ほんとうの気持ち
悪い夢を見ていた。
飛び起きると背中は汗でびしょびしょで、視界がぼやけ、揺らめいてる。
まだ夢の中にいるのではないかと不安になって、左手首の傷口を指先で軽くつついてみた。
少し痛い。
良かった、夢から覚めたんだ。
窓の外に見える空はオレンジ色で、夕暮れ時だということがわかった。
僕は伸びをしてカーテンを閉めた。
誰かが外から見ている気がして、いつもはカーテンを閉め切っている。
ノックの音。
「……はい?」
部屋のドアが開いて、お母さんが入ってきた。
「大丈夫?急に外に出たから、体がびっくりしちゃったのね」
ああそうだ。
僕はあいつに無理やり外に駆り出されたせいでぶっ倒れたんだった。
そういえば、今僕の意識ははっきりしてるのにユキの姿は見当たらない。
「仕事場にクレープ屋さんが来ててね、世恋の分もあるから、食べれそうだったら食べてね」
「うん、ありがとう」
お母さんが部屋を出て行っても、ユキは出てこない。
まあ、あんなヤツいないほうが気楽でいいんだけどね。
何気なく本棚に目をやると、心理学の本がいつもと違う場所に置かれていた。
「誰だよ、勝手に……」
本棚の前に立ってよく見てみると、心理学の本以外にも、中学生のころに買い漁った精神病やこころの専門書も並びが変わっていた。
どれも心が病んでいるときに買ったものだ。
そんなものを読んで何かが変わるとは信じていなかったけど、気休め程度にはなるだろうと考えていた。
お母さんが読んだのかな。
もしかして、心配かけちゃってるのかな……左手首の傷も結構目立つし、お母さんなら気付いてるはずだ。
別に辛いとは感じてないけど、炎上事件が起きたときから情緒不安定になっている自覚はある。
おまけに変な生き物を召喚しちゃったし、精神的にも肉体的にもキツい。
いじめられている夢を見たのもきっとそのせいだ。
机の椅子に座って、棚の上にびっちり並んだ参考書の背表紙を眺める。
あらゆる欲求を捨て、死に物狂いで勉強した毎日。
辛くはなかった。
アドレナリンが大量に出ていたんだろうな。
いつもなら暇さえあればネットの海を泳いでいたのに、今はパソコンを立ち上げるのも億劫だ。
諦めの気持ちが大きく膨らむ。
このままネットは引退かな。
そんなことを考えると、鼓膜にすっと入り込む冷たいハイトーンボイスが聞こえた。
「世恋ちゃん、おはよ」
僕は驚かなかった。
何となく予想はしていた。
僕は返事をしないまま考える人を演じる。
「世恋ちゃんがネット引退なんて、よっぽどショックだったんだねえ」
そうだよ。
友だちに無視されたときよりも、受験に失敗したときよりもショックだった。
「どうしてそんなにショックなんだい?」
ネットの中では上手に生きることができた。
みんなが僕をすごい人として見てくれていた。
「でもさあ世恋ちゃん、ネットの中のキミはキミじゃないだろ?」
「……は?」
「だからあ、ネットの世恋ちゃんは世恋ちゃんじゃない。有倉タカキは所詮、現代技術が生んだ虚像に過ぎないんだよ」
「僕は………っ」
「その喋り方。気に入らないんだよねえ。ハッキリ言って、イタいよ(笑)」
「う、うるさい……」
顔が熱くなる。
2号にも同じことを言われた。
それ以来、家族の前でタカキを演じるのはやめた。
「仮にだよ?世恋ちゃんが有倉タカキとしてネットで有名になったとする。そうなれば有倉タカキをもっと知りたいと思う人間が出てくる。有倉タカキの正体はすぐに晒されるだろうね」
……それは困る。
「有倉タカキがニートの女の子だと知ったら、ファンの子はどう思うかなあ?世恋ちゃんは、多くの人を騙して、自分にも嘘吐いてるんだよ」
ユキは僕の目の奥をじっと見つめて話す。
その目は僕を睨んでいるようにも見えて、目を逸らしたいのに逃げられない。
「ネットだからって人を騙して、ファンの気持ちを弄んでいいわけ?」
ユキが何を考えてそんなことを言うのか理解できない。
怒っているふうでもなく、淡々と喋り続ける。
「世恋ちゃんは自分だけが傷付いてると思い込んでるよねえ」
ユキはそう言ってベッドの上にダイブした。
僕は何も言えなくて、椅子に座ったまま下を向いて伸び切った爪を見つめていた。
ユキは仕事用のバインダーを開きながら鼻歌を歌っている。
このままでいいわけがない。
僕だって。
ほんとうは。
学校に行って、勉強がしたい。
休みの日には友だちと出かけて写真を撮りたい。
家族が恥をかくような仕事はしたくない。
朝起きて太陽の光を浴びて、夜には充実感で満たされて寝たい。
一人でいるのなんて好きじゃない。
僕の体が全部嘘で出来ているような気がして、全身が痒くなった。
「…………ねえ、ユキ」
「どうしたの」
「教えてほしいんだ……どうしたら、上手に生きられるのか」
「ふうん……ま、それはキミ自身で答えを見つけるべきだよ。ボクの仕事は人間を救うことだけど、魔法が使えるわけじゃないからねえ。依頼人の意志を奮い立たせて、勇気づけてあげるのがボクの役目だから。……がんばれる?」
「…………うん。私……がんばるよ」
◆つづく◆