に用意したのかムチを手に取ると、俺に向けて思い切り打ち付ける。
俺は額を床に着け身体を丸めて耐えるが、隣にいたみんなは手際よく俺から離れていた。
「ご、ごめんなさい……で、でも、俺は本当に友好的にと……す、少しだけ、好意があったのは認めますよ。スクルドさんは話が合いましたし、ゲイルさんは男言葉で個性的で……ブリュンヒルデさんは、アフロディーテさま程ではなかったですが、キラキラして綺麗でした。でも、それだけなんです。俺も年頃の男ですから、何も感じないのは人間の男として違うと思いますよ」
俺はムチで打たれながらも懺悔の言葉を吐いたが、少しずつムチの勢いが弱くなる……。
ゆっくり顔を上げるとアフロディーテさまは微笑を湛え、口を開く。
「私の方が美しいというのは分かりますが、カザマの言葉は嘘偽りなく心に響きました。それにカザマの言葉通り、人間の若い男性に性欲があるのは健康的であると言えるわ」
アフロディーテさまは、愛と美と性を司る神さまである。
俺は久しぶりに分かってもらえたと歓喜に震え、女神さまを見つめるが。
アリーシャだけでなく、アウラも機嫌が悪くなったのか俺を睨んでいる。
「ねえ、ふたりとも、そのくらいにしてもらえないかな。懺悔が済んだのなら、話を進めてもらわないと、後の予定がつかえているだよね」
アレスの言葉で、周りの雰囲気は一気に変わった。
「そ、そうね……北の軍の攻撃が止まった様ですし、約束通りご褒美を与えないといけないわね」
アフロディーテさまの言葉を聞き、やっと話が進められると安堵する。
俺はワルキューレたちに説明したことをそのままアフロディーテさまにも話したが。
アフロディーテさまは美しい相貌を顰め、返事が返ってこない。
怪訝に思った俺は、隣に立っているアレスに顔を向ける。
「うん、まあ、そうなるよね……君が提案したことは案件が大き過ぎて、自国のことであれば兎も角、如何にアフロディーテといえども、ひと柱の神だけでは決める事が出来ないよ。神々から多くの支持を受けるか、力を持った神の口添えが必要だろうね」
アレスの話を聞き、俺はすぐにヘーラさまの事を思い出した。
「アレス、取り敢えず俺の提案を、アフロディーテさまから親しい神さまに伝えてもらうとして、ヘーラさまに約束を取り付けたらどうでしょうか?」
「えっ!? カザマ、ヘーラさまにお願いするつもりかしら?」
俺の問いにアレスが答える前に、アフロディーテさまが双眸を見開き声を上げる。
アフロディーテさまだけでなく、アリーシャとアウラも驚いた様に目を丸めて俺を見つめた。
「うん、そうだね。アフロディーテの面子を潰すかもしれないけど、お互いのために妥当だと思うよ。本当に双方に利益があるなら、結果を出した提案を初めに支持したアフロディーテの評価も上がるし、悪い方に進んでも逃げ道はあるからね」
「アレス、軍神の割りに、戦いに関係のない事に、随分関心があるみたいね……」
「うん、関心はあるよ。戦いは武器を振るっての戦いだけではないと、カザマと関わる様になってから知ったんだ」
ふた柱の神さまたちの会話を聞いて、俺は意を決して更に説明する。
「俺の世界での戦争は、直接命のやり取りをする軍事的なものだけでなく、経済的な打撃を他国に与える分かり難いものがあるんです。経済的な圧力はすぐに効果は現れません。ただ、じわじわと相手を苦しめ、自国の損害を抑える事が出来ます。俺は勿論、そういう誰かを苦しめるようなことはしたくないですが……」
「カザマ、あなたの言っていることはイマイチ良く分からないけど、流石は極東の男と言ったところかしら……極東には、カザマのような物凄い商人ばかりいるのかしら?」
「あ、あのー……畏れながら、私にはカザマの言っていることが分からないのですが……カザマはたまに、私の聞いたことがないことを口にすることがあるのです。それに、カザマは先程……『俺の世界』と口にしました。それから、ワルキューレもカザマを他の国の神と口にしていました。もしかして、本当に神さまなのですか?」
