やっぱり僕はバカだった
外に出る。
それは僕にとっては出頭するよりも気が重くなることだ。
まあ、出頭するようなことはこれまでに一度もなかったけど。
顔を洗ってすっきりしたばかりなのに、額と鼻に大粒の汗をかいた。
「準備できたかい?」
ユキの問いかけに対して、僕は小さく頷くだけで精一杯だった。
引きこもってから半年ちょっと。
半年だぞ?
一年の半分も外に出てなかったのか、僕は。
玄関で埃かぶったスニーカーに足を突っ込んで、紐はキツく結んだ。
団地の狭い玄関でしゃがみ込んだまま立ち上がることができない。
やっぱり、やめようかな。
「ほら早く立って」
「ちょっ」
ユキが僕の両脇の下に腕を通して引っ張り上げる。
僕の体は無理やり直立姿勢にされた。
「……行きたくない」
中学生のころを思い出す。
ほんとうは行きたくなくて、毎日こうして扉の前で十分ほど立ち尽くしていた。
「大丈夫だから」
ユキがドアを開けた。
いつ履いたのか、ユキは底の厚い白いスニーカーを履いている。
ドアの隙間から差し込んできた光が僕の眼球にクリティカルヒット。
いってえ、まぶしー。
「太陽光は健康にいいんだってさ。どう?久しぶりの太陽さんは」
「暑いし眩しい」
「はあ、まったく。ほら、行くよ」
ユキに手首を掴まれて僕は強制的に外へ出された。
僕は見逃さなかった。
ユキは僕の左腕を掴もうとしたけど、右腕を選んでくれた瞬間を。
僕の左手首には傷があるからだ。
僕とユキを繋いだ傷が。
「ほら、ちゃんと鍵かけて」
「合鍵持ってないんだけど……」
そうだ、僕は合鍵を持っていない。
なぜならそんなものは必要ないからだ。
これで散歩をナシにする口実ができたぞ!
「……仕方ないなあ」
ユキも折れてくれたのか、家の中に戻って行った。
でも、ユキ一人で。
は?
僕だけで散歩に行かせる気か?
いやいや、無理だろ(笑)
「世恋ちゃん、ボクがこのドアをノックしたらちょっとの間だけ無心になっててくれるかなあ」
「はい?」
「いいから、頼んだよ」
何をするつもりだこいつは。
カチャン。
扉の向こうから錆び付いた鍵がかけられた音が聞こえた。
コンコン。
続いてノックの音。
僕は目を瞑って深呼吸をする。
久しぶりの外の空気。
空気にも味があるということを実感する。
「世恋ちゃん」
「うおわっ?」
目を開けるとすぐ目の前にはユキが立っていた。
なるほど、そういうことか。
「そうだなあ……今日は初日だし、近場だけ歩いてみようか」
「あ、待ってよ」
ユキが勝手に歩き始めたので僕も必死に追いかける。
こいつ、歩幅デカいな。
一メートルくらいあるんじゃね?
久しぶりに歩く町の景色は半年前と何も変わらない。
雪があるかないか、それくらいだ。
「手、つなぐ?」
僕より二メートルほど先を歩くユキが振り返って言った。
バカじゃないの?
そんなことしたら僕、イタい子だと思われちゃうじゃん。
直接怒鳴ってやろうかと思ったけど、それこそ酸素や窒素もろもろにストレスをぶつけるヤバい人だと思われてしまうので心の中で呟いた。
今はちょうど夏休みの時期だから、知り合いに鉢合わせないか内心焦っていた。
知り合いが僕を見たところでなにも思わないんだろう。
でも、僕はそれが恥ずかしくて、惨めでたまらないんだ。
僕は怯えながらもユキの背中を見ながら歩き続けた。
「少し休憩しようか」
町の外れにある寂れた公園まで来ると、ユキはブランコに腰を下ろした。
僕もユキの横にぶら下がったブランコに乗る。
「疲れたねえ」
「精神的にね」
「ボクは足腰が痛いよ」
「老人じゃん。あ、前世は犬だったからじゃないの」
「そうかもねえ。犬のときは一日中走り回っても疲れなかったから」
「筋肉もないしね。男のくせに」
「いやだなあ。言っておくけどさ、これは世恋ちゃんの理想に忠実なビジュアルなんだけど」
「忠実……それはない。さすがに細い。あと、僕は意地悪な人は好きじゃないし」
公園の前を犬を連れたお婆さんが通り過ぎて行った。
お婆さんは横目で僕を見て不思議そうな顔をした。
ブランコに喋りかける僕はどんな風に見えたんだろう。
ユキもお婆さんと犬をじっと見つめていた。
「……ユキ?」
「ああ、うん。そろそろ戻ろうか」
あれ、なんか元気ない?
犬を見て前回の仕事のことを思い出したのかな。
僕、ユキのこと何も知らないや。
「ねえユキ」
「なんだい」
「犬、好きなの?」
「どうして?」
「さっき、ずっと見てたじゃん。それとも前回のお婆さんのことを思い出して寂しくなったとか?」
僕は小走りでユキの横まで行くと、ユキの顔をのぞき込むようにして聞いてみた。
「あながち間違いではないかな」
ユキは前を見たまま答えた。
その声には抑揚がなくて、喋るだけの機械みたいだった。
「ユキの話、聞かせてよ。興味が出てきたんだ」
「ふうん」
ユキが急に足を止めた。
ユキより三歩ほど行ったところで僕も足を止める。
「ユキ?」
町中で一人で喋るなんてイタすぎる。
でも、そんなことよりも今はユキのことが気になる。
「世恋ちゃん、これはあくまで仕事だから。必要以上にお互いを知るのはやめようよ。ね?」
「え、どうして?」
だってユキは。
「どうしてもこうしてもないよ?ほら、よくあるじゃん。社内恋愛は禁止、みたいな。そんな感じだよ。これは取引であり契約なんだからさ」
「で、でも」
ユキは彼氏、なんだから。
「ボクはキミが好きだから彼氏になったわけじゃない。そのほうが都合がいいんだよ。世恋ちゃんみたいな可哀想な女の子の場合はね」
は?
訳わからん。
だってお前が勝手に彼氏になって、僕のことを振り回したんじゃないか。
「そんないかにも傷ついたって顔しないでくれる?ボクが悪いみたいじゃないか」
もういい。
もうたくさんだ。
それ以上なにも言わないで。
僕は涙が出たのと同じくらいのタイミングで走り出した。
ユキなんか知らない!
少しでもあいつをいい人だなんて思った僕がバカだった。
僕はほんとうにバカだ。
クズでそのうえバカ。
僕は泣きながら家まで走った。
人の目なんて全然気にならなかった。
自分のことだけ考えて走った。
当然、ユキの姿は無い。
家の前まで来て、鍵がかかっていることを思い出す。
チャイムを押しても、家には誰もいないみたいだ。
2号はまだ友だちの家だろう。
お母さんが帰ってくるまで待つしかないのかな。
……ユキに頼むのも気が引ける。
なんだよ、いつもなら呼んでないのに出てくるくせに。
汚れた玄関扉の前に背中を預け、そのまましゃがみ込んだ。
まだ太陽は高いところにあって、水色の宇宙に浮かんだ入道雲が今は夏だと主張している。
暑い……
久しぶりに日光にさらされたせいか、気分が悪い。
こめかみのあたりがズキズキして、鼓膜の奥のほうで耳鳴りが聴こえる。
あ、なんかヤバいかも。
「せれ……」
一瞬だけユキの声が聞こえたけど、その姿を見るよりも先に、僕の世界は真っ白になった。
◆つづく◆