ノスフェラトゥ
その日は仕事で嫌なことがあって、帰宅時になってもそれを消化できず、いらいらしていたのだ。それがいけなかったと、今は思う。
けれど、一体誰にそんなことが前もってわかろうか。
会社からの帰り道、Pは人通りのない道端の石に向かってむしゃくしゃした思いを全てぶつけた。川べりに向かって力いっぱい石を蹴飛ばしたのだ。石は勢いよく川辺に茂った丈高い葦の中に飛び込んだ。
「ギャッ……グルルルルル……」
次の瞬間、怒りにみちたうなり声とともに、大型犬ほどの漆黒の塊がPのほうへ飛び出してきた。
「うわっ……!」
思わぬ展開には悲鳴をあげ、後ずさった。一瞬その生き物は真っ黒い犬のように見えたが、全身の輪郭は定かではなく、吸い込まれるような闇色の中に、金色の瞳のない目がぎらぎらと輝いていた。
「おまえ……よくも俺に石をぶつけたな!」
しゃがれた中年男のような声で、犬がしゃべった。
「え。や……そんなつもりは……す……すみません……」
Pはもごもごと答えた。
「気持ちよく昼寝してたのになぁ~グルゥゥゥゥーーー」
黒い犬の言葉は、後半すさまじいうなり声に変わっていた。Pはじりじりとあとじさった。ヤバイ、何かものすごくヤバイ。
くるりと犬に背を向け、全力疾走しようとしたが、後ろを向いたところで体がまったく動かなくなった。
「まだ話が終わってないんだよね~」
黒犬がPの前方に回りこんできて、鼻面にシワを寄せ、かっと口をあけた。白い牙が夕日を受けて鈍く光った。
「お前、大きくは無いけど……恨みを込めて石を蹴ったろ」
Pは何か言おうとして、やめた。
「……お前に良いものをやろう。お前はこのあと当分死ねなくなるぞ」
黒い犬はPの前に座り、かっと口を開けてけたけたと笑った。
「昼寝の邪魔をした礼だ」
笑い声を木霊のように残し、黒い犬はそのまま自分の影に溶け込み、消えた。Pはその場に立ち尽くし、呆然と今まで犬がいた場所を見つめていた。
「あ~~あ、やっちゃったね~、君」
背後から間延びした声が聞こえ、Pはあわてて振り返った。
黒いシャツにジーンズというPとは対照的な、白いスーツを着た青年が皮肉っぽい笑みを浮かべ、佇んでいた。愛嬌のある表情の青年は普通の人間に見えるが、奇妙なのは彼が地面から10センチほどの高さに浮かんでいるという点だ。
「や、やっちゃったって?? な、何をです……!」
Pは上ずった声で叫んだ。
「あ~、面倒だなあ。君みたいなのがいるから、ボクが忙しくなるんだよなぁ」
青年は面倒くさそうに髪をかき上げ、宙に浮いたまま、滑るようにPに寄って来た。
「君は呪われたわけ。わかる?」
Pの鼻先にすらっとした指を突きつけて、青年が言った。
「君は今後しばらく死ぬことができない」
「そ、それなら死なないってことでしょ!」
青年はふふんと笑った。
「わかってないねぇ。君」
指をPの鼻先でくるくる回し、青年がせせら笑った。
「100回死んで生き返るまで、何度死んでも生き返り続けて死ねないんだよ?
病気も事故も普通にあうしさ。ちゃ~~んと痛いし苦しいよ?
生き返ったらぜ~~んぶ治ってるけどね~」
「それじゃあ不死じゃないじゃないかっ!」
Pは上ずった声で叫んだ。
「だって100回まではちゃんと生き返るもん。そういう点では不死でしょ」
青年は愛想よく笑った。
「まあいいや、じゃ、またね~」
「また……って……え?」
明るい声とともに青年もまたかき消えた。
夕日の河原。その土手道に、Pだけがただ茫然と立ち尽くしていたのだった。