これまで恥かしがり屋のためか、立場を弁えてか、大人しくしていたアウラが好奇心を抑えきれなくなったかの様に口を開き、隣にいるアリーシャも無言で頷いている。
「私にも良く分からないわ。どう見ても人間にしか見えないのだけど、違和感があるのよね……魅了が通じないし……」
アフロディーテさまが、アウラとアリーシャに共感するかの様に呟くと。
これまでじっとしていたリヴァイがアフロディーテさまを睨み。
コテツも身体を起こしてアフロディーテさまを睨んだ。
「リヴァイ、コテツ、落ち着いて下さい。俺を庇ってくれるのは嬉しいですが、俺は賢者に近い程の博識だから、みんなが勘違いしているだけですよ」
俺は普段何かと自分を中傷してくるふたりを見直して宥める。
俺の声を聞いて、全く無関心だったビアンカがコテツを宥め、アリーシャもリヴァイを宥める。
「まあ、君は変わってるけど、神にも分からない人間がいてもいいんじゃないかな。僕はお陰で随分楽しめているし、アフロディーテも不満はないだろう? アリーシャとアウラもカザマに対して畏怖している様子は見えないし、それにふたりともカザマが仮に神であったら困るんじゃないかな? このままで良いと僕は思うよ」
アレスの説得は効果的であった。
俺が訳の分からない人間扱いで納得出来ないが、ドエスな神さまだけであって他者の弱みを突くのが巧妙である。
「確かに、アレスの言う通りね。アウラ殿、この話題はこれで終わりにするわね……ところで、カザマの褒美は聞いたけど、アリーシャ殿は私が庇護を与える事で良いかしら? 今の王が王位を譲ると思えないから、私があなたの街に移ることにしましょう。他のみなさんは、何か望みはないかしら?」
アフロディーテさまの突然の話に俺たちは驚愕し、アリーシャがどの様な返事をするのか無言で見つめるが、アリーシャは顔を顰め困った様に俺を見つめた。
「あ、あのー……その話は少し待ってもらえませんか? この前耳にしたばかりで、アリーシャが返事に困っています。保留ということではいかがでしょうか?」
俺は困惑するアリーシャの気持ちを代弁するつもりで、アフロディーテさまにお願いしたが、アウラとビアンカも口を開く。
「畏れながら、私は何も望みませんが、カザマの言う通りにお願いします」
「アタシからもお願いするっす」
アリーシャの強張った表情が緩み、微笑が毀れる。
「そ、そう……普通は大喜びする筈なのに……少し不快に感じたけど、慎み深くて益々好感を持ったわ。しばらく考えて頂戴。みなさんへのご褒美も保留にするわ」
アフロディーテさまは自身を否定されたと思ったのか、表情が引き攣り言葉にされた通り不快感を顕にしたが、本来不遜ともとれる態度にも関わらず寛大な対応を示した。
コテツとリヴァイも先程まで険悪な態度であったが、今は初めと同じように落ち着いた様子である。
「うん、話は概ね纏まったみたいだね。一度国に帰って、ヘーベに会ってから船でヘーラの神殿に行こう。カザマはヘーラに貢物があるし、これまでの経緯を考えるといきなり空から現れたら警戒されるだろうしね。アフロディーテはアテナへの根回しをお願いするよ」
「分かったわ……カザマ、折角会いにきてくれたのに、もう帰ってしまうのね……」
アフロディーテさまは返事をすると、熱い視線を俺に向けた。
俺は先程アフロディーテさまが何気に口にした魅了という言葉を思い出し、出来るだけ視線を合わせない様にして、別れの挨拶をする。
「色々とお世話になりました。それから色々とお願いをしましたが、よろしくお願いします。またお会いする機会があればと願っています」
アフロディーテさまの頬が赤く染まった様に見えたが、アリーシャとアウラの表情が険しくなり、俺はみんなを引き連れそそくさと礼拝堂を退出した。
俺たちは神殿と王宮を後にすると、街の観光をすることなくヘーベルタニアへと向かう――。




